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第90話:緋の国の運命 -その3-

 フィゲラスは、アンドリューから不意に押し付けられた赤ん坊の世話に追い立てられていた。

 赤ん坊は泣き疲れて眠る以外、ずっと泣き叫んでいる。喉を枯らした嗚咽は、別室のフィリシアや、上階のリディの耳にも届いていた。しかし、外から鍵をかけられたフィリシアは、部屋から一歩も出ることができない。リディも何か手伝いたいと思うが、「部屋から絶対に出るな。」というアンドリューの言葉が耳に残り、二の足を踏んでいた。

 だが、とうとうフィゲラスの忍耐も底をつき、いっそフィリシアの手元に戻してしまおうかと赤ん坊を抱き上げた――― そこへ、

「大変そうだな。」

 アンドリューの突然の帰還に、フィゲラスは飛び上るほど驚いた。何せ、アンドリューの言いつけに背こうとしていたところだ。悪い事はできない。

 アンドリューは、ベッドで暴れる赤ん坊の手元に、柔らかな白い布をあてがった。すると、赤ん坊はその布を握りしめて泣きやみ、間もなく穏やかな眠りについた。

「これは・・・ハーブの香りですか?」

「草の繊維で編んだ布に、ジャコウ草の揮発油を染み込ませたものだ。具合の悪い時にこの匂いを嗅ぐと気分がよくなるのを思い出して持ってきたが・・・役に立ったな。」

「助かります。手に負えなかったので。」

 落ち着いたところで、アンドリューは口火をきった。

「すぐに荷造りをしてくれ。明日にでも、ここを出る。」

「全員、一緒にですか?」

「・・・いや、フィゲラスとフィリシアと赤ん坊の3人でだ。」

 フィゲラスは、一瞬、息を止めた。

「どういうことです?」

「国王は、赤ん坊が成人するまで、二人を遠い田舎へやることにした。フィゲラスには、赤ん坊の教育係として同行してほしい。」

 フィゲラスは、首を振った。

「私に選択の余地があるとは思いませんが、絶対に嫌です。」

「・・・フィリシアが、嫌いか。」

「嫌いです。でも、そんな感情的な理由ではありません。」

「ジェード国王の命令だ。それでも駄目か。」

「アンドリュー様。あなたが、私を国外追放したのですよ?今の私はジェード人ではない。ここへ来たのも、リディ様に頼まれたからであって、断じてジェードのためではありません。」

「今回の件は、限られた人間だけの秘密にしておかねばならない。虫のいい頼みだとは思っている。だが、ジェードの未来がかかっているのだ。土下座をして頼めというなら、喜んで跪こう。」

 フィゲラスは、瞼を伏せて息をついた。

「やめてください。こんな一介の医師に、頭を下げてはなりません。」

「では、どうすればいい?」

「なぜそんな質問をするのです?アンドリュー様は、わかっているではありませんか。私が、リディ様の命令には絶対に逆らわないことを。」

「・・・リディは、お前を手放さないと思う。」

「そうでしょうか?アンドリュー様のためなら承諾しますよ。私の気持ちなんて関係なく、もう、結論はでているのです。」

 アンドリューには、返す言葉がなかった。

 フィゲラスの言い分はよくわかる。だが、フィゲラスの身上に責任を感じているリディは、今回ばかりは逆らうとも思っている。だから、フィゲラスに直接話をしたのだ。

 フィゲラスは、天井を斜めに見上げて、言った。

「アンドリュー様は、私がいとも簡単に国や家族を捨てたように思っていたかもしれません。でもそれは、私にとって、一生孤独に生きるという辛い覚悟でした。その私に、容易く『ジェード国のために』などと言わないでください。」

「・・・すまない。だが、」

「荷造りをします。アンドリュー様は、どうぞリディ様のところへ。」

 フィゲラスは、「もう話は決まった」と言わんばかりに手のひらを出口へ向けた。

 アンドリューは扉の前で、肩越しに振り返った。

「・・・リディが、どうあってもフィゲラスを手放さないと言ったら、どうする?」

「光栄なことです。その時は、リディ様を連れて逃げます。・・・多分、ありえないことですが。」

 

「早ければ明日にでも、この城を出る。」

 アンドリューの言葉に、リディは、頷いた。

「ジェード国王は、フィリシア達を王宮へ招くおつもりですか。」

「いいや。フィリグラーナ王妃の精神をおもんばかって、赤ん坊が成人するまでは遠い田舎で暮らさせることになった。国王は、フィゲラスを赤ん坊の教育係として同行させる様、俺に命じた。」

 リディは、アンドリューを真っ直ぐに凝視した。

「私から、フィゲラスを取り上げるというのですか?」

「国王には、フィゲラスが国外追放されたことを話していないからな。」

「フィゲラスは、何て?」

「国外追放しておきながら、国のために働けなどと言うなと、たしなめられた。」

「今、フィゲラスの身分はどうなっているのです?」

「表向きは、総督府の医師として感染症におかされ、死亡したことになっている。」

 リディは唇を引き締め、少し考えてから言った。

「ジェードに残れば、フィゲラスが再び家族に会える可能性はありますか?」

「それは難しいだろう。フィゲラスは、知り過ぎている。フィリシア達が行く田舎は、国王の教育係だった伯爵の別荘だ。別荘番の夫婦は現役引退した元将校と王室の元女官長。近くには軍の練習場。何人たりとも入り込めない敷地は、同時に何人も逃げ出すことはできない。」

「体のいい軟禁生活ですね。」

「そうだ。フィゲラスはもう、俗世へは戻せない。赤ん坊の成人と同時に王宮に入り、然るべき地位と新しい名を与えられ、王医として一生を過ごすことになる。」

 リディは、胸元で両手をきつく握りしめた。捕らわれの身であっても、ジェードでは安全と贅沢が保障される。それが、フィゲラスの幸せになるだろうか。

 迷うリディに、アンドリューは続けた。

「国王の命令に背けば、フィゲラスは間違いなく始末される。」

「・・・!フィゲラスをここへ連れてきたのは私の意志です。」

「それより前に、召還したのは俺だ。俺だって、フィゲラスを危険に曝すことは本意ではない。フィゲラスがいなければ、俺もリディも、とっくに死んでいたのだから。」

 そう、フィゲラスは命の恩人だ。

 そのフィゲラスを「貰い受ける」と大口をたたいたのは、自分だ。

 プラテアードの財産を守りきることは、自分の務めだ。

 リディは、顔を上げた。

「フィゲラスは、私が、何があっても守ります。」

「・・・守れるか?ジェード国王の刺客から、フィゲラスを守りきれるか?」

「私一人では限界があります。アドルフォ城の仲間に土下座でも何でもして、協力を仰ぎます。私は城に入れなくても、フィゲラスは必ずキールの下へやります。」

「キールには、フィリシアのことを話して許してもらえ。フィゲラスがいなければ、フィリシアと赤ん坊の命がどうなっていたか知れない。それを話せば、リディがプラテアードを裏切ったとは言わないだろう。」

「キールは私の身を案じて反対したのです。それを私は、」

 突然、リディが息を殺した。

 身を構える仕草に、アンドリューも身体を固くした。


 ・・・

 

 階下で、物音がする。

 それは、生活の音ではない。

 アンドリューは、部屋の扉を打ち破る勢いで飛び出すと、階段を下るのももどかしく、20段あまりを飛び降りた。

 異常な気配に、リディも続く。 

 階下では、必ず閉じられているはずの部屋の扉が、開け放しになっていた。

 突き当りのフィリシアの部屋に一歩踏み入れたアンドリューの足が、はたと止まった。

 アンドリューの肩越しに中を覗き込んだリディは、思わず口を押えた。

 薄いエメラルド色の布が、床に丸めておいてある――― ように見えた。

 だが、その先に見えた長い髪と、木の床に染みだした鮮血が、すべてを物語っていた。

 アンドリューは、すぐにもう一つの部屋へ飛び込んだ。

 そこは、フィゲラスの部屋。

 目に飛び込んだのは、背の高い黒づくめの男が、フィゲラスの丸めた背中に向かって剣をつきたてている姿。

「フィゲラス!!」

 アンドリューが叫ぶと、黒づくめの男が振り向いた。

 口元も黒い布で覆っているが、疑う余地はない。

 フィリグラーナの隠密、ジェリオだ。

 ジェリオは、剣先をフィゲラスから離すことなく、くぐもった声をあげた。

「私が欲しいのは、赤ん坊の命のみです。他の方を傷つけることは致しません!」

「フィリグラーナの命令か!?ジェード王妃が、ジェードの未来を壊す気か!?」

「アンドリュー様に、あの方のお気持ちはわかりません!」

 フィゲラスは、赤ん坊を胸にかばって、ジェリオの刃の下で震えていた。

 ジェリオはフィゲラスから赤ん坊を奪おうと、強引に肩を掴んだ。

 こんな状況だというのに、赤ん坊は声ひとつあげない。

 アンドリューの背筋に、悪寒が走った。

「ジェリオ、フィゲラスから離れろ!」

 アンドリューは腰から剣を抜き、ジェリオの右肩に、刃を振り下ろした。

「うっ!」

 ジェリオがのけぞった隙に、フィゲラスは追い込まれていた部屋の隅から逃げ出した。

 アンドリューは、ジェリオに剣を向けたまま、叫んだ。

「フィゲラス、行け!」

 フィゲラスは、脂汗の滲んだ額で、前にアンドリューから言われた言葉を思い出した。

 ――― 俺がフィゲラスに『行け』と言ったら、その馬車でリディと一緒に逃げろという意味だ。いいな。俺の合図は一度、ただ一言だけだ。―――

「はやく、エンバハダハウスへ!!」

(エンバハダハウス・・・?)

 何のことかわからないが、リディならわかるのだろう。

 フィゲラスはそう思い、一歩、二歩、後ずさり、次の瞬間には部屋を出た。

 アンドリューが振り下ろした剣は、ジェリオに致命傷を与えたわけではない。

 フィゲラスを追いかけようとするジェリオの前に、アンドリューが立ちはだかった。

 アンドリューは改めて、剣を構えた。


 部屋から出たフィゲラスは、フィリシアの部屋にうずくまるリディを見つけた。

「リディ様!」

 リディは、横たわったフィリシアの手を握りしめて言った。

「まだ脈がある。フィゲラス、助けてあげて!」

 フィゲラスは、その言葉を無視した。

「アンドリュー様の命令です、行きますよ!」

「まだ助かるのに!」

「駄目です!!」

「この人はプラテアードの犠牲になったの、それを」

「御自分の立場をわきまえてください、リディ様!」

「見殺しにしろと言うの!?」

「そうです!どうせ今までだって、散々犠牲にしてきたじゃありませんか!」

「!!」

 フィゲラスは、リディの手首を掴むと、引きずるようにして螺旋階段を駆け下りた。

 今はとにかく、アンドリューに言われたとおり、この城を出なければ。

 それ以上のことは、もう考えられない。

 フィゲラスは、一頭引きの馬車にリディを押し込んだ。

「しっかり抱いててください。」

 フィゲラスは赤ん坊をリディに押し付け、御者台に乗った。

 手綱を持った手が、震えている。

 アンドリューが言う「エンバハダハウス」がどこにあるのか、見当もつかない。

 だが、とにかく出発しなければ。


「やあぁっ!!」


 フィゲラスは、自らを奮い立たせるように、力任せに鞭を振った。

 三人を乗せた小さな馬車は、薔薇城を出て、狂ったように走り出した。

 

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