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第89話:緋の国の運命 -その2-

 マリティムは、朝の訪れと共にハロルド伯爵―――爺やを呼び寄せた。

「ジュノーの別荘の手筈は整ったか?」

「仰せのとおりに。別荘番にも、よく言い含めてございます。」

 ジュノーは、王宮から最も遠い場所にある、山脈の麓の小さな農村である。村外れの湖に姿を映す石造りの館は、代々ハロルド伯爵家の別荘として受け継がれてきた。水車小屋や小さな畑、果樹園、季節の花を愛でる庭園と、非日常を楽しめる静かな環境が魅力だ。マリティムは、フィリシアと子が穏やかに暮らせる場所として、ジュノーの別荘を選び、様々な手配をハロルドに依頼していた。

「それから、できるだけ早く神使を召還したい。」

「かしこまりました。今夜にでも、お連れ致します。」

「極秘の話だ。北の塔へお連れしてくれ。」

「では、時刻が決まり次第、お知らせにあがります。」

 執務室から出てきたハロルド伯爵は、扉の脇で番をしていたレオンに目をくれることなく、素早くその場を立ち去った。

 ほどなくして、マリティムが廊下へ出てきた。

「不審な者を見かけたか?」

「いいえ、今のところは。」

「そうか。これから私は自室へ戻る。レオンは少し休むとよい。」

「陛下の自室であろうと、部屋の外で護衛させていただきます。」

「・・・フィリグラーナとの会話は、聞かれては困るのだ。」

「では、少し離れたところでお待ちいたします。」

 マリティムは、顎を上げて背筋をのばした。

 フィリグラーナに、話をしておかねばならない。隠密のジェリオから、プラテアードの偽王女が出産したことは聞いているだろうが、その子が紋章付であることは知る由もない。

 自分以外の女が正統な跡継ぎを産んだことを、フィリグラーナが許すはずがない。

 しかし、フィリグラーナが子を産んでは絶望することを、これ以上繰り返させたくない。母親から離され、寂しい思いをしている子供たち。母親に会ったら会ったで罵倒され、泣かされている不憫な子供たち。フィリグラーナに、もはや子育てはできない。それなのに、「紋章付の子」を授かると信じてマリティムを抱きしめる。「次こそは当ててやる」と博打をやめられない、依存症のように。それは、夫である自分自身で、力づくでもやめさせなければならない。


 フィリグラーナは、リビングの柔らかなソファの背もたれに頬を埋めて、虚ろな目を濁らせていた。

 マリティムが部屋に入ると、フィリグラーナは幽霊のように立ち上がり、ふらつきながら近づいてきた。フィリグラーナの蝋人形のような白い腕が自分の肩にかかった瞬間、マリティムは言った。

「もう、そなたが子を産む必要はない。」

 フィリグラーナの腕が、ビクッと震えて硬直した。

 マリティムは、フィリグラーナの視線から顔を反らして、続けた。

「プラテアードから来た偽の王女が、ジェードの紋章を戴いた子を産んだのだ。」

 フィリグラーナの息遣いが聞こえない。

 それを振り切るように、マリティムは言い放った。

「もう、そなたが苦しむ必要はない。紋章付の子を産まねばならないと、己を追い詰めることもない。すべてから解放されて、心安らかに余生を過ごすことができる。」

 フィリグラーナは、マリティムに背を向けた。

「・・・用済みの私は・・・どうなるのです?」

 振るえて擦れた声が、不安を訴えた。

「何も変わらない。ジェード王妃として、一生をこの城で過ごすだけだ。プリメール国の安泰も保障する。」

「偽の王女や産まれた子は・・・いつ、王宮へ?」

「産まれた子が成人し、私の後を継ぐことになる日まで、この城へは入れぬ。そなたの眼に触れることもない。」

「では、陛下が二人に会いに行くと・・・?」

 マリティムは、年に二度「領地視察」の名目で遠出する時、フィリシアと子に会いに行くつもりでいる。しかしそれは、フィリグラーナが知る必要のないことだ。

「いや、――― 会うつもりは、ない。」 

 フィリグラーナはそれ以上何も言わず、「疲れたから休む」と言って、寝室へ入っていった。

 マリティムは大きく息を吐き、膝から落ちるように椅子に座った。

 これで、良かったのだろうか。

 こんなことで、フィリグラーナは納得したのだろうか。

 もっと、叫んで罵倒されると思っていた。

 もっと、詰られると思っていた。

 もっと、激しく、泣き叫ぶと思っていた。

 が、実際は、拍子抜けするほど静かだった。

(いや。今は現実として受け取っていないだけかもしれない。)

 しかし、それを考え憂う暇はない。

 次から次へと、片付けていかねばならない問題が山積している。

 マリティムは詰襟の襟元をゆるめて、テーブルの上にあった冷めた紅茶を飲み干すと、執務室に戻るため、部屋を出た。



 フィリグラーナは、寝室のフランス窓からバルコニーに出た。

 憎らしいくらいの晴天。日差しの眩しさに、目を細める。

 生地の薄い薔薇色の寝間着のままで、フィリグラーナはバルコニーから中庭に降りた。

 覚束ない足取りで、芝生の小路から噴水を横切り、花園からこぼれた花びらを無造作に踏みつけ、庭の片隅の東屋あずまやへと向かった。

 薔薇水晶を贅沢に用いたドーム型の屋根の下に辿り着くと、フィリグラーナは丸椅子に腰かけながら、小さな声で「ジェリオ」と呟いた。

 東屋の後ろの茂みが、ガサッと音をたてた。

「ジェリオ、大丈夫よ。出てきて。」

 この東屋での会話は、噴水の水音が周囲から遮ってくれる。

 隠密のジェリオは、黒づくめの服で、緑色の葉陰から静かに現れた。

 ジェリオは芝生の上に跪き、頭を垂れた。

 フィリグラーナは、ジェリオに背を向けて力なく言った。

「ジェリオは昔、アンドリューの額の模様を見たと言っていたわね。」

「はい。・・・フィリグラーナ様は、忘れるようにおっしゃいました。」

「そうね。あの紋章は王族と神使のみの秘密だったから。この大陸の王族には、満月の光で浮かび上がる紋章を戴く者と、戴かない者が混在しているの。古の時代から、紋章を戴かない者が王位を継ぐと国は亡びると言われていて・・・。だから私が産んだ子は皆、王位を継げないの。ジェード王室にとって、要らない子なの。」

 ジェリオは、フィリグラーナが自分の子を疎んで遠ざけていた理由が、やっとわかった気がした。

 周囲の者は、フィリグラーナに育児能力はないとか、子供嫌いだとか、精神の病で手が付けられないとか、散々陰口をたたいていたが、そうではなかったのだ。

 フィリグラーナが子供たちに冷たく当たっていたのは、紋章を戴かない「要らない子」そのものへの苛立ちではなく、その「要らない子」を産んだ自分自身への腹立ちだったのだろう。

 国王のマリティムだけはその真意を知っていたから、フィリグラーナを決して責めず、召使たちへどんな態度をとっても目を瞑っていたに違いない。

「要らないということは、ないでしょう。陛下は、どの子にもわけへだてなく愛情を注いでいらっしゃいます。」

「・・・今回ね、プラテアードから連れてきた偽物の王女が産んだ子が・・・紋章を戴いているというの。」

 ジェリオは、顔を上げてフィリグラーナの細い肩を見上げた。

「その子が・・・跡継ぎとなるのですか。」

「そうよ。私の産んだ子では、国が滅びてしまうもの。そんなこと、陛下が許すはずがない。」

「フィリグラーナ様は、どうなるのです?」

「今までどおりでいいと言うの。偽の王女と子供は、しばらく王宮へは入らないらしいし、プリメール国との同盟もそのままだと・・・。でも・・・。」

 フィリグラーナの声が一旦つまり、そして、

「それでも・・・!」

 振り向いたフィリグラーナの瞳から、透明な涙が零れ落ちた。

「私は・・・私が許せない・・・!」

 ジェリオは、気位の高いフィリグラーナの涙を、初めて見た。

 白い頬を伝う玉が、文字どおり真珠のようだ。

「私は、偽物に敗北したの。本物の王妃である私が・・・どこの馬の骨ともわからない女に負けたのよ!!」

「フィリグラーナ様・・・!」

「私が・・・、プリメールの紋章を額に戴くこの私が、平民に負けたなんて・・!」

 感情を露に立ち上がったフィリグラーナだったが、足に力が入らず、倒れそうになった。ジェリオはすかさず、その儚げな身体を抱き止めた。

 隠密が、主人の身体に触れることは、本来許されない。ジェリオはフィリグラーナを再び椅子に座らせてやって、すぐに離れようとした。が、フィリグラーナは座った後も、ジェリオの肩にしがみついて、その手を離さなかった。

 フィリグラーナは、ジェリオの広い肩に目頭を埋めて、声を押し殺しながらも全てを吐き出すように嗚咽した。

 振るえる肩を押さえてやることもできず、ジェリオはただ、膝をついてフィリグラーナの意のままになっていた。

 

 少しだけ日が傾き始めた頃、フィリグラーナは濡れた睫毛を持ち上げて、言った。

「ジェリオ。王族と神使以外の者が、紋章の秘密を知ったらどうなると思う?」

「・・・口封じ、でございますか。」

 フィリグラーナは、優しい口調で残酷に告げた。

「そうよ。運命がね、その口を封じるの。」

 フィリグラーナはそう言って、ジェリオの背中に手を回して、耳元に唇を寄せた。

「ジェリオ。・・・私と一緒に、地獄へ落ちてくれる?」

 雲一つない青空に、一瞬、激しい風が吹いた。

 木々の木の葉がざわめき、そしてまたすぐに、静寂が戻った。

 ジェリオは、穏やかに答えた。

「私は、産まれた時からフィリグラーナ様にお仕えするために学び、身体を鍛え、育ちました。私はフィリグラーナ様のために生きているのであって、それ以外に生きる意味はございません。フィリグラーナ様のためなら、地獄の底だろうと、地の果てだろうと、どこへでも参ります。」

「・・・こんな運の無い王女の隠密でなければ、もっと幸せな人生が遅れたのにね。」

「何をおっしゃいます?」

 ジェリオは、静かに微笑んだ。

「世界一お美しくて、これほど気高い王女様にお仕えできるジェリオは、間違いなく果報者でございます。」

「・・・・!」

 フィリグラーナは、再び泣き続けた。

 ジェリオは黙って、ただ傍にいることしかできない。

 だが、心中は固い決意で溢れていた。

 こんなフィリグラーナを、この世の誰であれ、責めることなど許さない。

 自分だけは、永遠にフィリグラーナに付き従う。

 

―――  フィリグラーナの涙から、微かに薔薇の香がした。


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