第88話:緋の国の運命 -その1-
満月の日を迎えた。
昼を過ぎると、アンドリューは落ち着かない心を押さえつけて、フィゲラスの部屋を訪れた。
「夕方になったら、俺は赤ん坊を連れて屋根裏に行く。屋根裏には、絶対誰も近寄らせてはならない。フィリシアの部屋の前で、見張りをしてほしい。」
「わかりました。」
「それから、厩の傍に、一頭引きの二輪馬車がある。手入れは万全だ。」
フィゲラスには、アンドリューがなぜ突然そのようなことを言い出すのか、理解できなかった。しかし、その表情がフィゲラスの喉を強張らせた。
「俺がフィゲラスに『行け』と言ったら、その馬車でリディと一緒に逃げろという意味だ。いいな。俺の合図は一度、ただ一言だけだ。」
「アンドリュー様は?私達が逃げた後、アンドリュー様はどうなるのです?」
「俺の事は考えるな。俺は何とでもなる。」
「それに、我々にどこへ逃げろと?プラテアードですか?」
「・・行き先は、リディに直接言う。――― 頼んだぞ。」
濃いオレンジの夕焼けが紺色に変わる前に、アンドリューはフィリシアから赤ん坊を取り上げた。
赤ん坊は劈くような泣き声をあげ、暴れたが、躊躇はできなかった。
フィリシアは赤ん坊を取り上げられることに激しく抵抗した。そんなフィリシアに、アンドリューは冷たく言い放った。
「これは、陛下の命令だ。場合によっては、二度とその手に抱くことは許されない。わかっていたはずだ。この子は、あんたのものではない。」
フィリシアは、頬に幾筋もの涙を零しながら、それ以上何も言わなかった。
アンドリューは、泣き続ける赤ん坊を抱いて、リディのいる屋根裏部屋に入った。
紋章の有無を確認するのは、ここが最も適切だ。
そして、紋章があった場合、それを見ることが許されるのは、自分とリディだけだ。
アンドリューが屋根裏部屋に入った時、リディはまだ姿を見せない月を待ち構えるように、窓の外を凝視していた。
リディが赤ん坊の泣き声に振り向くと、額を細い布で縛り上げたアンドリューが立っていた。
赤ん坊をベッドに横たえても、泣き声は弱まる気配がない。見かねたリディが胸元に抱き、上下に軽く揺すってやると少しは落ち着きを見せたが、すぐに仰け反って嫌がった。
「当り前だわ、母親から離されて平気なわけがない。」
「そのうち、泣き疲れて眠るだろう。」
「・・・可哀想に。この子には、何の罪もないのに。」
「王家の血を継くとは、こういうことだ。」
暴れる赤ん坊をなだめながら、リディは再び空を見上げた。
もう、間もなくだ。
アンドリューは、固唾を呑んだ。
リディも、息をするのを忘れるほどに緊張した。
満月の夜、子の紋章を確認する儀式は、国の行く末を占う神事だ。
海の向こうの遠い異国では、産まれる子の性別で国の行く末を決めると聞いた。人の力や意志に左右されない事象に、人は「神の意志」を見出し、それに従うのだ。
夜の帳は、静かに降りた。
リディは、抵抗することに疲れた赤ん坊が、自分の腕の中で微睡み始めたのを確認した。それを待っていたかのように、雪色の月が窓の外に姿を見せた。
「・・・アンドリュー、」
額に藍色の光を湛えたリディの呼びかけに応えるように、アンドリューはリディの手から赤ん坊を自分の腕の中に預かった。
小さな白桃色の瑞々しい額に、緋色の光が宿っている。
アンドリューは、小さく息を吐いて瞼を閉じた。
こうなるであろうことを、確信に近いほど予感していた。
アンドリューは、自分の額を覆っていた布を片手でむしり取った。
「リディ、紋章の形を見てくれ。俺と同じ模様か?」
リディは、赤ん坊の額とアンドリューの額を交互に何度も見比べ、そして、深く頷いた。
アンドリューは赤ん坊をベッドに戻すと、上着の裏から、金と絹織でできたティアラをとりだした。
「本来王族は、こういうティアラで額を飾ってカムフラージュするそうだ。マリティムはこのティアラを第一子が産まれる時に準備したが・・・ようやく今、日の目を見た。」
アンドリューが赤ん坊にティアラをとりつけると、額から緋色の光はなくなり、代わりに、ティアラの中央に飾られた薔薇翡翠と小さなルビーが光った。
アンドリューは、口の端を強く引き締めた。
これからが、正念場だ。
アンドリューはリディに、銃とサーベルを手渡した。
「俺は、これから王宮に行ってくる。すぐ戻るつもりだが、俺の留守中に何かあったら、これを使え。」
リディがそれらを受け取るや否や、アンドリューは次の言葉を放った。
「赤ん坊はフィゲラスに預ける。お前は何があってもこの部屋から出るな。自分の身だけ守ることを考えろ。いいか、下でフィリシアやフィゲラスに何か起こっても、絶対に出て行くな!」
「・・・!」
アンドリューはリディに何か言う暇を与えず、足早に部屋を出た。
一刻の猶予もならない。
滑るように螺旋階段をくだる。
赤ん坊を託されたフィゲラスは必死に何か言っていたが、アンドリューの耳には入らなかった。
マントの留め金をはめる時間さえ、もどかしい。
逸る気持ちを馬の鞭に乗せ、アンドリューは空間を割く速さで王宮へ向かった。
待ち合わせは、北の塔の密会部屋。
小さな蝋燭一つ灯し、埃をかぶった荷物や壊れた家具に隠れるように、マリティムは息を潜めていた。
マリティムの湖色の瞳は、暗闇で爛々と燃えていた。
王位継承の争いを遠ざけるためとはいえ、生き別れになった弟は、王宮の外で逞しく育った。骨肉の争いを怖れた両親の思いとは裏腹に、今、マリティムが最も信頼しているのは弟のアンドリューだ。
王家の秘密は王家の者にしか話せない。そして王家は、独りでは守れない。だが、今のマリティムには、協力者があまりにも少なかった。
――― もし他国と戦争になって城が落とされそうになっても、絶対に助けになど来るな ―――
アンドリューと初めて会った時に言ったセリフは、嘘ではない。だが、あの時はこれほどまでに関わり合うつもりは無かった。巻き込んではならない、ということは今も肝に銘じているつもりだが・・・。
廊下の足音でマリティムは立ち上がり、アンドリューが中に入るなり駆け寄った。
アンドリューは息を整えながら、
「望みどおりだ。」
と伝えた。
マリティムは、自らの望みや予測が思い通りだったことに、何度も頷いた。
アンドリューは、口早に次の答えを求めた。
「これから、どうする?」
「フィリグラーナとは離縁するつもりだったが・・・1年前よりも事態は深刻だ。精神を病んだフィリグラーナをできるだけ刺激したくない。産まれた子供の存在は、赤ん坊が成人するまで隠す。」
「そんなことができるのか?フィリグラーナの隠密のジェリオは、」
「わかっている。だから、真実を隠すのではなく、二人の存在を隠すのだ。10日以内には、薔薇城から田舎の館へ移す。その時はフィゲラスに同行してもらう。口の堅さは折り紙つきだし、アンドリューが信頼している医師なら、執事としても、王子の教育係としても、立派に役目を果たすだろう。」
アンドリューは、懸命に抑えた声で言った。
「フィゲラスには、婚約者がいるんだぞ。」
すると、マリティムは軽くアンドリューを睨みつけた。
「フィゲラスは、『私は身軽で、いつ死んでも不信に思う者はいません。』と言っていた。彼にとって婚約者は、その程度の存在なのだろう。もしくは、そもそも婚約者など存在しないか。」
下唇を噛みしめたアンドリューに、マリティムは言った。
「アンドリューがフィゲラスと別れて行方不明になっていた本当の理由は、あえて詮索しない。ジェード王家の人間であるということを自覚した行動であるならば、何も言わない。」
アンドリューには返す言葉がなかったが、マリティムはそれを承知していたかのように、話をすすめた。
「それから、表向きはジェードが拉致した『プラテアード王女』は幽閉されて生涯を終えたことにする。」
「その『生涯』の間に、必ず本物の王女が姿を現す。」
「それは、ジェードへの宣戦布告と同じだ。偽物を送り込んでジェードを欺いていたとなれば、相応の報復が成されることを想像できないわけはないだろう。」
「もちろん、その時は独立を賭けた戦いになるが・・・。」
「それは、いつの話だ?1年前の飢饉ですっかり力を失くしたプラテアードが、再びジェードに歯向かうまでに何年かかると思う?5年か?10年か?その間に、王女の存在など風化する。フレキシ派の幹部がどう動く気か知らぬが、聞いた話では、プラテアード国民の士気はすっかり萎えているそうではないか。」
リディが、そんなような話をしていたのを思い出した。このままリディは歴史の舞台から葬られるのだろうか。
いや、リディを必要としている国は他にもある。
「アンテケルエラ国のエストレイ王子は、引き下がらないと思うが。」
「本物がジェードにいることになっている限り、王宮に奇襲でもかけない限り奪えないのだ。エストレイがいかに躍起になろうと、現アンテケルエラ王は慎重な男だ。ジェードとの全面戦争など、絶対に仕掛けない。」
「しかし、エストレイは本物が捉えられていないことを知っている。血眼になって本物を探しているし、痺れを切らして『ジェードはプラテアードに騙されている』などと諸国へ公表しかねない。」
マリティムの眼の色が変わった。
アンドリューは、ハッとして口を噤んだ。
本物が捉えられていないことを、なぜ、エストレイが知っているのか。そしてその事実を、アンドリューが一体いつ知ったのか。
マリティムに訊かれたら、何と答える?
リディとの接触を隠し通したまま、どう説明する?
マリティムはアンドリューをしばらく凝視した。
アンドリューは息を殺しながら、その凝視に耐えた。
その様子に、マリティムは息を吐いて首を振った。
「・・・とりあえず、今は目先のことを一つ一つ片付けよう。エストレイのことは、心に留めておく。第一、私は本物の王女の存在を放っておくつもりは毛頭ない。既に手は打ってある。」
「手?」
「明日の早朝、レオンをプラテアードへ発たせる。本物の王女を見つけて、始末させるようにな。」
アンドリューは、首を振った。
「この大事に、レオンを傍に置かないというのは危険だ。アランのこともあるし、それはもう少し待った方がいい。」
「私の身を、案じてくれるのか?」
「当り前だ。今は、少しでも多くの味方を傍に残しておいた方がいい。」
マリティムは、アンドリューの肩を抱き、言った。
「・・・そうだな。だがアンドリュー、これだけは覚えておいてくれ。この先フィリシアや赤ん坊に危機が迫っても、お前が命を失うことがあってはならない。赤ん坊が成人するまでは、あくまでお前が王位第一継承者だ。私は、父とは違う。アンドリューの生き死にを運に選ばせることなど許さない。」
アンドリューは瞼を閉じ、静かに答えた。
「わかっている。」
別れ際、アンドリューは肩越しに振り返って兄を見た。
「・・・気を付けて。」
アンドリューの言葉に、マリティムは切ない微笑を浮かべた。
「互いにな。・・・アンドリュー。今ほど弟がいて良かったと感謝したことはない。」
「俺は・・・兄がマリティムで良かったと思っている。マリティムに会わなければ、俺は王家を疎んだままだった。」
マリティムの薄い微笑みが、なぜか儚く見えた。
アンドリューが王宮の敷地から出ると、待たせていた馬のところに人影があった。暗くて正体がわからず、思わず身構えると、人影の主は「アンドリュー」と声をかけてきた。
「レオン・・・!」
レオンは、アンドリューとしっかりと抱き合った。
「行方不明になったと聞いた時は、どれほど心配したか・・・!」
「俺は大丈夫だ。それより、アランはどうしている?」
「ああ、頑張っている。姿形の影武者としてだけでなく、執務上も陛下の代理ができるほどだ。ちゃんと独り立ちしているよ。」
アンドリューは、「よかった。」と安堵するや、次の話題へ移った。
「陛下からプラテアードへ行くよう命じられたと思うが、少し待ってくれないか。」
レオンは、怪訝に眉根を寄せた。
「どういうことだ?」
「マリティムの身を守ってほしい。今、この国の運命が動こうとしている。しばらくは王宮を離れない方がいい。」
「陛下が、狙われていると言うのか?」
「狙われているかどうかではなく、信頼できる味方が必要なのだ。―――王家の秘密は王家の者しか共有できない。だから、すべてを話すことはできないが、それでも忠誠を誓ってくれる人間は貴重だ。」
「・・・俺は、陛下とアンドリューが同時に狙われたら、アンドリューを助ける。」
レオンにとってアンドリューは、長年一緒に暮らしてきた弟のようなものだ。肉親に対する愛情は、主人に対するものとは違う。それをわかっているから、あえて振り切らねばならない。
アンドリューは馬に飛び乗り、馬上からレオンの額を見下ろした。
「レオンの使命は、陰より光を守ることだ。陛下を守ることは、アランを守る事でもある。ジェード王家そのものを、支えてくれ。」
返事ができず、ただアンドリューの背を見送ったレオンに、小鳥のさえずりが夜明けを告げた。