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第86話:偽物と本物

 フィリシアの出産には、半日以上の時間が費やされた。

 産まれたのは男児で、身長、体重ともに申し分なかった。

 フィリシアの身体にも異常はなく、初産としては非常に順調だったといえる。

 一段落すると、フィゲラスはアンドリューに休息をとるよう勧めた。アンドリューはフィゲラスを気遣いながらも、流石に体力の限界を感じずにはいられなかった。

 アンドリューが自室へ戻ると、リディがベッドの中で目を覚ましていた。

 しかし、リディの様子を構う体力もなく、アンドリューは部屋の鍵をかけると、窓辺の長椅子に倒れ込むように横たわった。もはや瞼を持ち上げることさえできないが、現状だけは伝えておかねばならない。

「出産は無事に終わった。リディはとにかく、この部屋から出るな。身を潜めていろ。」

 リディはしっかりと頷いた。

「少し眠らせてくれ。・・・限界だ。」

 そう言うや否や、アンドリューは深い眠りについた。

 リディは、そっとベッドから起き上がった。床に足をついた瞬間は太腿の筋肉に力が入らず倒れ掛かったが、すぐに姿勢を立て直した。身体のあちらこちらが痛むが、動けないほどではない。

 リディは薄くて軽い掛布団を引きずって運び、仰向けに眠るアンドリューの身体にそっとかけてやった。

 これから何かが起こるとしても、今、この瞬間は平穏だ。

 アンドリューと二人、同じ部屋にいるなんて。

 こんな幸福な時間が自分に与えられるなんて、想像することさえ許されないと思っていた。

 リディは胸元を両手でおさえ、(自分は幸せ者だ)と噛みしめた。

 こんな幸せを味わってしまったら、きっと次に待つのは同じ深さの絶望だろう。

 そうでなければ――― 許されない。

 

 次にリディが目を覚ましたのは、陶器の食器と銀の匙が奏でる音を聞いた時だった。

 部屋の中央のテーブルに、フィゲラスが食事を準備している。

 フィゲラスは、リディが目覚めたのを見ると

「リディ様・・・!」

 そう言って、ベッド脇に駆け寄り、膝をついた。

「御無事で、何よりでございます。私が不甲斐ないばかりに、リディ様とアンドリュー様に多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。」

「フィゲラス・・・。そのようなこと、私もアンドリューも思っていない。フィゲラスこそ、よくここまで辿り着いてくれた。さあ、頭をあげて。」

 フィゲラスは立ち上がると、スープの入った器をリディに渡した。

「根菜をブイヨンでよく煮込みました。温まりますよ。」

「こんな上等な食事、私には贅沢すぎる。」

「病人は、大人しく医者のいう事をきいてください。リディ様はもう少し栄養をとって太らないと。いざという時、体力負けしてしまいますよ。」

 ジェードは、裕福だ。

 プラテアードにも裕福な生活をもたらしたい。そのためには、やはりジェードの支配から独立するしかないだろう。どんなに働いても、どんなに作物を育て、鉱山から採掘しても、ジェードに取られてしまうから貧しいのだ。

「・・・アンドリューは、どこ?」

「王宮へ、王子の誕生を知らせに行きました。すぐに戻りますから。」

「本当に?もう戻ってこない・・・ことはない?」

「戻りますよ。大丈夫。」

 不安な表情で、リディは俯いた。今にも涙が零れそうな瞳を、フィゲラスは見てはいけないと思い、静かに部屋を出た。

 リディが必要としているのは、アンドリューであって、フィゲラスではない。

 アンドリューは「リディを逃がす」と言ったが、例え命を落とすことになろうと、リディはこのままアンドリューと一緒にいさせた方がいいのではないか。

 第一、プラテアードへ戻って、どうするというのか。

 本当にキールがリディを追い出したとして、フィゲラスが医師として生計をたてたとして、それに頼って生きるようなことにリディが甘んじるとは思えない。

 リディはプラテアード王女という身分があるからアンドリューと対等でいられるのだ。革命という目的があるからジェードと関わり、アンドリューと繋がりを持てるのだ。それを奪われたら、リディはリディではなくなるだろう。リディの命はプライドと共に保たれている。

(そんなこと、キール様もアンドリュー様もわかっているはずなのに。)

 

 その日、深夜にアンドリューは帰ってきた。

 しかし、一人ではない。

 フィゲラスは玄関先でそのことに気付き、身体を強張らせた。

「フィゲラス。陛下をフィリシアのところへ案内してくれ。」

 アンドリューはフィゲラスに命ずるや否や、先に階段を駆け上がって行った。

 フィゲラスは恭しくマリティムに挨拶をしてから、ゆっくりと階段を上り始めた。

 アンドリューがリディを隠し終え、先にフィリシアの部屋に入っているくらいで調度いいだろう。

 マリティムがフィリシアと産まれたばかりの王子に体面すると、フィゲラスとアンドリューはその場を離れた。口には出さないが、二人とも、マリティムとフィリシアの睦まじい姿など見たくなかった。

 フィゲラスは、アンドリューを自分の部屋へ誘った。

 温めたワインを手に、二人は丸テーブルに向かい合って座った。

「陛下は、いつまでこちらに?」

「1時間ほどで帰ることになっている。真夜中に、王宮を抜け出してきたんだ。」

「まさか、毎晩いらっしゃるのでは?」

「それは無い。王妃や周囲の様子もただならぬ気配を感じ取っている。陛下はできるだけ、王宮を離れるべきではない。今日だけは特別だ。」

「リディ様は・・・?」

「蹄の音の数で察したと言って、俺が行った時には既に隠れていたよ。」

 アンドリューは少しだけ口元を緩ませたが、すぐに再び引き締めた。

 今、王宮から戻ってくるときに後をつけられていた。それが誰であるか、わかっている。

 王妃フィリグラーナの隠密、ジェリオだ。

 ジェリオが薔薇の古城までつけてきたのは、初めてではない。だから、フィリグラーナはとっくに何もかも知っているはずだ。アンドリューもマリティムも、それを覚悟して備えている。

 だが、フィリグラーナは、今日まで不気味なほど動きを見せない。息を潜めて「その時」を狙っているのか。それとも、ジェリオは真実をフィリグラーナに告げていないのか。

(フィリグラーナの精神状態を考えて、控えているのか。それよりも、マリティムの出方を待とうと考えたか・・・。どちらにせよ、ジェリオはさかしい。フィリグラーナにとって最善の策を練って動いているはずだ。)

 アンドリューが宙を睨んだままカップを口に運んでいる様子を見ていると、フィゲラスは声をかけることができなくなる。白い瞼と細い睫毛が、他人を寄せ付けない。

 フィゲラスは、リディもそういうところがある、と思った。

 特にリディは独りでいる時、容易に話しかけると冷たくあしらわれそうな空気を放っている。普段、どんなに物腰が柔らかくても、心の奥底では他人に心を許していないのだろう――― アンドリュー以外は。

 ほどなくして、アンドリューはマリティムを王宮へ送り届けるため、立ち上がった。

「フィゲラス。俺達が城を出たら、錠をもう一つ増やしておいてくれ。カーテンも隙間一つないように、今まで以上に気を配るんだ。」

「誰かに、見張られているのですか?」

「そうだ。いつ襲われてもおかしくない、そう思っておけ。」

 扉の閉まる音が、いつになく重かった。

 フィゲラスは、独りでこの城を守るには頼りなさすぎる自分が歯がゆかった。それに引き換え、アンドリューの常に落ち着いた様子はどうだ?身分や境遇が違うとはいえ、差があり過ぎる。

(リディ様を連れて逃げても・・・私には、守りきる自信がない。命を賭けて守っても、命を落しては守ったことにならない。生きて守る―――その力が、私にはない。)

 それでも、自分のやるべきことには、向き合わなくてはならない。

 フィリシアの様子を扉の隙間から覗くと、赤ん坊を胸に抱いて、穏やかな表情を浮かべていた。その柔らかな雰囲気が、フィゲラスには恨めしかった。(いい気なものだ――― )そう呟きたくなるのを堪えながら、リディのいる部屋の前へ移動し、「フィゲラスです。入ります。」と抑えた声で名乗り、鍵を開けた。

 リディは、いつでも隠れられるように、ベッド脇に膝立ちしていた。

「怪我の経過を診ます。どうぞ、こちらへ。」

 リディは黙って、フィゲラスに背中を向けた。

「痛みはどうですか?まだ腫れがひきませんね。」

「・・・満月までには完治するはず。それでいい。」

 フィゲラスは、ドキリとして触診の手をとめた。

「アンドリュー様は、満月の後、私とリディ様を逃がすとおっしゃいました。」

「そうか。やはり、そのつもりなのか。」

 ため息交じりの力ない声に、フィゲラスは言った。

「リディ様は、これからどうするおつもりですか?」

「わからない。・・・ジェード国王が偽王女をどうするつもりなのか知りたい。フィリグラーナ王妃に隠しとおすことなどできないだろうし、場合によってはプラテアードだけでなく、王妃の故国も、アンテケルエラ国さえも巻き込んだ争いになるだろう。その時私は、私にできることをするまでだ。」

「アドルフォ城に、戻りますか。」

「いや・・・私は、アドルフォ城から追い出された身だ。もう二度と戻るつもりはない。しかし、フィゲラスは城へ戻ってプラテアードのために働いてほしい。」

「私は――― リディ様が首長でなくても、王女でなくても、一生お仕えします。私はリディ様のために生涯を捧げる覚悟ですが、プラテアードのために生きるつもりはありません。」

「私が命じてもか?私の命令であっても、アドルフォ城へ戻らないと言い切るのか?」

「私の命は、リディ様のためにあるのです。たとえ御命令でも、お傍を離れる気はございません。」

リディの目元に、暗い色が落ちた。それを見たフィゲラスは、自嘲するように口端を歪めた。

「申し訳ありません。ご迷惑なのですね。」

 リディは瞼を伏せ、首を振った。

「そうではない。私は、フィゲラスに対して申し訳なく思っている。アンドリューから貰い受けるなどと偉そうな事を言ったのに、今やその身の安全を保障できない情けなさだ。私と一緒にいても、もはや何の意義もない。」

「意義だなんて・・!第一私は、リディ様に身の安全を保障していただこうなどと、思ってはおりません。」

「だが、これは約束なのだ。アンドリューとの・・・。」

 またしても、アンドリューなのか。

 フィゲラスは、言葉を失って部屋を出た。

 リディにとって、自分はアンドリューとの縁を繋ぎ留めておくための道具に過ぎなかったのではないか。

(いや、そんな風に思ってはいけない。自殺を図った私を間一髪で助けた時、そんな計算は無かった。駆け引きの無い、純粋な―――)

 リディに助けられ、そしてアンドリューに助けられた。

 藍の紋章、緋の紋章。

 忘れろと言われても、何度となく思いだし、今や脳裏に焼き付いて離れない。

(二人のために生きるのだ―――私は。例えどこに身を置くことになっても、それは変わらない。)


 リディは、身体の回復が進み、ベッドから出た。

 着るものは、フィゲラスが調達してきた。

「フィリシア様のために、陛下が余るほど用意しているのですよ。5枚や6枚新品を持ち出しても、誰も気付きはしません。今お召しの部屋着も、もとはフィリシア様のものでした。」

 リディは、下着や色鮮やかなドレスを手に取って、首を振った。

「すべて、絹ではないか?私は、こんな贅沢なものは身に付けられない。下着も、こんなあからさまな女物を着た事がない。」

「でも、女物はこれしかないのです。まさか、私やアンドリュー様の物を着るわけにはいかないでしょう?サイズが違いすぎます。」

「着古したものでいい。今までも、男物を仕立て直して着てきた。第一、ドレスなど着ていては、いざという時敵と戦えないではないか。ここへ来る時に着ていた服をかしてくれ。洗濯して着る。」

「リディ様がここへ来る道中にお召しになっていた服は、ぼろぼろで使い物になりません。」

「フィゲラスは、私にこんなヒラヒラのドレスを着ろというのか?」

「いいではありませんか。リディ様は本物の王女なのですから、偽物より似合いますよ。アンドリュー様に、見せて差し上げればいいのです。」

 リディは顔を赤らめて「絶対、嫌!」と拒絶した。

 そこへ、アンドリューが慌てた様子で入ってきた。

「声がでかい!フィリシアが赤ん坊の泣き声に夢中になっていたからいいものの、俺にはしっかり声が聞こえて来たぞ!」

 囁き声ながら、アンドリューは二人を厳しくたしなめた。

「一体、何を言い争っていた?どうせリディがフィゲラスの言う事を大人しく聞かないのだろう?」

「どうせって、何?私はちゃんと言いつけを守って、大人しくこの部屋で静かに我慢しています!」

「我慢とは何だ?敵の国にいるのだから、当たり前のことだろうが!」

 フィゲラスは、二人の間に割って入って「あのですね、・・・」と言って、経緯を説明した。

 アンドリューは、話を聞いて「くだらない・・。」とため息をついた。

「着る物なんか何でもいいだろう。勝手にしてくれ。」

 リディは、アンドリューの前に手を差し出した。

「裁縫道具を貸してください!フィゲラスの服を、仕立て直します。」

「フィリシアの部屋に裁縫道具があるが、それを持って来いというのか?」

「できませんか?」

「できなくはないが、何日も持ち出しては不思議に思われる。俺やフィゲラスが、何日もかかるほどの裁縫などするわけがないからな。」

「では、一日だけ。」

「そんな事言わずに、大人しくあるものを着たらどうだ?」

「私は、武器を隠す場所の無い服は、着られません。」

「―――そうだな。この城もそろそろ限界だ。自分の身は、自分で守ってもらわないと。」

 そう言い放ち、アンドリューが部屋を出ると、フィゲラスもそれに続いた。

 フィゲラスはアンドリューの袖を掴み、自分の部屋へと引き込んだ。

 扉を閉めるや否や、フィゲラスは、アンドリューを軽く睨みつけた。

「せっかくリディ様が女性らしくドレスを着られるチャンスだったのに!こんなことでもなければ、リディ様は一生、王女様なのに、着古したシャツや軍服しか身に付けられないのですよ!?」

 アンドリューは、フィゲラスを冷ややかに見下ろした。

「リディは、革命家だ。王女として生きることを望んでいない。あいつがアドルフォの娘として生きる以上、プラテアードの独立が叶わない限り、女物を着ることはない。」

「だから、やむを得ない今だけなら、と思ったんですよ。」

「フィゲラスがそんなに望むなら、リディを説得すればいい。」

「私の言うことなど、リディ様は聞きません。」

 フィゲラスが声を枯らして訴えた。

 アンドリューは、息を吐いた。

「・・・この先、リディの傍で一生仕える覚悟だろうから、言っておく。リディは、アンテケルエラのエストレイ王子に狙われている。今回、プラテアードの森でフィゲラスを襲ってリディを拉致したのはエストレイだ。」

「アンテケルエラ・・!?以前、食糧受給の交渉をして断られたという・・・。あの強国が、なぜリディ様の命を?」

「狙っているのはリディの命ではない。エストレイは、リディとの結婚を望んでいるんだ。」

「結婚?プラテアードをアンテケルエラ領にしたいというのですか?ジェードと戦争になりますよ。」

「それも辞さないらしい。エストレイは、文字通りリディに命を賭けている。」

 アンドリューは、エストレイがリディに言った言葉を思い出した。

――― 王女の血筋以上に、私は、そなたに惹かれる ―――

 しかし、リディはエストレイに襲われた後、泣きながら言った。

――― 駄目なんです・・!私の中にどうしても譲れないものがあって ―――

 あの様子では、婚礼前に精神が崩壊するか、感情を自ら殺してしまうだろう。

 アンドリューは、フィゲラスから視線を反らした。

「女のドレスは、肌の露出が過ぎる。男の服が、男から身を守るためにも必要だというのなら、用意してやってくれ。」

「私は、偽物の王女が優雅にドレスを身に纏い、国王の寵愛に包まれて、その子を胸に抱いていることが許せないのです。本物の王女がここにいるのに!その本物は、ボロを着て、傷だらけになって国のためだけに生きている。アンドリュー様と一緒になることもできず、」

「やめてくれ!」

 アンドリューは、フィゲラスの言葉を強く遮った。

「―――誤解のないよう、はっきり言っておく。俺は、リディの事を何とも思っていない。確かに、俺はリディとの間に運命的なつながりを感じている。だが、それは男と女の間柄の運命とは違う。」

「嘘です・・・!私は、二人をずっと見てきました。リディ様が毒矢で生死を彷徨った時から、ずっとです。今までも、これからも、リディ様を支えられるのはアンドリュー様しかいません。私がどんなに叫んでも、私の声はリディ様に届かない。リディ様が必要としているのは、アンドリュー様ただ一人なのです。そんなこと、アンドリュー様が一番わかっているはずです。」

「フィゲラスは、リディに一生仕えると約束したではないか。」

「私などの命では、いくらあっても足りません。リディ様の命は、私のような凡人には重すぎるのです。」

「重荷だというのか。」

「そうではありません!リディ様を守るために、私の命を捧げる覚悟はあります。しかし、命は一つ。死んでしまっては、守ることにならないのです。」

「・・・敵の俺に、どうしろと言うのだ。」

「リディ様は、国を追い出されたのです。首長ではありません。もう敵ではありません。」

 アンドリューは、大きく首を振った。

「どこに居ようと、志は変わらない。リディは革命家アドルフォの娘だ、プラテアードの王女だ。その事実は、捨てられない。そして―――、」

フィゲラスの襟元を乱暴に掴み、アンドリューはフィゲラスと近く睨み合った。

「額の紋章も見られている事だ、この際だから教えておこう。俺は、ジェード国王の実の弟だ。王家に産まれた以上、王家の人間としての生き方がある。それに抗えば、周囲を巻き込んだ悪夢が訪れる。俺はそれを、10年前に身を持って味わった。もう二度と、過ちは犯さない・・・!」

 アンドリューの脳裏に、スパイとしてプラテアードに潜り込み、拷問を受け、バッツに救われ、そしてバッツが殺された過去が走馬灯のようによみがえった。

 あれ程注意深かったアンドリューが、なぜ、捕らわれの身となったのか。

 それは、潜入先の村で、罠だと疑いながらも一人の少女に心を寄せたからだ。恋心は、アンドリューに国や身分を忘れさせ、冷静な判断力を失わせた。その少女はカタラン派幹部の妹で、計算ずくでアンドリューに近づいた。意に沿わない結婚、妊娠に苦しむ多くの少女を救うために兄を裏切り、反逆を起こそうとしている・・・という設定。アンドリューはその設定にまんまと引っかかり、挙句、地獄を見た。

 少女への思いも、多くの苦しんでいる人を救いたいという思いも、損得無しの純粋なものだった。だが、その純粋さは様々なものを破壊した。

(そうだ。だから俺は、リディの純粋さに危うさを感じるのだ。もっと計算高く、ずる賢く、人を騙したり陥れることが平気でできるようにならなければ。・・・だが、それができるようになったら、それはリディではない。別の人格者だ。)

 アンドリューは長い前髪の奥で瞼を閉じた。それと同時に、少しだけ垣間見えたアンドリューの本音が、再び覆い隠された。

 アンドリューは、チェストの中から白いシャツとチャコールグレーのズボンを何着か取り出した。

「これを、リディにやってくれ。」

「・・・喜びます。何よりも。」

「俺は、しばらくフィリシアと話をしてくる。少し休め。」

 扉の閉まる音は、人が心を閉ざす音に聞こえる。

 アンドリューの真意は、フィゲラスには到底読み解けはしない。


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