第83話:雨宿りの奥に
細かな雨粒は、丸二日間、アンドリューとリディの身体を冷やし続けた。
大きなマントは始めこそ雨避けになったが、ほどなく役に立たなくなり、やむなく脱いだ。
渓谷を馬で飛び越えたのだから、ジェード国内に戻っていることは確かだと思う。しかし、闇雲に走った時間が、方向を狂わせていた。国境門を基準に移動していたため、渓谷沿いを慎重に進んでいたが、なかなか辿り着かない。
アンドリューは、リディの体力が予想以上に無くなっているのが気がかりだった。
道々、リディは地下に隠れていた時の話をした。道中、賊に襲われて落馬したことも話した。エストレイに捕えられ、脱出しただけでも奇跡に近い状態だったのだ。
リディは、馬上でアンドリューの背に額を預けて倒れている。アンドリューは、一刻も早く休める場所を見つけたかった。とにかく、火を焚きたい。少しでも乾いた場所で、リディを休めてやりたい。
辺りが再び闇に包まれようとしていた頃。
アンドリューはようやく、渓谷の段差の隙間に、人ひとり入れるくらいの穴を見つけた。
近づくと、穴に見えたものは大きな岩と岩の隙間だった。馬を近くの大木に繋ぎ、アンドリューはリディを抱えて中に入った。
乾いた地面にリディを横たえると、アンドリューは
「燃やせるものを探してくる。もう少し寒さに堪えてくれ。」
リディは蒼い顔で小さく頷いた。
アンドリューはランプに火を灯すと、穴の奥へと進んだ。
足元は土ではなく、岩肌だ。燃やせるものといっても、以前風に乗ってきた木の葉の切れ端くらいしか見つからない。
穴は段々狭くなり、天井も低くなってきた。
これ以上進むのは危険だ――― そう判断して引き返そうとした時だった。
(・・・!?)
突然、瞼の上がぼんやりと光り出した。
しかも、緋色の光。
アンドリューは、思わず天井を見上げた。
濡れた石の臭いがするだけ。月の光など、入る隙もない。いや、第一今夜は満月ではない。
(どういうことだ?)
こんなことは、初めてだ。
この穴に、何があるというのか。
目の前に明かりを翳すと、行き止まりだった――― いや、巨大な岩が行く手をさえぎっているが、足元には隙間がある。匍匐すれば通っていけそうな程度の、隙間が。
(行って・・・みるか?)
なぜか、心臓の音が高鳴る。
大いなる秘密の臭いが、アンドリューの好奇心を掻き立てた。
だが、リスクは高い。万一隙間に挟まれたら抜けられないだろう。相当先へ進んだ時に空気が薄くなってランプの火が消えたら、道がわからなくなるだけでなく、窒息するのも時間の問題だ。
アンドリューは、足早に穴の入口へ引き返した。
引き返すや否や、額の光は消えた。
(やはり、あの場所に何かがある。)
額の紋章に反応するというのであれば、王家の秘密に関わることだろう。いや、もしかしたら未だかつて誰も知らなった事が待ち受けているのかもしれない。
冷たい岩肌に身体を横たえて震えているリディの下に戻ると、アンドリューは矢継ぎ早に見たままを話した。話さずにはいられなかった。誰かに話せるとすれば、同じ王家の血を継く者に限られる。
リディは重い上半身を、肘をついて持ち上げた。
「私を・・そこへ連れて行ってください。」
「その身体でか?」
「私の額も光れば、満月の光と同じ成分があるのかもしれない。私の額は光らないなら、ジェード王家にだけ関わる何かがあるということ。それを・・・確かめたいでしょう?」
「ああ、確かめたい。」
「じゃあ、行きます。」
アンドリューは、立ちあがろうとして膝から崩れかかったリディを自分の肩で支えると、「自力では無理だよな。」と言って、リディを背負った。
リディは、以前に増して軽かった。それがリディの運命を象徴している様で、アンドリューは切なかった。
先程と同じ場所に到着すると、アンドリューはリディをおろし、互いの額を見つめた。
「光ってる・・・。」
アンドリューは、ランプの灯りを消した。
リディはアンドリューの額を眩しそうに見つめた。緋色の柔らかな光が、プラチナブロンドと反応し合って輝いている。
アンドリューは、リディの額に手を翳した。指先が、ほんのりと藍色に色づく。
「俺はこの先に、何かがある・・・と思う。」
アンドリューの言葉に、リディは足元の隙間を確認すると、
「行きましょう。」
そう、躊躇うことなく言った。
「一つ間違えれば、命はないぞ。」
「アンドリューがそんなセリフを言うなんて?あの深い谷を飛び越えるよりも、余程安全な冒険だと思いますけど。」
リディはそう言うや否や、率先して隙間の前で膝をついた。
「リディ!身体は大丈夫なのか?俺が先に行って様子を見てくるから、ここで待っていろ。」
リディは掴まれた肩越しに振り返り、首を振った。
「アンドリューも、感じているのでしょう?何かがある、って。それが私を突き動かすのです。」
「それは俺も同じだが、だからこそ何が待ち構えているかわからない。慎重に行くべきだ。」
「ええ、だから私が先に行きます。」
「何?」
「大丈夫、幸い背中が痛くてゆっくりしか進めませんし、少しでも危ないと思ったら教えますから。」
リディは隙間に頭を入れ、中を見回した。
「ランプはアンドリューが持っていて下さい。とりあえず額が光って前は十分見えるので。」
女性のリディが四つ這いで進める幅は、男性で背の高いアンドリューには腹這い状態で進むことを余儀なくした。しかも、段々狭く、天井も低くなっている気がする。
(僅かだが、坂になっている。俺達は確実に地下へ潜らされているのかもしれない。)
この道が自然に作られたものとは思えない。土石に阻まれることなく、これだけ長い距離が続いているのは、確かに「どこか」へ繋がっているからだ・・・と思う。
「!!」
突如、リディは声にならない悲鳴をあげた。
「どうした!?」
返事がないことに異常を察知し、アンドリューは腰にくくりつけていたランプを取り出し、マッチで火を点けた。額の光だけでは、手元より先を確認できないからだ。
アンドリューは、リディの下半身が伸びきっているのを見て、一瞬、倒れているのかと思った。だが、その下半身が段々と前方へずれていくのを見て、アンドリューは慌ててリディの足を掴んだ。
重い。
リディは、何かに引っ張られているのか?
アンドリューは腕に力を入れて、懸命にリディの身体を引き寄せようと試みた。だが、腕の力だけでは限界がある。膝と爪先で地面を擦り、後ずさる事を少しずつ、繰り返す。
ようやく、リディの身体が軽くなる瞬間が訪れた。
「大丈夫か?」
リディの様子を確認したいが、道幅も高さも、それを許さない。
リディは荒い息遣いで、アンドリューに応えた。
「何があった?」
「手元が急に崩れて、砂が下へ落ちるような・・・。」
「これ以上前へ進むことは無理か?」
アンドリューは身体の脇からランプを手渡した。
リディが灯りを翳すと、先ほど手を突いた場所が蟻地獄のように凹んでいるのが確認できた。大きさは道の幅と同じだけの奥行きだ。少しの体重でも、地が砂のように崩れる仕掛けだったのだろうか。凹みは未だ少しずつ、深さを増し続けている。
偶然に出来た物とは思えない。本物の蟻地獄のように強い引力が働いていた。もしアンドリューがいなければ、あのまま地の底へ引きずられていただろう。
改めてゾッとする。
しかし、それも束の間。
「・・・リディ、上!」
アンドリューの声に弾かれ、リディはランプを持つ腕を最大限持ち上げた。
すると。
「これは・・・!」
穴の向こう側は、突如、人が立てるほどの高さに開けていた。
道はそこで行き止まりになっているが、板のようなものが土砂に見え隠れしている。
扉だろうか。
額の光の秘密は、この奥に隠されているのではないか。
「リディ、渡れるか?」
もう、二度と砂状の部分に手をつくのはごめんだ。だが、どんなに腕を伸ばしても、向こう岸には指先さえ届かない。
「私には腕が短すぎて無理です。でも、アンドリューなら行けると思います。」
「どうすればいい?」
「私は完全に俯せになりますから、その上に仰向けに乗って下さい。アンドリューの足なら、向こう岸へ届きます。そうしたら私が上半身を持ち上げて、あなたの背を押し出す弾みになります。」
「背中の怪我は?」
「大丈夫。毒矢の傷を抉られた痛みに比べたら、何でもありませんよ。」
アンドリューは、ブーツでリディの柔らかな身体を蹴らない様、注意しながら体の向きを変えた。「重くて申し訳ない」という気持ちを言葉にしても、リディが「気にしないで」と言うのがわかっているから、何も言わないことにした。
向こう岸の堅い感触を踵が確かめてから、アンドリューは腕を両壁についた。出来る限り自分の体重を足と腕にかけるようにしてから、「リディ、持ち上げてくれ。」と頼んだ。リディは出来る限り前へ乗り出すように弾みをつけ、アンドリューが向こう岸へ渡る手助けをした。
リディが次に前を見た時、そこにあったのはアンドリューの大きな手だった。
リディは、アンドリューから差しのべられた両腕を掴むと、四つ這いのまま、思い切り地面を蹴った。アンドリューはすぐに腕を引き寄せ、リディの身体を抱き止めた。
二人は、高く広くなった空間に立つと、土砂に埋もれた板に文字が彫ってある事を確認した。
リディとアンドリューは一度だけ視線を合わせると、すぐに乾いた土砂や埃を手で払い始めた。土ぼこりが目や喉を襲うが、そんなことを気にしてはいられない。
使命だ。
王家に産まれながら、王族として育つことを許されなかった二人が今、王家の正統な継承者にしか許されない聖域へ踏み込もうとしているのだ。
やがて、青緑色に変色した金属の板の一部が、はっきりと見て取れた。
リディがその部分をランプで照らすと、アンドリューは
「古代文字だ。」
と、つぶやいた。リディは一緒に凝視しながら、
「私・・・、父から基礎を教わりました。でも今覚えているのは、単語程度です。」
「俺も、ハンス爺から習った。だけど、苦手で。古代文字が読めて何の役に立つのか?っていつも逆らってた。」
リディは、小さく笑った。
「二人の様子が目に浮かぶ様。」
「ここで役立てば、ハンス爺も浮かばれるな。」
アンドリューは眉間に皺を寄せ、息を凝らして文字に見入っていた。が、何行か進むと、突如、板の上部の砂を指で払い落とし始めた。
「どうしたのです?」
リディが尋ねると、アンドリューは更に丁寧に砂を擦り落とす。
「この辺りに、宝石が埋められているらしい。」
「宝石?」
「そう。2つ。」
「2つ?」
リディも、アンドリューを手伝った。
指も手も、相当汚れてしまっている。板には文字以外にも繊細な彫細工が施してあり、溝に埋まった砂は、指では落ちない。リディはポケットの中から針を取り出し、糸を通す方で溝をなぞった。
しかし、板の隅から隅まで砂を落しても、宝石らしきものは見つからない。
アンドリューは再び、文字の解読に努めた。
「・・・リディ、この意味、わかるか?」
アンドリューが指差した部分を、リディは少し屈んで見つめた。
「俺は、『二つ』と訳した。だから、二つの宝石を探したが、見つからない。違う意味があるのか?」
「・・・確か『一緒に』とか、『重ねる』という意味があったような・・・。」
「なるほど。」
アンドリューは、大きく頷いた。
今まで正面の板ばかりに注目していたが、今度は両脇の壁に注目した。分厚い砂の塊をめくるように取っていくと、アンドリューの思惑通り、石の板が現れた。アンドリューの反対側で、リディも同じように板を見つけた。縦長の、高さ1m位の白い石だ。角は風化してかけてしまっているが、文字や模様が彫られた部分は、しっかり残っている。
土砂を削り取りながら、徐々にはっきりしてきた模様を見て、リディはハッとなった。
「アンドリュー、これを見て!」
アンドリューの腕を引っ張り、リディは興奮して言った。
「この模様!アンドリューの額の模様と同じ!」
「・・・そうなのか?」
額の模様は、本人は見ることができない。鏡に映しても光が強く反射して隠してしまうからだ。
「じゃあ、もう一方は・・・。」
アンドリューがリディからランプを受け取って見たのは、プラテアードの裏紋章。リディが紛れもなくプラテアード王家の血を継いでいることを告げる、唯一無二の証だった。