第81話:三つ巴の行方
リディは、地へ膝を付き、両の手で土を掻き毟った。
行く手を阻む亀裂は、アンドリューへの道を閉ざしているのか。
覗き込んでも見えない谷底は、夜だからなのか、深すぎるからなのか。
リディは手元にあった石を谷底へ落してみた。
―――― 何の音も返らない。
渓谷の深さは未知数だ。
見上げた蒼空に輝く北極星は、谷の向こう側にある。
谷の向かい側まで10mはあるだろう。飛び越えることは不可能だ。
リディは右の東へ行くか、左の西へ行くか、迷って往生した。
直感が、リディを右へ走らせた。
人は、追い詰められると利き手側に回るという行動を取る。リディは当にそれをやってしまった。
リディの足はもつれて、限界を告げている。背中の腫れが熱を持ち、リディに重くのしかかった。
リディが思うよりも、地下に閉じ込められていた期間は、リディの筋力と肺活量を衰えさせていた。訓練はしていたが、広い草原を駆け回ったり、長距離を歩いたりしていた頃とは明らかに違う。
「あっ!」
小さな窪みに足をとられ、リディは前に倒れ込んだ。
起き上がろうとするが、足首が立たない。
地面に耳を押し当てると、かすかに振動を感じた。
――― 馬の蹄が大地を蹴る音だ。
リディは身を固くし、気力を振り絞って立ち上がった。
走らねばならない。
エストレイ達は、そう遠くないところまで迫っている。
リディは、再び走り始めた。
歩くより若干早いくらいのスピードかもしれない。だが、歩くよりはましだ。
渓谷に沿って、ひたすらに走り続ける。
身を隠したければ、林の中に入ればいい。だが、それは後戻りするのと同じことになる。
谷の終わりがいつか来て、北側の大地と繋がる事を信じて、リディは走った。
あとどれくらいで、夜が明けるだろう?
リディの肺が、悲鳴を上げている。
その時だった。
「いたぞ!!」
馬を乗り捨てた男が、ランプを片手に林の中から現れて道を塞いだ。
男の声で、二人目、三人目が、瞬く間にリディの前後を塞ぐ。
そして。
「・・・・!」
四人目は、エストレイだった。
エストレイは林の中から、徐にリディに近づいてきた。
「さすがは、プラテアードの首長。よく逃げ出せたものだ。」
リディは、後ずさる。
だが、数メートル先には奥深い谷が待っている。
エストレイは、リディに向かって手を差し出した。
「嬉しい事だ。こんなにも勇敢で賢い王女に巡り会えたとは。他の国の、自分を着飾ることと、噂話と、男の値踏みにしか興味のない姫君達とは大違いだ。王女の血筋以上に、私は、そなたに惹かれる。」
リディは、力の限り叫んだ。
「私ははじめ、教養があって、気取らないあなたを好ましいと思った。でもあなたは、そんな私の信頼を裏切る行為をしたのです!あなたには想像もできないでしょう?私が、あなたをどれだけ嫌悪しているか!」
「嫌いたければ、嫌えばいい。私が恐ろしければ、好きなだけ震えていればいい。私は、そなたに好かれようなどと思わない。私は、必要な物は力づくで手に入れる。それだけのことだ。」
「・・・あなたと一緒になれば、アンテケルエラとジェードは戦争になる。いわれのない殺し合いが起こるとわかっていて、どうして私があなたを受け入れられるでしょう!?」
「今更、何を言う?既にこれまでも、プラテアードは何度もジェードと戦い、多くの血を流してきたではないか?それは、革命のためだけではない。アドルフォのため、そして亡きアドルフォの忘れ形見であると信じられてきた、そなたのためではないか!我々人の上に立つ者は、多かれ少なかれ下の者に犠牲を強いることになる。それだけの価値があるのだ、引け目を感じることなど無い!!」
「そうですね、あなたの言っていることは正しいし、認めます。でも、私の心は何があっても、揺るがない。あなたも、アンテケルエラも、決して受け入れません!」
「では、こういう契約ならどうだ?私との間に王家の証を持つ子を設けてくれたなら、その時点でプラテアードを完全に独立させてやろう。ジェードと戦い、必ず勝利しよう。どうだ?これ以上望むものが、そなたにあるか?」
「それは・・・。」
「逆に、考えて見よ。今のプラテアードに、革命の勝算はあるか?アドルフォの伝説も風化しかけて、肝心の王女はジェードに捕らえられていると信じている国民を、いつ動かす気だ?3年後か?10年後か?それまで、ずっと陰に隠れて何の活動ができる?現実をみろ、王女!」
その会話を、林の陰で聞いていた男がいた。
アンドリューである。
複数の馬が必死に北へ走る様子を遠目に見て、アンドリューの直感が後を追わせた。狙いは当たった。アンドリューは木陰から、固唾を呑んで、リディを連れ去るタイミングを謀っていた。だが、エストレイの申し出が真実なら、プラテアードにとって最も独立に近くなるチャンスではないのか。実際、プラテアードが自力で独立できる目途など、たっていない。
しかし、リディは首を振った。
「いいえ。・・・駄目です。」
「なぜだ?何が気に入らない?」
リディは固く瞳を閉じて、横を向いた。
これ以上ない、拒絶の陰を湛えたリディを見て、強気なエストレイの声が擦れた。
「私もそなたも、王家の血筋を継がねばならない。私達は、そのための存在ではないのか?それが、共に背負った最大の使命ではないのか?」
エストレイの言葉を、アンドリューは、神妙な心持ちで聞いていた。
ここに、3つの国の王位継承権者がそろったことへの奇異な運命。
いや、奇異と呼ぶには互いが互いに関わり過ぎている。
これは、アンドリューがフィゲラスを召還することを決意した時から、定められていた瞬間だったのかもしれない。
辺りの景色が、うっすらと認識できるようになっていた。
星明かりが小さくなり、夜明けが近いことを告げている。
谷淵からリディまでの距離、そしてエストレイ達との距離。それをしっかりと確認し、アンドリューは、手綱を握りなおした。
リディがエストレイを拒むなら、何としても連れ去らねばならない。
アンドリューの存在など夢にも思わないリディは、まっすぐにエストレイを見据えた。
「私の決意は、変わりません。」
「そなたは、プラテアード独立の最大のチャンスを棒に振っていることを自覚できているのか?」
「チャンスは、他人から与えられるものではなく、自分でつくるものです。それが、父の教えです。私の、生き方そのものです!」
アンドリューは、リディが自ら谷の淵へ進み始めたのを見た。
(あいつ、まさか・・・!)
エストレイと何があって、リディがどれほどエストレイを拒絶しているか、アンドリューは目の当たりにしている。死んでしまうのではないかと思うほど身体を震わして泣いていたリディを知っている。
「何をする気だ!?」
エストレイの叫びに、リディは勝ち誇ったような笑みを見せた。
そして。
迷いなくエストレイに背を向け、リディは谷の淵へと走り出した。
アンドリューが鐙を蹴ったのは、リディの爪先が地を蹴ったのと同時だった。
リディの思い切った行動に、エストレイ達が足を竦めたその隙を縫って、アンドリューの駿馬が間に割り込んだ。
「リディ!」
アンドリューの決死の呼び声に、リディは思わず顔を上に向けた。
リディの瞳は瞬時にアンドリューを捉え、その奇跡に目を見開いた。
次の瞬間には、リディはアンドリューに腕を掴まれて、鞍の前に乗せられていた。
「しっかり摑まっていろ!」
アンドリューは手綱を操り、馬を飛ばすことに必死だった。リディに手を貸す余裕などない。
夢にまで見たアンドリューとの再会が、現実の前で千切れそうになる。
しかし、振り落とされそうな事実とは戦わねばならなかった。激しい上下の揺れの中、鞍を必死に掴む。腹ばいになっている状態から、片足をどうやって馬の背にひっかけることができるか?
思案しながら、ふと後ろを見ると、遥か彼方に影が見えた。
「アンドリュー、後ろ!」
すぐに追ってくるのはわかっていた。
アンドリューの額に、汗が滲む。
「リディ、俺の腰にささっている銃を使え!」
言われるままに、銃を手に取る。
片手でアンドリューの胴にしがみつき、片手で引き金に指をかける。
馬の振動で、照準など定められるわけがない。
所詮、敵の足を怯ませるだけの威嚇に過ぎない。
リディは、視界が覚束ないまま、必死に引き金を引いた。
銃声も、弾の行方も、風を切る勢いにかき消されてしまう。
アンドリューは、ずっと辿ってきた渓谷の幅が狭くなってきていることに気付いていた。
(・・・あともう少し距離が近くなれば、飛び越えられるかもしれない。)
リディは、弾の切れた銃を握って、相変わらず腹這いのまま鞍にしがみついている。
後ろの敵との距離が離れたのか、否か。
定かではないが、追われている事実は、変わらない。
アンドリューは、その時はじめて、手綱から片手を離した。
「俺の腕をつかんで、何が何でもしっかり馬にまたがれ、早く!」
リディが必死によじ登り、何とか鞍の上に座るや否やのことだった。
「リディ、俺に運命を委ねられるか!?」
「え?」
「俺はこの谷を飛び越える。だが――― 失敗するかもしれない。」
アンドリューの方を振り返りたくても許されない体制で、リディは言った。
「私は今ここにいる時点で、あなたにすべてを委ねています。でも、アンドリューは・・?」
「一緒に死ぬ覚悟がなくて、こんな事できるか!?」
アンドリューの身体に力が入り、馬が加速した。
渓谷の向こう岸までの距離は、今まで経験した飛距離より遠い気がする。
だが、近すぎては敵も容易に飛び越えてしまう。それでは、意味が無い。
後は、自分の腕と、馬の力を信じるだけだ。
アンドリューの足手まといにならぬよう、リディは、必死に馬の鬣にしがみついた。
馬は一旦右へ大きく方向を変え、そして再び左へ弧を描いた。
十分とはいえない距離を、助走する。
アンドリューの愛馬は飛ぶことを躊躇せず、主人の振るう鞭に従い、宙を舞った。
いつの間にか、空が薄いブルーとピンクを湛えていた。
登らない朝日が北へ向かう二人に影を落とし、そのシルエットは忽ち蒼い空気に滲んで、消えた。