第77話:首長の座
その年の葡萄月は、その名の通り葡萄の収穫に恵まれた月になった。
枯れて痩せた土地だが水はけが良いため、葡萄の生育には適している。
飢饉により、プラテアードの人口は以前の6割にまで減っていた。生き残った農民達が必死に取り組んだ成果が実を結んだといえる。この繁忙期は、プラテアードの民にとってこの上ない幸せな忙しさをもたらした。
その報告をキールから受けた日は、アンドリューとの約束の日の3日前だった。
アンドリューから文をもらってから、1日1日の終わりを壁に刻んできた。
早く会いたいと思う気持ちと、その日が未だ来て欲しくないという気持ちとが入り混じって、落ち着かない。気づけば、募る想いを抑えるように両手を胸に当てている。
アンドリューからの文をもらって以降、みるみる元気を取り戻したリディだったが、キールは浮かれてなどいられない。フィゲラスを連れて外へ出て、・・・・リディは話そうとしないが、わかりきったことだ。アンドリューに会いに行くことなど。
その途中、アンテケルエラの兵士に見つかったら?
アンドリューの代わりにジェードの兵士がいて捉えられたら?
キールは、もはや一人で抱えられる次元ではないと、ソフィアに知りうる限りのことを打ち明けた。だが、アンドリューが何を言って来たのかは相変わらずわからない。フィゲラスはリディに忠実で、絶対に口を割らない。
ソフィアとキールには何度額を寄せ合って話し合っても、一つの結論しか出せなかった。
――― 行かせられない ―――
今まで目を瞑ってきた。アンドリューがプラテアードを敵と見なしきれない甘さを知っているから。互いに救け、助けられてきたから。
しかし、それにも限界が来ているのではないだろうか。
キールは、乾いた唇を引き締めた。
ソフィアと出した結論を、もう、口にしなければならない。
アンドリューとの約束の日の前日。
「本当に、外へ出るおつもりですか。」
キールの問いに、リディは躊躇いなく答えた。
「出る。もう私の覚悟はできている。」
「何の覚悟ですか?敵に捕らえられる覚悟ですか?アンテケルエラに拉致される覚悟ですか?」
リディは、キールを凝視した。
「私は、そんな間抜けではない。」
「御自分の立場を弁えていらっしゃらない事実は、自覚されているのでしょうね?」
「・・・そうかもしれない。でも私は、行かずにいられない。」
「アンドリュー殿に会いたいからですか。」
「アンドリューの要求は、私ではない。」
「では、行く必要など無いではありませんか?」
「・・・これ以上のことは、話したくない。」
「わかりました。どうしても行くとおっしゃるのなら、国を捨てて下さい。」
「キール・・・!」
キールの言い方は静かで落ち着いていた。だが、それが強い決意のもとで発せられた言葉だということを、リディはキールの瞳を見て悟った。
「あなたはプラテアードの首長であり王女であるにも関わらず、敵国の王子と会うのです。我々は独立目指して革命を起こそうとしているのですよ?敵は、人質を捕っているのですよ?人質となった女性の命を何だと思っているのですか?」
リディは激しく首を振った。
「それはわかっている!すべてわかっている・・・!」
「いいえ、わかっていらっしゃらない。アンドリュー殿は敵でありながら我々と繋がりを持ってしまった。アンドリュー殿の扱いをジェードがどう考えているのか私にはわかりません。しかし、我々が倒すべき敵である事実に変わりはないのです。こんな曖昧な関係のままいられるわけがないのです。」
「敵でなくなる日が・・・来るかもしれない。」
「無理です。例えこの先ジェードと和解する日があったとしても、それは国の上層部の話であり、虐げられた国民は先祖代々許すことなどありえないのです。リディ様も、思い出してください。あなたの大切な父上を殺したのは誰ですか?」
「・・・それは・・・。」
「選んで下さい、この国か、アンドリュー殿か。」
「以前、ソフィアに言われたことがある。『国を捨ててアンドリューのところへ行け』と。でも、私は父の遺志を継ぎたいからそのつもりはないと答えた。それに自分の使命を果たさないような人間を、アンドリューが受け入れるわけがないと知っている。私は、この国を選ぶしかないのだ。」
キールは、リディを凝視し続けた。
「そこまでわかっていて、行くのですか?」
「・・・行く。」
「では、これまでです。」
二人の間に、冷たい空気が流れた。
「あなたがプラテアード王家の血をひいていることは、抗えない事実です。しかし、今のプラテアードに必要なのは王家の血ではない。アドルフォ様の意志を継いだ首長なのです。あなたがその意志を持たないのであれば、もはや革命家ではない。プラテアードには不要の存在です。」
「・・・私が命を賭けてこの国を独立に導きたい気持ちに変わりはない。」
「しかし、首長としての心構えには欠けています。」
「首長の座を、キールに譲ればいいのか。」
「私が首長として国民に受け入れられるとは思えませんが、リディ様が国よりアンドリュー殿を選ぶと言うのならば、いた仕方ありません。」
「・・・構わぬ。どうせ私がいなくても、国は動いた。私の存在は偶像崇拝レベルであり、実態が伴わなくてもよいということだろうから。」
「これがどういうことがおわかりですか?アンテケルエラやジェードに捕えられても、我々は助けに行かないということですよ?首長でない限り、あなたの命に国を賭ける重さがなくなるからです。敵国が欲しいのが首長でなく王女だというのであっても、我々は動きません。」
「王女は、要らないのだから・・・な。」
リディは、頷いた。
「キール、後を頼む。もっと早く、そうすれば良かったのかもしれない。」
「・・・リディ様。」
キールの未練ある表情を振り切るように、リディは背を向けた。
「明日の朝、フィゲラスと発つ。私は今後もプラテアード内に暮らし続けるつもりだが、ここへは戻らない。しかし、フィゲラスは戻す。医師は大事だ。」
「リディ様がいないアドルフォ城へ、フィゲラスが戻るとは思えませんが。」
「・・・そうだとしても、医師は必要だ。その時は私の傍に置いてプラテアードに貢献させよう。」
キールは、首を振った。
「本当に、よろしいのですか?」
「幹部の忠告を無視して外へ出る以上、どうせ命の保障はない。どのみちキールに後を委ねることになったのだ。」
「リディ様・・・。」
「アンドリューの申し出を断れない私は、首長失格だ。私は私の気持ちに勝てない。他の事なら理性を保てるが、アンドリューのことだけは、どうしても駄目なのだ。」
「私だってわからぬわけではないのです。二人が運命に導かれていることもわかっています。」
「だからって、どうにもならない!それもわかっている!だからせめて会うことだけでも許してほしいと思っていたが・・・今回の状況は、あまりにもリスクが高すぎるものな。」
「申し訳ありません、リディ様。」
「・・・これで良い。私の身勝手な行動で、誰かが犠牲になってはならない。」
その後、二人は今後の対応について夜通し話し合った。
次の早朝、まだ人目につかないうちにリディはフィゲラスを連れ、アドルフォ城の門を出た。
見送ったのは、キールとソフィアのみ。
リディが首長の座を捨てることを、どう国民に伝えればいいのか?
口に出さずとも、二人の思いは一つ。
(きっと、戻ってくるに違いない。)
国を捨てろと言ったのはキール自身だが、リディがそれを出来ないと今でも信じている。
フィゲラスは、知らない。リディがどんな決心で、城を出ようとしているのか。
リディは、馬上からキールとソフィアを見定めると、視線を前へ向けた。
「行くぞ、フィゲラス!」
すべてを断ち切る様な強い声で、リディは鐙を蹴った。
二頭の馬は、みるみる間に林の奥へ小さくなり、消えていった。
キールは、ゆっくりとラベンダー色の空を仰いだ。
白い氷砂糖のような月が、限りなく満月に近い円を描いていた。