第76話:フィゲラスの苦悩
湿気を帯びた土の臭いが鼻を突く。
目隠しをされたフィゲラスは、キールに腕を引かれながら地底深くへと歩みを進めていた―――
夜中、突然キールに起こされ、目隠しをされた。
馬に乗せられ、しばらく進んで降ろされ、草の道を踏みしめた感触の次が土の香りだ。
何の事情も聞かされていないフィゲラスにとって、嫌な予感を拭えない展開だった。このまま崖の淵に置き去りにされて足を踏み外して自殺したと見せかけるつもりでは?などと疑ってしまう。
そして、今。
地下に造られた建物だということは、異常に低い天井や手をついた壁の感触から想像がつく。キールが一歩進むごとに「段差がある」「頭を下げて」「右へ一歩進んで」「そこは壁に穴があるから手をつかないで」と指示してくれるが、それほどに入り組んだ場所が何を意味するのか、段々理解できてきた。
キールの手が離れ、ようやく真っ直ぐ立つことを許された瞬間に、目隠しが取られた。
ぼんやりと、しかし次第にはっきりと目にできたのは、フィゲラスにとっては信じられない「連れ去られたはずの王女」の姿だった。
「リディ様・・・!」
フィゲラスは、キールを始めフレキシ派の主要メンバーが一向にリディを救出するために動き出さないことを疑問に思ってはいた。だが、真実を誰も教えてくれなかった。口にすることが憚られるような気がして、訊けないまま今日を迎えていた。
それが――――――
思わずリディの手を取って、その感触を確かめずにいられなかった。
頬が落ちて青白い顔のリディは儚げで、ちょっと油断をしたら消えてしまいそうに思えた。
「キール、遠くに控えていて。話を聞かれたくない。」
「しかし、」
「案ずるな。フィゲラスの誠実さは、疑う余地もない。それはわかっているはずだ。」
細い身体とは打って変わった低い太い声。確かな「命」を実感できる。
キールの足音が遠ざかり、静寂が耳をつくほどの空間に、フィゲラスとリディの呼吸だけが聞こえるようになった。
フィゲラスは、リディを凝視した。
「御無事な姿に再びお目にかかれて、嬉しく思います。」
リディは、少し目を細めて
「心配かけてすまなかった。だが、ほとんどの者を欺かねばならない状況なのだ。それはわかってくれ。」
「もちろんです。しかも私は敵国の人間ですから。・・・そんな私をお呼びになった理由は?」
リディは少し口ごもり、しかしすぐに力強く口にした。
「アンドリューが、フィゲラスを召還したいと文をよこした。」
「!!」
フィゲラスの大きく見開いた目が、呼吸を忘れて固まった。
リディはすぐに言葉を繋いだ。
「実はアンドリューの用件はわからない。だが、もしフィゲラスを手にかけようというのなら、私がそれを許さない。少しでも怪しい部分があれば、私が必ず阻止する。」
「そんな・・・!私ごときのために、リディ様にそのような事をさせるわけにはいきません。」
「いや、それがそなたの身を貰い受けた私の責任だ。だが・・・多分、心配は要らないと思う。どうもアンドリューは、医師を必要としているようだから。」
「まさか。ジェードにはいくらでも医師がおります。私の手を借りる必要があるとは思えません。」
「だから・・・余程の事情と察している。」
フィゲラスは少しの間黙っていたが、やがて顔を上げた。
「これは、リディ様の御命令なのでしょうか。それとも私の任意なのでしょうか。」
「・・・なに?」
「お許しください。私には行く気持ちがございません。」
「なぜ?」
「私はジェードの土を二度と踏まぬ覚悟でプラテアードに参りました。総督は私を見限った方です。それを今更、どういうことなのでしょうか?それに、ここで戻ったりしたら、まさに私はスパイそのものではありませんか?」
「そんなことは、」
「リディ様は、総督がすべてを、何もかもお見通しで私を送り込んだと疑ったことはないのですか?私は私の潔白を証明するためにも、行くことはできません。」
「フィゲラス・・・。」
「私はリディ様に一生お仕えすると誓いました。・・・お忘れですか?」
「いや。忘れるはずなどない。」
リディは、フィゲラスが申し出を断るなどと考えてもいなかった。
(そうだ。私は再びアンドリューに会えるという思いだけで、軽率に走ったのだ・・・。)
うなだれたリディを見て、フィゲラスは言った。
「リディ様。お仕えする以上、あなたの御命令ならば、私の気持ちがどうであれ、参ります。あのような言い方をして申し訳ありません。ただ、私の心がどこにあるか知っていただきたかったのです。」
「・・・すまない。私が勝手だった。」
「あの総督が、どんなに切羽詰まって私を召還しようと決意されたのか、わからぬわけではないのです。つまらぬ手続きではありますが、・・・どうかご命令を。」
フィゲラスは、リディを真っ直ぐに見つめた。
「どうぞ、リディ様の口から御命令を。私の命はリディ様のものです。リディ様が総督に殺されて来いとおっしゃるなら、その通りにすることも吝かではありません。」
「フィゲラス、私はそんなことのために行かせるつもりはない。」
「わかっております。」
「無理強いは・・・できぬ。」
「では、総督のお申し出を断るのですか?リディ様にそのようなことができますか?」
「私一人で約束の地へ赴き、断ってくる。」
「・・・総督のお役に立ちたいのでしょう?」
リディは思わずフィゲラスから視線を反らした。隠しきれない恋心は罪悪感より勝って止まらない。それが、後ろめたい。沈黙は・・・肯定だとわかっているから尚更だ。
「一言、おっしゃってください。それで私の気持ちに決着がつきます。」
リディは、迷った。
こんなことは許されるのだろうか?
私利私欲にフィゲラスを利用している感が拭えない。
その日は何も言えず、結局フィゲラスをそのまま帰した。約束の日までは、まだ間がある。少し時間が欲しかった。結論が同じだとしても、もう少し考えたかった。
しかし。
「フィゲラス。アンドリューのことを『総督』と呼ぶのはやめてくれないか。もうジェードの人間でないというのなら、そこから、始めて欲しい。」
その日の夜、フィゲラスの部屋の扉が静かにノックされた。
自分を訪ねてくる者は限られている。そして今夜の客は、ソフィアだった。
「中に入れて。廊下は声が響くから。」
「・・・どうぞ。」
ソフィアに刺されて以来、できるだけ会わないようにしてきた。ソフィアも、自分を避けていると思っていた。
だが、それをおして来たからには余程の理由があるはずだが、予測は簡単すぎる。
「リディ様の用って何だったの?」
2メートルの距離を保って立ったソフィアは単刀直入に尋ねてきた。
「それは、私の口から申し上げることはできません。」
「兄さえ遠ざけたからには、それなりの大事ってことよね?だから知りたいの。」
「大事だから、申し上げられない。」
「また刺されたいの?私には何の躊躇いもないこと忘れていないでしょ?」
フィゲラスは、ソフィアを凝視した。
「それは脅しですか?あなたの方こそ、私が躊躇いなく刺されることをお忘れですか?」
ソフィアの喉元の筋肉が引きつる。
「生意気な口を・・!」
「私はリディ様には絶対忠実でなければなりません。命に代えて、何も漏らせない。諦めて下さい。」
ソフィアは暫く沈黙していたが、なかなか部屋を去ろうとしない。フィゲラスは、ソフィアが言いたい事は別にあるのではないかと勘付いた。
「リディ様に謁見した事も、決して口外しませんから。安心してください。」
「・・・幹部だけの秘密だったのよ。」
「わかっています。」
「でも、アンドリューからリディ様宛に伝書鳩が届いたということは、偽王女を送り込んだことがばれているということなのよ?あの男は、リディ様のことなら何もかもわかっているのだから!」
フィゲラスは、重く感じる唇を小さく開けた。
「伝書鳩と私が呼ばれた件に、関係は―――。」
「誤魔化しても無駄よ!兄も何も言ってくれなかったけど、私にはわかる。」
ソフィアは、フィゲラスの襟元を掴んで自分の元へと引き寄せた。美しいソフィアの眉が、フィゲラスの視線の先で吊り上がった。
「私はこの国の行く末を案じているの!アンドリューはリディ様に何を要求してきたの?偽王女だということが公になる前に、自ら身を差し出せとでも言ってきたの!?」
――― アンドリューが、フィゲラスを召還したいと文をよこした ―――
――― どうも、医師を必要としているようだ ―――
フィゲラスは、それ以上のことは聞いていない。だが、実際のアンドリューの手紙には、それ以上のことが書いてあったのだろう。フィゲラスが行こうと行くまいと、リディはアンドリューに会う気でいる。
(もし、リディ様を連れだす事こそが総督の目的だったら!?)
アンドリューがリディを陥れるなど、考えたくはない。アンドリューは、リディに対しては常に誠実だと信じたい。リディの涙を拭えるのがアンドリューだけだと知っている。アンドリューが、リディの恋心を利用するようなことをするなどあり得るだろうか?
「総督は・・・アンドリュー様は、リディ様の不利になるようなことは、おっしゃらないと思います。」
「何を根拠に?あの二人が例え恋仲だったとしても、敵同士であることに変わりはないし、それは二人が一番自覚しているはずよ。」
「確かにアンドリュー様は、ジェードに捕らわれた王女が偽物であることをすぐに見抜けるでしょう。でも、それがこれだけ長い間、未だに、表沙汰にはなっていないのです。秘密は保たれているのですよ。」
「だから?それこそが罠かもしれない。ジェードが何の思惑を持っているか、わかりはしない!唯一の手がかりが、伝書鳩の文なのよ。そうでしょう!?」
「すみません。これ以上のことは、お話しできません。あなたの御心配は最もです。ですが、・・・私も文の内容をきちんと知らないのです。」
ソフィアは、悔しげに歯ぎしりをした。
だが、本当にこれ以上フィゲラスが何も語れないと悟ると投げ出すように手を離し、踵を返して、部屋を出て行った。
乱暴に綴じられた扉が、フィゲラスの身体を震わせた。
フィゲラスは頭を抱えて、ベッドに座り込んだ。
そうだ。
自分がアンドリューに殺されるとか、そんな低次元の話ではなかったのだ。
リディというプラテアードの首長の命がかかった話だったのだ。
『医師が必要』という体のいい口実を餌に、実は本物の王女を吊り上げようという腹なのかもしれない。第一、その伝書鳩の文は、本当にアンドリューからのものなのか?アンドリューを騙った偽物ではないのか?
一度疑い出すと、止まらない。
これが、秘密の重さ。
二人の額の紋章を見てしまった男の、枷。
苦い呻きが、音にさえならない。
誰にも出せない答えに、フィゲラスは眩暈を感じて瞳を閉じた。