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第72話:偽王女の背徳

 フィリシアは部屋の隅で、腕を抱えて考え込んでいた。

 水を飲み、穀物を食べるという本能的な行為を恥ずかしいと思ったのは初めてだった。

 ―― 結局、命が惜しいのか ――

 ―― 偉そうな御託を並べ理想論を吹いていたものの、所詮は下賤と同じなのか ――

 そう、マリティムに思われるのが嫌だった。

 会わせる顔がない。

 フィリシアは、情けなさで泣きたくなった。

(いいえ。・・・泣きたい理由はそれだけではない。私が・・・。)

 飲食を絶って朦朧としていた中ではあったが、あの時、マリティムが自分に何を言ったのかは覚えている。そして、自分に何をしたのか、も。

 あの日から、自分の唇が自分の意志と別の処に存在している。

 マリティムは死に瀕していた自分のために最終手段として口移しで水を飲ませただけ。それはわかっていても、フィリシアの胸の奥が常に小さく疼いている。

(私が偽物だとわかっていれば、あんなことはしなかったはず。私が本物と思えばこそ、命を繋ぎ留めようとしたのだわ。それだけのことと、わかっている。わかっている・・・。)

 フィリシアは、考えを絶ち切るように大きく首を振った。

(私は、もう一度自分の立場を弁えなければ。私はプラテアード人。ジェードは私達を虐げている憎むべき存在なのだから。)

 と、その時だった。

 突然、鉄の扉が鈍い音を立てて開いた。

 遠慮なしに黙って入ってくる人物は一人しかいない。

 フィリシアは頭の中で考えていた人が突如目の前に現れた事に驚いて、思わず立ち上がった。そして、冷たい壁に寄り掛かるように、後ずさった。

 マリティムは、フィリシアの方を向いたまま扉を閉めた。

 その音は何故か恐ろしい時間を予感させるようで、フィリシアの全身に鳥肌を立たせた。

 黄昏色が部屋中を染めている。が、部屋の隅は薄暗い。

 マリティムは、無言のままフィリシアの下へゆっくりと近づいた。

 暗い影に覆われるような感覚に、フィリシアは肩を竦めて縮みあがった。

 マリティムが目の前に立ちはだかり、無遠慮にフィリシアの顎に触れた途端。

「!」

 マリティムは、思わず手を引いた。

 それほどに、フィリシアの身体が大きく震えたからだ。

 なぜ、こんなにも怯えた小動物のように震えているのか。

 マリティムはその疑問を打ち払うように、強引にフィリシアの腕を掴み、黄金色の光の下へと引きずり出した。

 部屋一杯に広がった眩しい夕刻の日差しは、フィリシアの瞳の色を克明に映し出した。

 マリティムが凝視したその瞳は、潤んでエメラルドの宝石のように見えた。

 フィリシアには、マリティムが何をしたいのか真意を掴めない。

 だが、湖色の瞳がブルーグレイに曇っているのがわかる。

 やがて日は落ち、ランプを灯けていない部屋はラベンダー色に染め変えられた。

 マリティムの手が、ゆっくりとフィリシアから離れた。

「・・・残念だ。」

「?」

「偽物だったとは―――」

「!!」

 心臓を太い杭で打たれたような衝撃。が、フィリシアは必至で平静を装った。

 マリティムからこのセリフを聞いた時に何と答えるか、何度もシミュレーションしてきたではないか。

 今こそ、自分の真価が試される時。

 プラテアードの王女という立場を貫く時。

 フィリシアは、マリティムを真っ直ぐに凝視した。

「私は―――本物です。それなのに、なぜ偽物だと?」

「確かな筋からの情報だ。本物の王女の瞳の色は、紅茶色であると。」

「瞳の色?光の陰影でいかようにも映るそんな不確かな情報で、判断なさるのですか。」

「・・・私は以前、アドルフォの娘であろう女を写真で見た事がある。だが、それとそなたが似ていなくても気にすることはなかった。所詮、調べても何も確証を得ることができぬままだったからだ。しかし、今回は違う。私の近しい人間が二人とも同じ証言で一致した。」

「そうであったとしても、私は本物です。それ以外の答えをしようもありません。」

 フィリシアは、唇の震えを止めることに必死だった。心臓の高鳴りで喉が痛いほどだが、それを悟られてはならない。

「そうか。」

 そう静かに言うと、マリティムは腰から剣を抜いた。

 鋭い剣先が、フィリシアの喉元で光る。

 フィリシアは思わず顎を仰け反らせた。

 もはや、これまでか。

「そなたの、本当の名は?」

「・・・愚問を。私の名はルヴィリデュリュシアン・ヴァルフィ・コン・シュゼッタデュヴィリィエ。他の名はありません。」

 反論するフィリシアの曇りの無い瞳が、眩しいほどだ。

 マリティムは眉を潜めた。

 フィリシアは偽物などではなく、やはり本物ではないのか。フィリグラーナの証言が間違いで、エンバハダハウスにいた少女は何者でもないからレオンは勘繰ることもなかったのではないか。

 そんな迷いを覚えながらも、マリティムは剣の柄を握りなおした。

 所詮、誰だって命は惜しいもの。土壇場になれば、白状するに違いない。

 マリティムは剣先をフィリシアの白い喉に突き当てた。少し息を呑むだけで刃が刺さる。フィリシアは言葉を発することもできない。

「もし、ここで偽物であると正直に認めるなら、このまま逃がしてやっても良い。」

「!?」

「偽物を処刑したと公表さえしてしまえば、実際は平民の女一人逃したところで、私は何も困らぬのだからな。」

 フィリシアは下唇を噛んだ。

「どうだ?これが最初で最後のチャンスだ。偽物と認めるか?認めて、この床に跪くか?」

 マリティムの真っ直ぐな視線に、フィリシアは負けてはならないと思った。

 ジェード国王ともあろう男が、こんな脅しに屈服するような人間を許すはずはない。偽物と認めようと認めまいと、行きつく先は同じだ。

 覚悟しなければならない。

 自分は、ここへ、何をしに来たのか。

 そう。殺されに来たのだ。

 フィリシアは顎を反らせたまま、視線だけマリティムを見据えた。

「私は、本物です。それが真実なのですから、それ以外の事を申し上げることはできません。」

 マリティムに睨まれ、それでもフィリシアは言葉を繋いだ。

「私は命つきる最後の瞬間まで同じ事しか言いません。例え拷問にあおうとも、私が言うことは同じです。」

「『生きることが王女の使命、どんな恥を曝しても生きることが罰でもある』と言ったそうだな。何も喉を通らない状況からせっかく立ち直ったのだ。ならばいっそ、偽物だと言って生き延びた方が得策ではないのか?」

 フィリシアは一度口を噤み、再び開いた。

「それだけは、できません。」

「なぜだ?プラテアードへ生きて帰る最初で最後のチャンスだ。偽物と認める、それだけのことではないか。」

「できません。それをすることは、私の自尊心が許さないのです。私のプラテアードの血が許さないのです!」

 フィリシアは自分の喉元に向けられた剣先を右手で握りしめた。

「!」

 驚いたのはマリティムである。

 まるで、「刺せるものなら刺せばいい」と言わんばかりの体制になった。

 見る見るうちに、フィリシアの指の間から鮮血が流れ出す。

 フィリシアは、マリティムを凝視して叫んだ。

「ここに流れる血は間違いなくプラテアード王家のもの。まだお疑いなら、このまま一思いに突けばいい。偽物と言って逃げるくらいなら、私は、ここで王女として死にます!」

 こんなにも大胆なセリフに驚いているのは、フィリシア自身だった。

 もう、ここにいるのは田舎娘などではない。

 王女の身代わりを演じているうちに、いつの間にか本物になりきっている。

 フィリシアは、今、気付いた。

 この塔へ来てから、自分がいかに成長したか。

 王女としての自覚や使命が、どれほど身についていたのか。

 そしてその多くの要因が、マリティムにあることを。

(私はきっとこれで、生まれてきた意味がある。プラテアードのために命を捧げるという志が、達成される。)

 こんな絶体絶命の状況にありながら、フィリシアの心は満たされ、口端に薄く笑みをたたえるほどだった。

 マリティムは、これほど強い女性がこの世にいたのかと舌を巻いた。

 フィリグラーナも強いが、あれは感情的でわがままな強さだ。

 フィリシアが来てから約2か月、多くの諍いを抱えながらも、心は満ち足りていた。

 フィリシアが塔の中にいて、自分の出した課題にどう立ち向かうのか、楽しみだった。

 偽物と判明したこの瞬間でさえ、フィリシアの出方を試し、その答えに満足している。

 もはや、本物の王女であろうとなかろうと、この気持ちは変わらない。

 

 ・・・


 静寂に、微かな水音が響いた。

 フィリシアの手から、床に鮮血が滴る音。

 それでも前だけを見据えるその瞳に、揺らがない決意を見た。

 マリティムは視線を外すと、フィリシアの右手を掴んだ。

 「これ以上は危険だ。」

 そう言うと、剣に食い込んだフィリシアの指を、一本ずつ放してやった。流血は甚だしいが、傷は深くない。

 剣を床に落としたマリティムは、自分の絹のタイを引き裂いてフィリシアの指に巻きつようとした。

 だが、フィリシアは首を振った。

「自分で手当ても出来ぬというのに、なぜ拒む?」

「私は・・・これ以上ジェードに助けられるわけにいきません。」

「『助ける』のではない。・・・人質を保護しているだけだ。」

「では、私を本物と信じてくださるのですか。」

 マリティムは力の抜けたフィリシアの手を押さえつけ、指に手早く布を巻きつけながら言った。

「そこまで言い張られては、仕方なかろう。」

 フィリシアは、安堵に口元を緩めた。と、緊張から少し解き放たれたからか、思わず目の前が揺らいだ。

 マリティムが最後の指に作り終えた結び目に、ポタリと雫が落ちた。

 ハッとして顔をあげると、フィリシアの頬を涙が伝っている。

 驚いた。

 今まで、強気な瞳しか見ていなかったからだろうか。別人のように見える。

 しかし、唇をギュッと噛んで耐えようとしている姿は、やはり同じ女性だ。

 これ以上見つめていると心を揺さぶられるようで、マリティムは目を反らした。

「そんなに敵に借りをつくるのが悔しいのか。」

「・・・いいえ。」

 フィリシアは、振り絞る様に声をあげた。

「敵なのに、優しすぎるんです。」

「・・・!」

「生まれた時からジェードは憎むべき相手でした。ましてや国王など、鬼のような存在だと思っていました。なのに、あなたは―――」

「私は、優しくなどない。誰からもそんなことを言われたことはないし、第一、優しくしたつもりもない。」

「御自分でお気づきになっていないだけです。だって、」

「自惚れるな!・・・優しさなどと、誤解されては迷惑だ。」

 冷水を浴びたような顔をして、フィリシアは口を閉じた。

 その表情を、やはりマリティムは見ることができない。

 確かに、色々やり過ぎたかもしれない。だが、やらずにはいられなかった。それを気取られたくなくて、マリティムはフィリシアの言葉を遮ったのだ。

 フィリシアは、唇を震わせたまま言った。

「出過ぎた事を申し上げました。・・・申し訳ありません。」

「謝ることはない。今まで通り、鬼と思って憎めばいい。プラテアードを虐げているのは事実なのだから。」


――― 「無理です。」


 少しの沈黙の後、フィリシアはそう答えた。

 深い蒼に包まれた部屋の中で、互いの白い顔だけが認識できる。

「無理です・・・。ジェードという国は憎くても、もう、国王であるあなたを憎むことはできません。」

「私を倒さねば、プラテアードの独立は適わぬのだぞ。」

「それは、違います。」

「違う?」

「憎しみは、独立へと奮い立たせる原動力になっても、解決策にはなりません。それを教えて下さったのは、他でもないあなたではありませんか。」

「私が?」

「課題として私に与えた本に書き込まれた下線もメモも・・・すべて記憶しています。だって、すべて私が重要だと考えた場所と同じだったのですから。」

 その言葉に、マリティムは深く心打たれた。

 そうだ。

 自分がずっと孤独だと思っていたのは、自分の考えに傍で同調したり相談に乗ってくれる存在がいなかったからなのだ。

 爺やは生き方の導かもしれないが、政治や国家運営の点で意見を述べたりはしない。

 レオンにその役割を求めたが、物足りなさを感じていた。

 それを埋める存在が、ここにいたとは。

 マリティムは、確信した。

 自分がずっと欲していたものが、フィリシアのような女性であったことを。


「その言葉を私はずっと――― 、求めていた。」


 マリティムの腕が、フィリシアの細い肩を強く抱き竦めた。

「・・・!」

 早鐘のような鼓動に同調しながらも、フィリシアの理性は溺れなかった。

 フィリシアは両手でマリティムを押しのけ、逃れようとした。だが、それをマリティムは許さない。流される様に床の上に押し倒され、フィリシアはこれから何が起こるのか察し、身体を固くした。

 プラテアードを出る時、覚悟しておけとソフィアから言われていた。だがそれは、もっと無機質で残忍な行為として、女の尊厳を汚されることへの覚悟だった。それなのに今感じているのは、小さな甘美。こんなことは、許されるはずがないのに。

 フィリシアは最後の理性で声を振り絞った。

「私を征服しても、プラテアードが服従するわけではないのですよ・・・!」

「当り前だ。私はそんなことを望んではいない。」

 マリティムの肩まで伸びたブロンドが、フィリシアの頬をくすぐる。

 マリティムの白い指が触れた頬が熱い。

 フィリシアは、次の抵抗の言葉を発しようとしが、思いつかない。

(いいえ、違う。私はもう何を言おうと、この人を受け入れる気でいる・・・。)

「これで心置きなく、私を鬼と憎めばいい。」

 唇を強く吸われ、フィリシアは瞼を閉じた。

 こうなっても、プラテアードの誰も自分を責めはしないだろう。「強引に」奪われたと思って憐れむかもしれない。

 そんなことを考えている自分は非国民だと、フィリシアは思った。


 (私はいつか・・・大いなる罰を受けることになる。)


 

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