第71話:瞳の色
爺や――― ハロルド伯爵がフィリシアの容体を確認し、「何とかなるでしょう。」とはっきり言いきった次の瞬間には、マリティムは宮殿へと戻っていった。
レオンは、伯爵に何か手伝おうかと申し出ようと思ったが、部屋の鍵は内側から閉められていて、やはり必要以上の介在を許さないのだという事を悟った。
マリティムとフィリシアのキスシーンがどうしても頭から離れないレオンは、何をどうしていいのかわからなくなっていた。
マリティムがこれ以上フィリシアと近しい関係になる前に、偽物であることを教えた方がいいのではないか。いや、それは駄目だ。偽物と判明した時、アンドリューはそれをマリティムに報告する気はなかった。どういう思惑であれ、アンドリューが良しとしないことを、レオンはする気にならない。
半日経った頃、伯爵が扉まで近づいてきて、レオンに耳打ちをした。
「すまぬが、陛下を呼んで下さらんか。」
「どうかしましたか。」
「王女が一滴の水も受け付けない。しかし、陛下は確かに白湯一杯を飲ませたとおっしゃっておられた。その方法を知りたい。」
レオンは、ハッとした。
キスシーンだとばかり思っていたあれは、マリティムがフィリシアに白湯を飲ませている光景だったのだ。これで合点がいった。だが、心配が払しょくされたわけではない。
レオンは、伯爵が知りたい「方法」を伝えるわけにはいかないため、
「・・・陛下のところへ行ってまいります。」
とだけ答えた。
再びマリティムの部屋のバルコニーに立ったレオンは、ほどなく中へと招かれた。
「今度は、何事だ。」
これほどまでに他者の気配に敏感なマリティムが、フィリシアに口移しで水を与えていた時はなぜ自分の気配に気付かなかったのか。不思議と言えば不思議だが・・・
そんなことを考えながら暫しぼんやりしてしまった所へ、マリティムの低い声が再び響いた。
「レオン。私は忙しいのだ。早く用件を言ってくれないか。」
我に返ったレオンは、伯爵の疑問を敢えて「そのまま」伝えた。
マリティムが何と答えるのか知りたかったのもあるし、次の行動も見てみたかった。そして、やはり度を過ぎると思ったら、苦言を呈する覚悟だった。
だが、マリティムの答えは意外なものだった。
「爺やに伝えてくれ。受け付けぬなら、それまでのこと。点滴に限界があるのなら、それで死んでもやむを得まい。」
レオンは思わずマリティムの表情を確かめようと顔を上げたが、マリティムは背を向けて窓の外を見つめている。
レオンは、思わず言った。
「それで良いのですか。」
「生きる気のない者を、生かす必要はない。」
「しかし、本物の王女だった場合は―――。」
「そうだ、レオン。本物なら、こんなところで絶対に死を選択はしないはずだ。」
「・・・!」
「王女にしろ革命家にしろプラテアードの未来を担う立場。その、自分の命より重んずるべき立場を守れぬようなら、本物ではない。例え本物であっても、それは上に立つ資格の無い、――― 偽物以下だ。」
レオンは言葉を失い、そのまま頭を下げて部屋を出ようとした。
その間際、マリティムが声をかけた。
「王女に―――」
レオンが立ち止まって振り返ると、マリティムは長い睫毛を伏せ、低い声で言った。
「王女に言ってくれ。本物の王女なら、どんな大罪を背負おうとも生きる強さがあるはずだと。」
「・・・はっ。」
レオンには、マリティムがどうやって本物の王女か見分けるつもりなのかわからない。
だから、これを一つのリトマス紙にしようとしているのではないかと思った。この結果に賭けるのだろう、と思った。
レオンにとったら、このままフィリシアに自ら命を放棄してもらった方が都合がいい。どうせ遠くない未来に死ぬ運命なら、マリティムに処刑命令書にサインさせずに済む方がいい。プラテアードだって覚悟していることだ。支障はない。
しかし。
それを躊躇うのは、フィリシアが本物と違わぬ王女の資質をもっているから。
そして、マリティムがそれを認め、また、マリティムが求めているものをフィリシアが持っているから。
本物の王女であるリディを知っているレオンでさえ、フィリシア自身を認めている。
フィリシアの存在の消滅を、心底惜しいと思う。
鋼の塔の天辺まで駆け上がったレオンは、扉の鉄格子を掴んで、叫んだ。
「陛下からの伝言だ!本物の王女なら、どんな大罪を背負おうとも生きる強さがあるはずだと!あなたはどうする!?死ねば偽物だ。このまま自分が偽物だと認めるのか?それとも意地でも飲んで、食べて、本物だと見せつけるか!?」
2週間が経った。
あれ以来、何の音沙汰もないということは無事なのだろう――― マリティムはそう解釈していた。爺やもレオンも全く顔を見せないが、まさか王女が死んだことを隠し立てするような真似はしまい。
それよりも、今の頭痛の種はフィリグラーナだ。
相変わらず産まれたばかりの王子に関わろうとしないし、鬱々とベッドの中で過ごすばかり。マリティムが何か言おうものなら、すぐに癇癪を起して喧嘩になる。
フィリグラーナは、マリティムの心がこれ以上自分から離れることを怖れていた。だが、どうしようもないほど心のコントロールができないのだ。心の病気だと言われても否定はできないほど不安定で、何を言ってしまうか、何をしてしまうか保障できない。
プリメール国に出戻っても、次の人生はない。『紋章付の子を産めない王妃』というレッテルは大陸の王室中に広まっている。第一、ジェードの息がかかったプリメール国に関わろうという国があるとは思えない。
(どうして、私がこんな思いをしなければならないの?私が何をしたと言うの!?)
その疑問の答えがわからず、フィリグラーナは更に不安定な心を抱えて悶えていた。
その夜も、産まれたばかりの王子を抱いた乳母のダイナは、フィリグラーナの部屋を訪れた。何を言われても、続けることで根負けしてくれると信じ、ダイナは辛抱強く同じ事を繰り返していた。
そんなダイナに対し、フィリグラーナは冷たく言い放った。
「その子を連れてくるなと何度言えばわかるの?結婚してから頭が悪くなったのではなくて!?」
「いい加減になさってください、王妃様。王子様には何の罪もないではありませんか。」
「王妃である私に意見するとはいい度胸ね。ダイナ、自分の身分をわきまえなさい。」
「王妃様、私は――― 」
二人の厳しい声に驚いた王子が、突如泣き出した。
フィリグラーナは髪を揺らして首を振った。
「ああ、もう!すぐに泣けばいいと思っている赤ん坊は大嫌いよ!早く出て行って。」
――― 「フィリグラーナ。」
そのやり取りを廊下で聞いていたマリティムは、堪らず部屋の中に入った。
「陛下。」
ダイナが慌てて跪くと、マリティムは泣き愚図る王子の髪をなでてやり、「下がってくれ。」と命じた。
ダイナが退室し、王子の泣き声が段々と小さくなり、完全に聞こえなくなったところでマリティムは口を開いた。
「ダイナの言う通りだ。王子に罪はない。」
フィリグラーナは、紅い唇を噛みしめた。
「そんなこと、誰に言われたくもありませんわ。」
「悩んでも苦しんでも、紋章の有無は変えられない。結果を甘んじて受けるしかないのだ。」
マリティムの言葉に、フィリグラーナは眉を吊り上げた。
「まるで他人事みたいなおっしゃりようですわね。」
「そんなつもりはない。」
「いいえ。それに、陛下は責任の所在を私にあると決めつけておいでですわ。」
マリティムの顔色が変わった。
フィリグラーナは震える口先を必死になって動かした。
「考えてみれば、私だけが責めを感じるのは不合理なこと。原因が私にあるのか陛下にあるのか、わからないというのに。」
「私がいつ、そなたの責任だと申した?」
「言葉ではおっしゃらなくても、その眼は、いつも私を責めていらっしゃるではありませんか!」
フィリグラーナは、ベッドから上半身を乗り出した。
「私は王妃としての責任を果たしたいと懸命なのです。それなのに陛下は結果を甘んじろなどと平然とおっしゃる!」
「それは、そなたを苦しめたくないからだ。重荷を感じて欲しくないと思っているから、」
「そんな嘘が私に通用すると思ってらっしゃるの?」
フィリグラーナは口を尖らせて叫んだ。
「陛下は、私の必死な思いなどどうでもいいと思ってらっしゃるのでしょうね?そうですわよね、ジェードには既に紋章を持った跡継ぎがいるのですから!!」
「!!」
フィリグラーナがハッと口を噤んだ時には、すでに遅い。
マリティムは細く長い指でフィリグラーナの首元を掴んだ。
青ざめた恐ろしい形相に、思わず目を反らす。
「それは・・・どういう意味だ?」
「・・・。」
「どういう意味かと聞いているのだ!」
もはや、隠し立てをしても仕方がない。フィリグラーナは覚悟を決めた。
「私も一国の王女。情報源くらい持っていますのよ。ジェード王室が外国人の私には隠し通しておきたかったのかもしれませんけど、そうはいきませんわ。」
フィリグラーナはマリティムの手を払いのけた。
「ずっと前から知っていましたのよ、陛下にアンドリューという名の弟がいることは!」
「!!」
「私がジェードに来たばかりの頃、アンドリューはこの王宮の庭に忍び込んだことがあって、その時に知り合いました。当時はまさか王子だとは思いませんでしたけど。」
マリティムは、苦々しい思いで唇を噛みしめた。
アンドリューは、何も言っていなかった。いや、言えなかったのか。
そんなマリティムの表情を見たフィリグラーナの中に、意地悪な気持ちが湧き上がってきた。
「そういえば、アンドリューはエンバハダハウスというところに住んでいましたわね?そこに下宿していた女性と話をしたことがありますわ。誰だと思います?」
「・・・あの館は女人禁制だったはずだ。」
「ええ、だから男装して潜り込んでいたのですわ。それがアドルフォの娘だったのです。」
マリティムは、信じられないというように首を振った。
「まさか・・・!」
「今度アンドリューにお会いになった時お確かめになればよろしいわ。本当のことです。」
「エンバハダハウスで会った・・のか?」
「いいえ。・・・ヴェルデの街でアンドリューと一緒に歩いていたのを見かけて、その時に少しだけ。」
さすがのフィリグラーナも、エンバハダハウスにアンドリューを訪ねたことは白状できなかった。結局アンドリューには嫌われたままだというのに、マリティムにつまらぬ誤解をされては割に合わない。
「当時はあの少女が独立運動の王の娘だなんて思いもしませんでした。ましてや王女だったとは驚きでしたけれど。」
マリティムは、衝撃の事実が次々と明るみに出ることに動揺を隠せないでいた。
フィリグラーナがアンドリューの存在を知っていたという事実。
アンドリューが自分の知らないところでフィリグラーナと知り合っていたという事実。
プラテアードの王女がエンバハダハウスに潜入していたという事実。つまり、アンドリューは本物の王女を知っているのだ。独立運動の王の娘と認識できていたかはわからないが、同じ館に住んでいたならそれなりの面識はあっただろう。それは、レオンも同じはず。
「そなたは、王女の顔を覚えているか。」
「見た目は男の子でしたから、今とは随分違うかもしれません。でも、髪と瞳の色は変えようがないでしょう。それは覚えています。」
マリティムは、緊張の面持ちで息を呑んだ。
今、ここで、思いがけず王女の真偽が確かめられるかもしれない。
紋章の有無はともかく、本物かどうか明らかになるか・・・!
マリティムは、覚悟を決めた。
「髪の色は?」
「栗色です。」
鋼の塔の王女の髪も、そんな色だ。
「して、瞳の色は・・・?」
「紅茶色でした。」
マリティムは、喉元を強く絞められたような衝撃で、身体を震撼させた。
鋼の塔にいる女の瞳は、緑色。
瑞々しい葉を思わせる、澄んだ緑色。
マリティムは、震える唇で確認した。
「見る角度によって異なることは・・・ないか。」
「日の光の加減で金色に見えることもありましたけど。」
それは、少なくとも緑とは程遠い色の変化だ。
フィリグラーナは、マリティムがどちらの答えを望んでいたのか読めなかった。
この驚きの表情は、王女が本物だったからか、偽物だったからか。
暫くの沈黙の後、マリティムはフィリグラーナに背を向けて部屋を立ち去ろうとした。
その背に向かって、フィリグラーナは尋ねた。
「答えを・・・お聞かせください。塔の中の王女は本物ですの?」
マリティムは扉の前で一瞬立ち止まり、
「本物に決まっている。」
と、低い声で言い放った。
誰もいない暗い廊下を突き進みながら、マリティムは色々な思いを巡らせていた。
フィリグラーナの記憶が正しいなら、塔の中の王女は偽物だ。
(しかし、レオンもアンドリューも偽物だと言わなかったではないか。それは本物の王女の顔を知らないからなのか?それとも知っていて隠しているのか?いや、隠し立てする理由などありえない。やはりエンバハダハウスに王女が潜入していたことに気付かないまま今に至るのか。)
いたたまれない気持ちで自室に戻ると、ほどなく扉がノックされた。
誰と会う気にもならないが、相手がハロルド伯爵と名乗ったため、中へ通した。
幼少期から心安くしてきた爺やの顔を見て、マリティムは思わず弱音を吐きそうになったが、すぐに思い直して平静を装った。
「塔の中の・・・王女は、どうした?2週間も音沙汰なかったが。」
「王女の御身体のことは御心配要りません。もう大丈夫です。」
そう聞いて、どう思えばいいのだろう。偽物なのだ。処刑せねばならないのだ。
「実は、夕べのうちにご報告をと思ったのですが、王女に強く止められおりまして。」
「止められた?どういうことだ、それは。」
「生き恥を曝していることを、陛下に知られたくないとおっしゃるのです。大勢の犠牲者を出しながら飲み食いしていることが恥ずかしいと言うのです。生きることが王女の使命、どんな恥を曝しても生きることが罰でもある、ただその恥さらしの姿を陛下に見られたくないと。」
「・・・そうか。」
「報告したからといって陛下が塔へお出でになるとは限らないと申し上げたのですが、生き延びた事実さえ知られるのも恥ずかしいとおっしゃるのです。しかし、やはり報告すべきと、遅ればせながら参上した次第です。」
マリティムが小さく頷くと、伯爵は直立に立ったまま話を続けた。
「私もこの年まで複数の国の王女様に拝謁して参りましたが、これほど御自分に厳しく誇り高い姫君は見たことがございません。類まれな資質をお持ちです。」
「爺やは、そう思うか。」
「恐れながら、陛下。私の人を見る目は確かであると自負しております。」
「・・・偽物という疑いも晴れぬのだぞ。」
「偽物とすれば、残念です。あれほどの女性は、そう居るものではありません。万が一偽物であったとしても、あの方は本物以上の王女です。」
自分を育てた男が言う言葉は、自分の考えと同じで当たり前だ。
鋼の塔の王女が偽物であると、マリティムは伯爵に言えなかった。
マリティムは一人、塔の中へ入った。
この螺旋階段を、これほど足取り重く昇ったことはない。
冷たい石の壁につかまるように、マリティムは一歩一歩ゆっくりと頂上を目指した。
いつも通り部屋の監視を続けていたレオンは、突然の来訪に驚いた。
「陛下・・・。」
「爺やから聞いた。元気になったそうだな。」
「はい。」
マリティムの顔色が悪く、強張っている。その異常さにレオンは不吉な予感を禁じ得なかった。
マリティムはレオンの腕を掴むと、レオンの部屋の中に押し入った。
「陛下、どうなさったのです?」
「レオン。私の問いに、答えられるか。」
「・・・!?」
目の前に迫る鬼気迫る瞳の色。
「先程フィリグラーナから、エンバハダハウスに昔、アドルフォの娘が潜入していた話を聞いた。お前は、その事実を知っていたか。アンドリューは、その事実を知っていたか!?」
「!!」
フィリグラーナ!
迂闊だった。
そういえば、エンバハダハウスを監視していたハンスから、フィリグラーナ妃が来たこと、そしてリディと話をしていたことを聞いていた。だが、今の今までその事実を忘れていた。フィリグラーナにはジェリオという隠密がいて、リディの正体を認識している。
「答えろ、レオン。同じ館にいたのなら、顔を知っているな。髪の色も瞳の色も覚えているな?」
「陛下・・・!」
マリティムは、この質問に賭けた。レオンとアンドリューは、果たして真実を知っていたのか、それとも何も知らないのか?
「なぜ私に教えなかった?お前も、アンドリューも、なぜ塔の中の王女が偽物であると知りながら私に隠していた!?」
レオンは、眉根を寄せるマリティムの悲痛の叫びに言葉を失った。
どうすればいい?
何と答えればいい?
ここで真実を告げれば、終わりだ。
だが、ここで答えなくてもマリティムはもう答えを知っている。
フィリグラーナから聞いた瞳の色は、この塔にいる女のそれとは異なるはずだ。
(駄目だ。俺が知っていることを認めれば、アンドリューも同罪になる。それだけは駄目だ・・!)
「・・・それは初耳にございます、陛下。」
「誠か?私を欺けば、それが何を意味するかわかっているのだろうな?」
「もちろんでございます・・・!」
レオンが真っ直ぐに自分を見据えて答えたため、マリティムはそれ以上追及することを諦めた。例え本当はすべて承知していたとしても、この様子では絶対に口を割らないだろう。
「そうか。お前がそう言うなら、そういうことにしておいてもいい。だが、エンバハダハウスに潜り込んでいた男装の少女の記憶はあるな?・・・聞かせてくれ。どんな少女だったか。」
レオンは密かに安堵の息を吐きながら、答えた。
「新聞記者をしていた私の使い走りとして働いてもらっておりました。頭の回転が速く、明るく、無邪気で・・・新聞社の皆から好かれていました。」
「その少女は、栗色の髪に、紅茶色の瞳・・・?」
「・・・そうです。」
静かに息を呑むマリティムを、レオンは見ることができなかった。どんな表情をしているか、見なくてもわかるから。
暫くの沈黙の後、マリティムは静かに言った。
「レオン。私がいいと言うまで、この塔から出て行ってくれ。」
「それは・・・!」
「これは、命令だ。」
「しかし、陛下を一人置いていくことなどできません。」
「レオン。同じことを私に言わせるつもりか。」
マリティムの湖色の瞳が灰色に曇っている。
レオンは、それ以上何も言うことはできなかった。
マリティムがどうするつもりなのか、わからない。
だが、それを聞くことも静止することも許されない。
すべては、国王の御心のままに――――