第68話:白い手
フィリシアに学問の手ほどきをしたのは、戦前は大学の教授だったという隣人である。
戦後、ジェード統治下で教育制度は崩壊し、職を失って農民にならざるを得なかったという隣人は、フィリシアが3歳の時に手作り絵本をプレゼントした。その本で文字の手ほどきをすると、フィリシアは見る見るうちにそれらを習得し、次の絵本、次の絵本へと、貪欲に読み進めていった。更にフィリシアが知識を得ることに夢中になると、教授は喜び、様々なことをフィリシアに教え込んだ。
しかし、そのことをフィリシアの家族は快く思わなかった。「農家の子に学問など不要。それより仕事に励み、女は早目に働き者の青年と結婚して欲しい。」そう切望した両親は、同様の考えを持つ村人達と結託し、教授を村から追い出そうと画策した。
村から去る日、教授は与えられるだけの本をフィリシアに残した。そして、知識や学問がどれほど生き抜く術となり、人生を豊かにするかを説いた。13歳のフィリシアは、教授を追い出す愚かな両親と村人に憤りを覚えたが、それはいつか思い知る日が来るだろうと自分に言い聞かせ、何も言わずに耐えた。
教授の残した本は多種多様だったが、何からどう読めばいいかフィリシアに伝えるように、系統だって番号がつけられていた。哲学、政治、経済、数学、科学、文学、詩、・・・それらすべてが、フィリシアを造詣深く、創造力ある正義漢へと育てていった。そして大人になるにつれ、ジェードの支配下にあるプラテアードがどれだけ虐げられているか身をもって感じる機会が増え、それを何とかしたいと強く思うようになった。
ほどなくフィリシアは、いつの日かフレキシ派で独立運動に携わることを夢見るようになった。
18歳になり、周囲の娘たちが次々と結婚していく様子をものともせず、フィリシアは農家の仕事を手伝いながらも更に勉学に努めた。やがて家族は、フィリシアに普通の娘としての将来を求めることを諦め、何も言わなくなった。
19歳の時、フレキシ派に加わる方法がわからない田舎娘は、今の自分にできる事を考え、村の隅で野外学校を開いた。週に一度、農村の休みの日にだけ開校する年齢不問の学校。フィリシアは、大人には単なる学問ではなく、農村で生きる人々にとって必要な事を教えようと工夫した。土地の計算や地理、天文、気象、農薬の配合、土の種類、種の配合、目方の計算・・・。それにより、村人たちは学問の必要性を知り、認めていった。そして、かつて教授を追い出したことを後悔したのである。
そして20歳の時。
遠い夢の存在だったフレキシ派派首の身代わりという大役が、突然与えられた。
すべての村に学校を作りたいというリディの思いを知っているフレキシ派のメンバーが、自力で完全無償の学校を開いた女性の噂を聞きつけていたのがきっかけである。
チャンスは、突然訪れる。
いや、「機会」は突然訪れる。それをチャンスとできるかどうかは、普段から十分な準備と努力を重ねてきたかどうかによるのだ。だから「私はついていない。チャンスなんて訪れない。」と嘆く人間を、フィリシアは軽蔑していた。
フィリシアが目を覚ましたのは、2日後の事だった。
死んだように眠り続けたため、起きた瞬間は、今、自分がどこにいるのか認識できないほどだった。そんなフィリシアの意識を引き戻したのは、鉄格子のついた黒い扉だった。
レオンはフィリシアと目が合うなり、早口で言った。
「陛下からの伝言です。机の上の5通、文字が雑で読めないゆえ、書き直せと。」
フィリシアは白い額にかかる乱れた髪をかきあげ、少しの間だけ気だるく項垂れていたが、冷たい水で顔を洗うと、すぐに机に向かった。しかし、右手は関節や筋が痛み、ペンを握る力さえ無かった。
レオンはその様子を見て、口を出した。
「腱鞘炎になりかけている証拠ですよ。無理をすると、悪化します。」
フィリシアは感情の無い目でレオンを一瞥すると、ペンを持った右手を細い布で何重にも巻きつけた。布の片端を口端に噛みしめ、力いっぱい引っ張り上げる様は、「王女」というより「田舎娘」を思わせたが、フィリシア自身はそんなことを考えている余裕はないようだった。布で無理にペンと密着させた手で、文字をなめらかに書けるわけがない。だが、マリティムに書き直しを命じられた「眠気に襲われたミミズ文字」よりはましだろう。
遅々として進まないペンに焦りを隠せないフィリシアの手は、2時間後には小刻みに震えるようになった。
レオンは、もう一度扉越しに声をかけた。
「少し休んだ方がいいですよ。」
「・・・ジェード国王は、この5通をいつまで待って下さるの?1分後にそのリミットがきても、私は驚かない。それなのに、どうしてペンを止めることができるというのです?」
「しかし、」
「3か月分が叶わなくても、例え1日分だけでも食料を与えて下さるというのなら、私の手だけでなく、足でも命でも持っていけばいい。」
レオンは、低い声で訊いた。
「あなたは、プラテアードにとって必要不可欠な存在であるはず。国民のことを思えば、今、ここで死ぬわけにはいかないのでは?」
フィリシアは書く手を一瞬だけ止め、レオンの方を一瞥した。
「そんな心配をする資格など、ジェードの方にはないはずです。」
左手で右手を支えながら、フィリシアはペンを進めた。
レオンが軽くため息をついた時、不意に足音が聞こえてきた。
ゆっくりとした、重い革靴の音。
マリティムだ。
マリティムは目で合図をすると、レオンと共に隣の部屋に入った。ここでの会話は、フィリシアには聞こえない。
「いつ、目を覚ました?」
「今から3時間くらい前です。」
「書き直しの事、何か言っていたか。」
レオンは、フィリシアとやりとりした会話全てを忠実に再現し、伝えた。
マリティムは黙って聞いていたが、やがてレオンに言った。
「レオン。私に、お茶を入れてくれ。王女が書き終わるのをここで待つ。」
「いつ終わるか知れません。終わり次第、使いをやりますが。」
「面倒だ。ここで良い。」
「私が飲むような、安い茶葉しかございませんが。」
「それならば安い茶葉で、私の口に合うように最善を尽くしてくれ。」
お茶の準備をしながら、レオンはマリティムの様子をそっと窺っていた。
詰襟の首元を緩め、天井を仰ぐようにして瞳を伏せたマリティムの瞼が、疲れの色を濃く示している。
アンテケルエラの動き、そして王女を奪われたプラテアードの動き、それらを牽制し軍が動いている状況は、未だ変わらない。すべての最高指揮官であり、大きな決定を下すのはマリティムに他ならない。
多忙を極めているのをわかっているから、レオンはマリティムが執務室に戻れるよう配慮したつもりだった。
だが、それは違うのかもしれない。
マリティムは、この鋼の塔へ息抜きに来ているのだ。
こんな離れた塔へわざわざ足を運んでくるのは、数時間だけでも、差し迫った現実から逃れたいからなのかもしれない。そして、王女の書く文章だけが、今のマリティムの楽しみとなっているのかもしれない。
マリティムを部屋に残し、レオンは再びフィリシアの部屋を覗きに戻った。
一心不乱とは、こういうことをいうのだろう。
(血筋とか、生まれなど関係ないのなら、間違いなくこの娘は王女だ。王女の資質を持った、唯一無二の存在だ。)
殺すには、惜しい逸材。
だが、偽物である以上、死は免れない。
その運命を、どう思っているのだろう。
偽の王女は?そして、マリティムは・・・。
1時間後、完成した5通をレオンはマリティムに届けた。
レオンの部屋で使い古しの椅子に足を組んで座っていたマリティムは、紙を広げて見るなり苦笑した。
「以前のものより読めなくはないが、ひどい字だな。子供の殴り書きのようだ。」
「右手がペンを持てないのを、無理に動かしているような状態でした。」
「そうか。」
マリティムは、一息にすべての文章を読み切った。
やがて立ち上がると、レオンに尋ねた。
「消毒薬を持っているか。」
「・・・応急処置用の薬箱がございます。」
「貸してくれ。」
「王女の手当なら、私が致しますが。」
だが、その言葉に対する国王の返答は、恐ろしいほど冷ややかだった。
「あの部屋に入ることが許されるのは、私だけだ。それを忘れるな。」
マリティムの背を見送りながら、レオンは眉をひそめた。
――― 私が間違っている時は間違っていると、正面から指摘してくれる存在が必要だ。例え私に銃口を向けられたとしても、私のために、忠告をしてくれる人間が必要なのだ。 ―――
マリティムが自分を傍に置いた理由は、心に刻みつけている。
戦いや政治のことなどであれば、躊躇なく苦言を呈する覚悟がある。だが、マリティムの「心」にまで意見をすべきかは悩むところだ。所詮、自分は身分低き他人。国王の心を責めることが許される存在がいるとすれば、王妃だけだろう。
レオンは固く冷たい壁にぴったりと背をつけ、これ以上考えまいと瞼を伏せた。
突然扉が開き、フィリシアは息が止まるほど驚いた。
ここへ閉じ込められたばかりの時に会った男。彼こそがジェード国王だということはわかっているが、それが自分の方へ向かって歩いてくることが理解できない。
フィリシアは咄嗟に身を翻し、部屋の隅に逃げ込んだ。
マリティムは、部屋の中央まで来ると立ち止まった。
「手を見せてみろ。」
「?」
「紙にかすれた血の跡があった。指にできた肉刺がつぶれたのではないか?」
フィリシアは、思わず自分の右手を左手で隠した。そのことを咎められるのではないかと恐れたからだ。
マリティムは、右手をフィリシアの方に差し出した。
「怖がることはない。手当てをするだけだ。」
フィリシアは、思いがけない言葉に驚いた。
「国王ともあろう方が、他人の怪我を手当てなさるのですか。」
「そなたが私と同じ王族でなければ、絶対にしないことだ。」
フィリシアは思わず息を呑んだ。
「私が偽物だったら・・・?」
マリティムの瞳と、フィリシアの瞳が一瞬だけ重なり、また離れた。
マリティムはしばらく押し黙っていたが、やがてフィリシアの問いに答えず別の話を始めた。
「今回の課題は、昔、私が父から課されたものと同じだ。その時手がどうなったか、覚えがある。放っておくと良くない病に侵され死に至るかもしれないが、それでも良いのか?」
フィリシアは躊躇いながらも、マリティムに手を委ねた。実際、中指の第一関節は厚い皮がめくれ血が滲んでいたし、他の指にも水膨れができていた。利き手で利き手の手当をすることは難しく、どうしようかと思っていたのは事実だ。
マリティムの手は、今まで触れた事のある誰の手よりも滑らかだった。土仕事や水仕事などやったことのない手。育ちの良い、白い品のある手だ。
丁寧に包帯を巻かれ終わると、フィリシアは礼を言った。それに対し、マリティムはこう答えた。
「3日、だな。」
「え?」
「3日だ。あの論文の対価は、せいぜい3日分の食料。3か月はおろか、1週間分にも及ばない。」
フィリシアは、左手の拳を太腿の脇でギュッと握りしめた。
「わかりました。3日分でも助かる人は多いでしょう。」
「・・・課題を与えた時、正直私は『できるものならやってみろ』という気持ちだった。私があれほど苦労したものを、女で、しかも教育の機会を奪われた国の者がやり遂げるなどほぼ不可能だと思っていた。・・・一体、誰から教えを受けた?父アドルフォか?それとも、家庭教師でもいたか。」
本物の王女がどうだったのか、フィリシアは知らない。だから下手なことを言うより、無難な答えを選ぶべきと判断した。
「父から・・・。」
「そうか。大したものだ。やはり、侮れんな。」
フィリシアが次の言葉を言う前に、マリティムは部屋から出て行った。
再び鍵を掛けられた鈍い金属音が、フィリシアの心を目覚め前よりも孤独にさせた。
マリティムは、自室で待機していたレオンの所へ立ち寄った。
「これから暫く忙しくなる。緊急の用向き以外、私への報告は遠慮してくれ。」
「はっ。」
「おそらく次に私がここを訪れる時には、王女が本物か否か明らかになるだろう。」
足早に螺旋階段を下って行くマリティムの後ろ姿を追いながら、避けられない運命の日が近づいてきた事を、レオンは覚悟していた。