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第63話:満月の見えない夜  -その3-


 プラテアード、アドルフォ城壁内―――


 民衆を収容した建物の中にたちこめるのは、人の熱気、湿気、濡れた衣服の生乾きの臭い・・・。

 夜中になり、人々が固い床の上で身を寄せ合って眠りだすと、視覚と聴覚以外の感覚が冴えてくる。雨が止まないため、窓を開けられないことが増々環境を悪くするが、解決策はない。

 簡易診療所を閉じ、アドルフォ城内の診療室へ戻ったフィゲラスは、ジロルドに休むよう促した。今日明日は人が多い。病人が出る可能性も高く、診療室は24時間営業することにしていた。

 さすがのソフィアも疲れの色が隠せなかったが、特に今晩は絶対にフィゲラスを一人にできない。何せ、アランというジェードの人間が城内に紛れているのだ。目を離したが最後、二人で何を企むか知れやしない。

 監視とはいえ、何もせずフィゲラスを見ているのは勿体ないので、診療室にいる時のソフィアはいつも布を細く切って包帯を作っている。患者が来れば、フィゲラスの手伝いをする。「この際だから、ちゃんと学んで看護婦さんになるといいね。」とジロルドに言われこともあるが、「私は革命組織の幹部が仕事なんです!」と突っぱねてきた。しかし、今この国に医師が不足しているのは確かだし、看護婦など皆無に等しい。なぜなら、ジェードに統治されて以来、医師や看護婦を養成する学校を運営する資金がなくなってしまったからだ。

(すべて、そう。・・・教育の場を奪われたプラテアードの国力はみるみる落ちている。こうして増々、ジェードに抵抗する術を奪われていくのだわ。)

 リディの政策の一つに、「一町一学校」というものがあるが、資金繰りが難しく頓挫したままだ。高度な技術や学問など、到底手が届かない。

(その上、この飢饉。また独立への道のりが遠のいてしまった。)

 ソフィアがため息を吐いた。

 と、その時。

 乱暴なノックの後、大柄な男が息を切らして押し入ってきた。

「先生、診てくれないか!?」

「ジャティス?」

 ソフィアは男の名を口にしながら、弾かれる様に立ち上がった。

 ジャティスはフレキシ派幹部の一人で、地位は低いが信用にあつく、キールの付き人のような立場にある。診療室に待機するフィゲラスと一緒にソフィアがいる事情も、説明する必要はない。

 ジャティスは大きなマントの中に人を背負っていた。

「林の岩陰に倒れていた。すごい熱で・・・。」

 そう言いながら、背負っていた青年をベッドに降ろす。

 青白い顔、血の気のない唇。

 その主の顔を見たフィゲラスは、心臓が止まるほど驚いた。


(総督・・・!)


 フィゲラスは、思わずソフィアの顔を見やった。ソフィアはアランと共にアンドリューの名を口にしていた。この場に現れた敵を、どうする?

 しかし、ソフィアは眉一つ動かさなかった。

「ジャティス、経緯を話してちょうだい。」

「林を通り抜ける途中に見つけたんだ。着古した服に擦り切れた靴・・・。遠くの村からアドルフォ城へやってくる途中だったに違いない。」

「・・・。」

 ソフィアはフィゲラスの方を向いた。

「私はジャティスと一緒に兄に報告してくるわ。一人にするけど、おかしな気は起こさないでね。」

 棘のある語尾を強め、肩越しに今一度フィゲラスを一瞥したソフィアは、ジャティスを率いる形で診療室を出た。

 薄暗い廊下を少し歩いたところで、突如ソフィアは立ち止まった。

 周囲に人影のない事を確認し、声を押し殺してジャティスに言った。

「地下室の様子は?」

 リディを地下室に閉じ込めて以降、フレキシ派幹部のジャティスは「伝達役」となり、1時間置きに状況を報告しに地下室とアドルフォ城の間を往復している。

 アンドリューが倒れていた岩陰は、リディが身を潜めている地下室の入口近くだったため、ジャティスの目にとまったというわけだ。

「パリス殿からは、『異常なし』と。」

「リディ様の御様子は?」

「それも含めて『異常なし』ということです。」

 ソフィアはおもむろに腕を組み、壁にもたれた。

「先程の男、連れはいなかったの?」

「私が見つけた時は、一人でしたが。」

「馬は?もしあの男がジェードの人間なら、馬で移動してるはずよ。」

「激しい雨に暗い道でしたので・・・気づくことができなかったのかもしれません。」

「そんなことでは、幹部として役不足だわ。地下室を探りに来ていた他国の人間だとしたら、どうするつもり?」

「・・・申し訳ありません。」

 小さく項垂れたジャティスに、ソフィアはため息をついた。

「いいわ。あとは私に任せて。今、兄は大変な時だし、このことは報告しなくていいから。」

 ソフィアはジャティスの背中を見送ると、太腿脇の拳をギュッと握った。

 診療室に戻るや否や、ソフィアはフィゲラスの傍らに立った。

「様子は、どう?」

「肺炎をおこしかけています。」

「話をしたいのだけど。」

「無理です。呼吸困難がひどくて―――」

「そんなこと、私が知ったことではないわ。」

「無茶なことをおっしゃらないでください!」

 ソフィアは、強引にフィゲラスを脇にどけ、ベッドに眠るアンドリューの顔を凝視した。

 フィゲラスは、ごくりと息を呑んだ。

 ソフィアの冷ややかな眼差しは、間違いなく敵を捉えたことを表している。

 アンドリューと何を話そうというのかわからないが、医者である自分が今すべきことは唯一つだ。

「まず、治療させてください。その後でなければまともに話はできませんよ。」

「これが、そんなやわな男であるものですか!」

 アンドリューを覆っていた毛布を、バッと剥した次の瞬間。

「!!」

 ソフィアの呼吸が、思わず止まった。

 濡れたシャツを脱がしたまま横たわるアンドリューの上半身には、大小の無数の傷跡が痛々しいまでに刻まれている。

 フィゲラスは、以前アンドリューの背中に注射をした時、この傷跡を見ていたため驚きはなかったが、ソフィアにとっては衝撃だった。

 少しの茫然の後、ソフィアはベッドに背を向けた。

 何を言っていいかわからず、何をしたいかもわからなくなった。

 アンドリューがここへ運び込まれた事も想定外だったが、それを他人に悟られてはスパイなどできない。しかし、この傷はソフィアの様々な記憶を呼び戻すのに十分すぎた。

(これが・・この傷が、カタラン派の拷問の時のもの・・・。そしてそれを手当てしたのがバッツとバッツの家族、ジロルド先生。そしてそのために、バッツは・・・!)

 唇の奥から悔しさが漏れそうだ。

「治療・・・しますよ。」

 ソフィアの顔色を窺いながら、おそるおそるフィゲラスが申し出た。

 その言葉の返事に、ソフィアは戸惑った。

 アンドリューを殺すことが、バッツのした事すべてを否定することになりそうな気がしたからだ。ここで殺すことは容易い。だが、そうしたらバッツは何故死んだのだ?何と引き換えに死んだのか?バッツが命と引き換えにしてでも守ったのは他でもない、ここにいる男ではないか!

 アンドリューを見守らせたリディを恨んだ。散々、詰った。許せなかった。

 だが、それが何の解決にもならないと知って、やめた。

 滲む悔しさは、少しも色褪せないが・・・。

 ソフィアが何も答えないため、フィゲラスはアンドリューの治療を始めた。

 

 衝立に引っかけたアンドリューのシャツが乾いていく色を睨みながら、ソフィアは考えを巡らせていた。

 リディの話によれば、アンドリューはリディを受け入れず、しかし、リディに一国の主として使命を全うする覚悟をさせるだけの助言をした。リディが王女であることを昔から知っていたというし、声明を出すこと自体、アンドリューの提案だったのかもしれない。とすれば、その行方を気にかけアドルフォ城へやってきても不思議はない。

(アンドリューの助言が本当にリディ様のためだったのか、それともプラテアードを陥れるための罠なのか・・・。)

 肝心のリディは、表向きジェードへ連れ去られてしまっている。しかも連れ去ったのは第四総督のウエルパ将軍。それを総督であるアンドリューが知らぬはずがない。

 ソフィアは、ハッとして顔を上げた。

 そうだ。

 アンドリューは、連れ去られた女を見てリディでないことに気付き、本物を探しに来たのかもしれない。

 所詮、敵は敵。この男もジェードという大国の歯車の一つにすぎないのだ。

 本人がバッツに恩を感じているとは限らない。

 リディがそこまで愚かだとは思っていないが、恋は盲目。心底騙されているのかもしれない。

 連れ去られた王女が偽物であると、今は未だジェード王室に知らされていないのかもしれない。だが、アンドリューが生きている限り、それは時間の問題だ。

 ソフィアは意を決し、再びベッド脇へと歩み寄った。

 フィゲラスは、ソフィアの表情を見るや否や、身構えた。

 ソフィアの紅い唇が、残酷な血の色に見えたからだ。

 

 シュッ


 ソフィアは、腰に刺していた長い剣を素早く抜いた。

 それは、フィゲラスが予想した最悪の状態。

 フィゲラスは思わず、アンドリューのベッドの前に腕を広げて立ちはだかった。

 ソフィアの刃先は、躊躇いなくフィゲラスの喉元へと真っ直ぐ向けられる。

「どきなさい、フィゲラス。」

 鋭い視線。剣よりも、心を射抜きそうな強さ。

 フィゲラスは負けじと、ソフィアを睨み返した。

「いいえ、どきません。」

 ソフィアは、唇の片端を歪めた。

「・・・やはり、お前はジェードの回し者か!!」

「違います!私は、この方が死んでしまったら誰が一番悲しむか知っているんです!私は命に代えても、その方を悲しませるわけにはいかない!」

 ソフィアは、眉をひそめた。

 フィゲラスが、リディとアンドリューの事を知っているとは思っていなかった。

いや、正確にはリディがアンドリューを想っているという、リディが決して口にしない事実を知っている存在がいることに驚いた。

 だが、それとこれとは関係のないことだ。

 ソフィアは、紅い唇を大きく開いた。

「この男は、リディ様の命運を握っているの。いいえ、プラテアードの命運を握っているのよ。このまま生かしておくわけにはいかないわ。」

 フィゲラスは、必死に首を振った。

「どうか、お願いです。ジェード総督府内でリディ様を本当に助けたのは、この方なんです。総督がいらっしゃらなければ、リディ様が死んでいたのは確かなんです。」

 ソフィアは、ベッドで苦しげに呼吸するアンドリューを凝視した。

 しかし、決意は変わらない。

「リディ様を助けたことが何の免罪符になるというの?どうせ、恩でも着せようって魂胆でしょうが!?」

「それは・・・!私には本当のところはわかりません。でも、リディ様がこの方をどれほど思っていらっしゃるか、私は気付いてしまったんです。そして多分、総督も―――」

「それが何だと言うの!?」

 ソフィアは、剣を持つ手に力を入れた。

「国の将来がかかっているのよ。僅かな危険でも潰していかなければならないの。 そこをどきなさい!!」

 ソフィアの剣が、素早く宙を切った。


「!!」


 片目を瞑った方のフィゲラスの頬から、赤い血が染み出た。


「次はその心臓を貫くわよ?私にとったら、お前なんていない方がいいのだから!」


 ――― アンドリューが目にしたのは、ここからだった。

 目を見開いたアンドリューの胸元に、真っ赤な血が滴り落ちる。

「・・・ぐっ、」

 苦し気に呻く声の主の正体に、アンドリューは更に驚いた。

「フィゲラス・・・!?」

 アンドリューには、未だわかっていない。

 ここが、どこなのか。

 一体、何が起こっているのか。

 なぜ、フィゲラスがここにいるのか。

 考えるより先に目に飛び込んできたのは、フィゲラスの右肩の辺りを貫通する銀の刃と、白いシャツに広がる血。そして、その肩の向こうに見えた女性 ――― 

 白く細い顎、金髪の混ざる栗色の柔らかな髪。 

 以前、写真で見た「アドルフォの娘」と噂された美女 ―――


(そうだ。キールの妹・・・!)



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