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第62話:満月の見えない夜 ―その2―

 長いこと干からびていた大地に雨が染み込み、ぬかるんだり水溜りができたりで、道の状態は相当悪くなっていた。日が暮れてしまうと、ランプで幾ら照らしても5mより先の障害までは見通せなくなった。

 増水した川沿いの砂利道を避け、林の中を回り道したせいもあり、レオンとアンドリューは、結局アドルフォ城へ辿り着くことができないでいた。

 今夜は、どこか休む場所を探さねばならない。二人は林の中に狩猟小屋でもないだろうかと期待して馬を進めた。しかし、ここは領土とはいえ敵地。ジェードの人間とわかれば、歓迎されるはずがない。下手をすれば半殺しの目に遭う。

 アンドリューは、濡れた前髪をこめかみへと払った。厚い雨雲のおかげで、今夜は満月を警戒しないで済む。

「・・・アンドリュー、あそこの岩陰で少し休めそうだ。」

 重なり合う木々の奥。ちょっと見ただけではわからないが、レオンは自慢の観察眼で見定めた。馬から降り、低い木の枝をくぐりながら進んでいくと、人の背丈の数倍ある岩が重なり合った隙間を確認することができた。

 馬を木の幹にくくりつけ、二人は岩陰でマントを脱いだ。

「雨を避けるだけで一杯だな。この狭さでは身体を伸ばすこともできない。」

 銀の糸のような雨を眺めながらレオンがつぶやくと、アンドリューが脇で軽く咳込んだ。

「大丈夫か?」

 レオンがアンドリューの顔を覗き込むと、アンドリューは逃れる様に背を向けた。

「・・・アンドリュー、こっちを向いてくれ。」

「向いてどうする?俺の事は気にするな。」

「アンドリュー!」

 レオンが無理に振り向かせようと肩を掴むと、アンドリューはそれを手の甲で振り払った。

 微かに触れた瞬間、レオンはハッと息を呑んだ。

 冷えて濡れた手に感じる、熱い体温。

 アンドリューはこの数日、ほとんど眠っていない。しかも夜通し動きっぱなしだった。体力の無くなっているところへ、長時間雨に濡れた。鍛えた身体ではあるものの、熱を出しても不思議はない。

 レオンは、濡れたマントを羽織りなおした。

「ここに居てくれ。もう少しまともな場所がないか、探してくる。」

「いや。今夜はここから動かない方がいい。」

「だが、このままでは肺炎をおこしかねない。火を焚いて、服を乾かす場所が欲しい。」

 アンドリューは、レオンの腕を掴んだ。

「大丈夫だ。俺の事は気にするな。」

 レオンは首を振る。

「アンドリューを守るのが俺の役目だ。」

「そういう問題ではない。・・・ここで駄目になる命なら、俺はそこまでの運命だったということだ。」

「そういう事を言わないでくれ。俺やアラン、ハンスがどれほどお前を大事にしてきたか、わかっているはずだろう?」

「レオンは・・・マリティムの隠密の方が、大事なはずだ。」

 レオンは、怪訝な表情を浮かべた。

「そういう風に思っていたのか?」

「国王の命令は、絶対だ。」

「もちろん。だが、俺はマリティムの隠密として死ぬ気はない。俺はエンバハダハウスでアンドリューに会った時から決めている。一生、影の身でいるかもしれない運命の王子のためだけに、命を捨てると。」

 レオンは、アンドリューをその場に座らせた。

「10分だけだ。それで見つからなければ戻ってくる。」

 アンドリューの次の言葉を待たずに、レオンは闇に消えて行った。

 アンドリューは何度も咳込み、額を抱えた膝に埋めた。

 熱を出すなんて、子供の頃以来だ。

 リディに会った夜が、ものすごく遠い昔のような気がする。

 瞼を閉じると、何かに引っ張られる様に意識が遠のいていった。



 約束通り10分後に、レオンは戻ってきた。

 しかし、そこにアンドリューの姿はなかった。

 脱いだマントだけが地面に置かれ、後は何も残されていない。


 レオンは、背中から込み上げる恐怖に我を忘れて大声を上げた。


「アンドリュー!!」


 叫んでも、叫んでも、何も帰ってこない。

 

「アンドリュー・・・っ!」

 

 息を切らして、辺りを走り回った。

 馬は木に繋がれたままになっている。

 どういうことだ?

 こんな短時間に、そう遠くへ行けるわけがない。

 こんなにも忽然と姿を消してしまうなんて、まるで目に見えない力が働いて、アンドリューを隠してしまったようだ。

 しかし、そんな夢のようなことはありえない。

 誰かが。

 誰かが、アンドリューを連れ去ってしまったのだ。

(一人にすべきではなかった。こんな林の中に他に人がいるはずがないと油断した俺のミスだ!!)

 レオンは、気が狂いそうだった。

 アンドリューに何かあれば、生きてはいられない。

 アンドリューが死ぬときは、自分も死ぬときだ。


「―――――・・・っ!」


 声にならない嗚咽を残し、レオンはその場に膝をついた。

 アンドリューが行方不明になったことは、幾度もある。

 王子であっても、「神に試される存在」であることを理由に、24時間監視する役目の者を付けていないからだ。しかし、軍の諜報部員としてカタラン派で拷問に遭って以来、流石に気をつけてきた。だから、アンドリューが伴を連れずに一人で出掛けることを口うるさく諌めてきた。それなのに。

(俺がついていながら、こんなことに・・・!!)

 アンドリューが自ら動いたのなら、必ず戻ってくると信じていられる。

 しかし、そうでない場合は不安を拭えない。

 しかも、自分が付いていながらこの失態。悔やんでも悔やみきれない。

 レオンは力を落しながらも、アンドリューを置いて行った場所に戻り、岩肌に背をもたれかけさせた。

 止まぬ雫の先に広がる漆黒の天に向かってレオンは願った。

 数分後に、いや、朝が来る頃でもいい。

 何事もなかったかのようにアンドリューがここへ戻り、笑顔を見せてくれるように・・・、と。



 一方、王女をジェードまで届ける役目を仰せつかったガラン総督の一行は、国境前後で馬を換えるなど万端の準備を整えていたため、悪天候にも関わらず歩みを進めることができていた。そして、どうにか未明までに首都ヴェルデの王宮へ辿り着いたのである。

 リディの身代わりになった農民の娘は、名をフィリシアといい、歳はリディより3つ4つ下だった。農家の生まれながら哲学書を読みこなす、地元では知られた才女だった。機会あらばフレキシ派の運動家として活動したいと常に願っていた。その噂をかねがね聞いていたキールが、リディの身代わりとしてアドルフォ城へ呼び寄せたのである。

 賢い面持ちだが、美人ではない。背は人並みで痩せている。その辺りはリディと似ている。本物の王女とマリティムが見抜くまでの時間稼ぎができればいい。

 マリティムが見抜けなくても、どの道アンドリューが見ればわかることだ。キールは、アンドリューがジェードにとってどのような存在なのかは知らないが、ジェードの王子であることは知っている。リディを助けてくれたとしても、敵であることを放棄したわけではあるまい。

 フィリシアが知らされた情報は少ない。

 リディがプラテアード王家の末裔であること。リディの身代わりにジェード国王の下へ行くこと。そして、身代わりであることがばれた時点で命が無くなるであろうこと。

 フレキシ派の使いからこの話を聞いたフィリシアは、一瞬ためらったが、すぐに承諾した。国の独立のために、機会あらばこの身を投げ出そうと考えていたのだ。拒否すれば、自分の志など吹いて飛ぶようなものだったという情けない証明になる。それに、夢にまで見た「アドルフォの娘」リディの身代わりという大役だ。これで死ねるなら、名誉なことだ。

 両親、家族にも任務の内容は秘密にしなければならなかった。フィリシアは「フレキシ派のメンバーに入れてもらえる」とだけ告げ、着替えも持たずに家を出た。

 突然の別れ。

 しかも、永遠の。

 アドルフォ城に到着し、キールから「死を覚悟して欲しい。」と真っ先に言われた時は、さすがに身震いした。だが、今まで周囲にいた村の男とは比べ物にならないほど綺麗な男――ずいぶん年上ではあるが――が、自分の足元に跪いて「申し訳ない」と頭を下げた時には、心が決まった。キールの名は知っていたし、リディの側近中の側近であることも知っている。その男が自分に頭を下げたのだ―――それがフィリシアの自尊心をくすぐった。

 キールとの話が終わると、別室へ連れて行かれ、ソフィアが着替えを手伝った。一応、「王女」であり「フレキシ派派首」なりの服装を整えておかねばならない。農家の娘の出で立ちのままでは困る。

 フィリシアにコルセットを付けさせ、紐を縛りあげながら、ソフィアは背中から尋ねた。

「あなた、恋人は?」

「私は、物心ついた頃から国のために命を捧げようと決めておりました。ですから、」

「そう。それは立派な心がけだこと。では、未練はないのね。」

「両親には・・・何も言っていないので。」

「すべてに片が付けば、国のために大きな働きをしたことをご両親に必ず伝えるわ。」

 ソフィアの物言いは冷たく、フィリシアは先ほどまで高揚していた気持ちが冷えていくのを感じていた。

 青いビロードのドレスを着せ終わり、ソフィアはフィリシアを見下ろした。

「兄は、何て言っていたの?」

 フィリシアは、その時はじめて目の前の女性がキールの妹であることを知った。言われてみれば、よく似ている。

「・・・死を覚悟せよ、と。それから、申し訳ない・・と。」

「それだけ?」

「え・・・。」

 ソフィアは軽く息を吐くと、一気に話した。

「あなたには覚悟してもらうことが他にもあるわ。王女の身代わりであることがジェードに知られようと知られまいと、マリティム国王の狙いがわからないのだから、何とも言えないのよ。他国へ高く売りつけようというなら、王女として贅沢な暮らしをさせてもらえるかもしれない。敵国の血を絶とうと、国王自らの手ですぐに殺されるかもしれない。問題は、それ以外の場合よ。まず一つは拷問。何をされても何も話してはいけない。どの道あなたは我が国の事情やリディ様について何も知らないのだから話せもしないけれど、とにかく死ぬまで耐えてもらわなければならない。そしてもう一つ。・・・相手は誰かわからないけれど、女だから―――」

 ソフィアはそれ以上を口にすることを憚ったが、真意はフィリシアに十分伝わっていた。

 フィリシアは緑の瞳を深く瞬き、唇をキュッと引き締めた。

 それを確認したソフィアは、フィリシアの両手を握り、言った。

「あなたの働き次第で、この国の辿り着く先は変わる。そのことを誇りに、勤めに励みなさい。」  

 

 馬に乗ったまま十数時間も過ごした上、緊張し通しのフィリシアは、さすがに疲れの色を隠せなかった。しかし、次の瞬間には殺されるかもしれない、拷問を受けるかもしれないと思い返すと、再び目の奥が冴えた。

 大勢いた御付きの男たちはいつの間にか消え、フィリシアは、後ろ手に縛られた腕をガラン総督一人に掴まれ、歩かされた。

 目の前に聳えていた豪勢な建物を通り過ぎ、随分と離れた場所にある、陰気な塔の中に連れ込まれた。それこそ、人知れず拷問を行うのに相応しい場所だ。

 塔の急な階段を、足の筋肉が攣りそうになるほど昇りつめた所で、ガラン総督は立ち止まった。

 ランプに照らされた扉には、顔ほどの高さに小さな鉄格子がついており、フィリシアはその中へ放り込まれた。

 ごつごつした石が敷き詰められた床に身体を打ち付け、泣きたいほどの痛みが全身に走る。そして扉に鍵がかけられる金属音を耳にし、自分が閉じ込められたことを知った。

 黴臭く、冷たい部屋。・・・いや、牢と言った方が正しいかもしれない。

 色々な事を覚悟していたつもりだが、所詮は想像に過ぎない。こうして一つずつ現実が進むにつれ、フィリシアは自分がどこまで耐えられるか自信が無くなっていった。

 どれほど経ったか。

 カツ・・・ン

 重い革靴の足音が聞こえるや否や、鉄格子の向こうが眩しく光った。

 オレンジの光に目を細めると、「扉の所まで来い。」という男の声がした。それは、先ほどまで聞いていたガラン総督の声とは違う、若い声だった。

 フィリシアは疲れた身体を引きずるようにして扉の前まで行き、恐る恐る立ち上がった。

 鉄格子を挟んで目にしたのは、ドキリとするほど高貴で整った顔立ちの男だった。

 フィリシアのような農村の娘は、ジェード国王の顔を知る由もない。

――― 何を見ても、何を聞いても顔色を変えては駄目よ。それが命取りになりかねないのだから ―――

 ソフィアの教えを思い出し、フィリシアは落ち着いた瞳の色のまま呼吸を整えた。男の正体が自分にはわからないが、本物のリディなら見知った存在かもしれない。だとすれば、平然とこの男を迎え入れなければならない。

「・・・名を名乗れ。」

 フィリシアは震える唇を無理に開き、かすれた声で答えた。

「ルヴィリデュリュシアン・・・ヴァルフィ・コン・シュゼッタデュヴィリィエ。」

「やはりシュゼッタデュヴィリィエの名を捨てられないのか。だが、そなたはアドルフォの娘ではない。プラテアード王家の末裔としての自覚を持つべきだ。」

「・・・。」

 何と答えればいいか迷う時は、何も言うべきではない。

 フィリシアは口を閉ざしたが、マリティムは構わずに話し続けた。

「今宵は、そなたが本物の王女か確認することができぬ。一月後の満月まで、ここで過ごしてもらおう。安心せよ。ここなら、エストレイはもちろん、どこの国の王子も襲いに来ることなど絶対にありえぬ。」

 一つとしてマリティムの言っていることが理解できないが、兎に角一カ月は生きられるのか。フィリシアはそれだけを理解することにした。

「必要な物は、すべて隅の箱の中に入っている。水も火も、不自由はない。食事は一日に二度、運ばせる。・・・退屈しのぎに、何か欲しいものはあるか。」

 一カ月もこんな所に閉じ込められても、死へのカウントダウンを指折り数えるだけだ。フィリシアは意を決し、言葉を発した。

「哲学書を・・ご用意いただけますか。」

「哲学?」

 怪訝な顔をされ、フィリシアは一瞬怯んだ。しかし、マリティムは穏やかな口調で尋ねてきた。

「好きな哲学者はいるのか。」

 これは、難しい質問だ。独立運動を喚起する学者を好むが、それは所詮何も知らない農村の娘の趣味だ。一国の王女、そして独立運動の王の娘として育てられたリディとは次元が違う。

「好き嫌いはございません。・・・どのような思想も、すべて私の支えとなり、また、私の糧となりますから。」

「それは、アドルフォ直伝の教えなのか?」

「・・・私自身の考えです。」

 マリティムは切れ長の目でフィリシアを凝視した。

 王女とはいっても、フィリグラーナとは随分違う。少なくともフィリグラーナは哲学書など絶対に読まない。あの堅苦しい難解な文章が我慢ならないと漏らしていた。

「よかろう。私の書架から適当なものを運ばせる。読み終わったら、感想を聞きたい。紙とペンも箱の中に入っている。書けたら本に挿んで返却してくれ。」

「ありがとうございます。」

 マリティムが立ち去ると、辺りは再び暗闇に包まれた。

 フィリシアは力が抜けたように、その場に座り込んだ。

 何とか切り抜けられた・・・のか。

 あの男は、結局自分が何者か名乗らなかったが、おそらく国王の側近だろうと考えた。相当偉そうな口ぶりだったが、国王が、こんな辺鄙な場所へ足を運ぶとは思えなかったからだ。

 フィリシアは、ゆっくりと辺りを見回した。

 高い天井近くに窓はあるが、顔一つ分の大きさで、やはり鉄格子がはまっている。椅子に上っても、高すぎて外を覗くことはできないだろう。

(やっぱり、ここは監禁のための牢屋だ。)

 フィリシアは、暗さに慣れてきた目で箱を探し、蝋燭を見つけて火を灯した。

 その乏しい明るさが、突然、家族の事を思い出させた。

 ろくに別れの挨拶もできなかった。また、すぐに帰ってくるかのような手の振り方で、見送りの家族に背を向けた。

――― あなたの働き次第で、この国の辿り着く先は変わる。そのことを誇りに、勤めに励みなさい ―――

 ソフィアの言葉が、今更のように胸を打つ。

 きっとこれから、心細くなる度に、ソフィアの言葉を思い出し、心の支えにするのだろう。

 見上げた窓の外が、うっすらとラベンダー色に変わってきた。

 今のフィリシアにとって明日は希望ではない。

 明日という日は、命の終わりに一日近づいた日。


 考えてみれば、人は皆、そうであるのに。


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