第61話:満月の見えない夜 ―その1―
アドルフォ城に集まったプラテアード国民は男女に分かれ、別々の建物に収容されることになった。アランとネイチェルも男達に紛れ、流されるまま建物の中へ入った。
石の床、高い天井の大広間に、何百人という人々が吸い込まれる様になだれ込む。
まともな明かりもなく、薄暗い中、誰からともなく乾いた布が手渡され、皆それで頭と顔を拭った。
男達が遠慮なく濡れた衣服を脱ぎ始めると、土や埃に混じって汗の臭いが立ち込める。人の熱気と強い湿気で空気が揺らぐようだ。
そんな中、部屋の隅から大きな声が響いてきた。
「体調の優れない方はいらっしゃいませんか!?私は医者です!少しでも不安があれば、どうぞいらしてください!」
アランは、ハッとして思わず声の方を振り向いた。
男達の肩の向こうに小さく見えたのは、思った通りフィゲラスだった。
フィゲラスのことを、ネイチェルは知らない。
アランは、どうすべきか悩んだ。フィゲラスが自分達に気付き、それをプラテアードの幹部に伝えたら?それとも、逆にリディの事について何か情報をくれるだろうか?
「・・・ネイチェル。ちょっと、ここに居て。」
「え?」
ネイチェルが振り向く間もなく、アランはフィゲラスの方へ向かっていた。
見つかる事を怖れて不安を感じ続けるより、自ら姿を現し、相手の出方を見た方が得策と判断したのだ。
部屋の隅。人の背丈ほどの衝立の中で簡易診療は行われていた。外に整理役らしき若い男がいて、アランに声をかけた。
「どうしました?」
「あ・・・、ちょっと、足を悪くして。」
それは嘘ではない。若い男は頷き、衝立の奥へ進むように促した。
カツラをかぶり、白い肌に褐色の化粧粉を塗り込んで、着古した服を身にまとったアランを見ても、フィゲラスは何も気づかない様子だった。
清潔な白衣に身を包んだフィゲラスは、食料不足のためか、幾分痩せていた。が、瞳には力強い光が宿り、毎日をしっかり生きているということを確信できた。
フィゲラスはアランの足を診て、思わず「あっ」と小さい息を漏らした。
二人の視線が合い、アランは抑えた声で言った。
「お元気そうで何よりです。先生。」
フィゲラスは戸惑った表情で顔を背けた。この状況をどうすべきか、わからないようだった。
「ご心配なく。僕がここへ来たのはリディの声明を聞くためです。アンドリュー様に命ぜられて。」
「・・・目的が何であろうと、アランさんのことを誰かに告げ口するつもりはありません。私はジェードにとって死んだ人間。プラテアードにとっては疑いの拭えぬ身。何も気付いてはならず、何も話してはならない。存在があって無いようなものですから。」
自分の方をちらりとも見ようとしないフィゲラスに、アランは問うた。
「もし僕が・・・一緒にジェードへ戻ろうと誘ったら、どうしますか。」
フィゲラスは、声をたてずに苦笑した。
「お忘れですか。私が次にジェードの領土を踏んだ時が、命を無くす時なのですよ。」
「僕は・・・リディを助けたことが、そんなに重い罪だと思ってないんです。」
「・・・アランさん。お話が済んだら、どうぞお引き取りを。」
フィゲラスは完全に背を向けたが、アランは諦められなかった。
「先生。これが最後のチャンスかもしれませんよ。いいのですか。」
「今の私の命は、リディ様のものなのです。」
「そのリディが、ジェードへ行ってしまってもですか?」
フィゲラスは何も答えず、沈黙が続いた。
何を言っても許されないという決意が、固まった後ろ姿から感じられる。
アランは諦めの息を吐き、白衣の背に向かって一礼してから衝立の外へ出た。
あの口の固さでは、例えこれからのプラテアードの動きについて知っていたとしても決して語らないだろう。
一方フィゲラスは、アランとの思いがけない再会を機に、布を冷たい水に意味もなく浸しながら視線を宙に泳がせていた。
フィゲラスは、リディが本当の所どうなっているのかを知らない。ただ、キールが先ほど発表したことを聞いただけだ。
しかし、リディが実はプラテアード王女であるという事実には、フィゲラスの全身が総毛立った。瞬間、アンドリューの言葉を思い出さずにいられなかった。
――― 額のことを探ったり、他人に話してもならない。決して口に出さず、墓まで持っていく覚悟ができぬのなら・・・やはり、死んでもらうしかない。俺の為にも、そしてリディのためにも ―――
フィゲラスは、首を振って溢れ出す考えを留めるのに必死だった。
考えてはならないこと。気づいてはならないことがある。
フィゲラスは急く呼吸を抑えながら、別の事に思いを馳せた。
ウエルパ将軍がリディを連れ去ったと聞いた。ならば、まず第四総督府へ連れて行かれるはず。そこに待っているのはアンドリューに他ならない。アンドリューは、リディを救ってくれるのか?それとも、やはりジェードの総督としてリディを国王に引き渡すのか。
アランは、連れ去られた女が本物だったかどうかスパイするために、ここへ潜り込んできたのではないのか。リディを慕っていたアランも、やはりジェードの一員ということなのか。
そこまでで考えを絶つように、フィゲラスは衝立の外へ向かって声を張り上げた。
「次の方、どうぞ。」
ところが、そこに思いがけず現れたのはソフィアだった。
フィゲラスは、息が止まるほど驚いた。
ソフィアは、別の場所で忙しく働いていたはずだ。しかし、やはり監視のために戻ってきたのか。アランとの会話を陰で聞いていたのか。
フィゲラスが何も言えないでいるのを見定め、ソフィアはスッと脇に寄り添って囁いた。
「さっきの若者を、私が知らないとでも思って?」
「・・・・。」
「あなたが何をどこまで知っているのかわからないけど、アランとアンドリューの事を知っているというのは、わかったわ。そして、リディ様を助けたために国を追われたのだというのが強ち出鱈目ではなかったことも。」
ソフィアの緑の瞳が、刺すようにフィゲラスへと詰め寄る。
だが、フィゲラスはそれに怯むより、ソフィアがアランやアンドリューの事を知っているという方が驚いた。しかもアンドリューのことを、「総督」とか「プリフィカシオン」とか一般に知られている名前で呼ばない事実。リディの側近だから知っているのだろうか。
「なぜ、彼の誘いを断ったの?私が陰で盗み聞きしているとわかっていたから?」
「いいえ。私の命はリディ様のものです。その誓いに偽りはありません。」
そんな言葉を信じるものか、という嘲笑混じりの表情でソフィアは唇をゆがめた。
「まあ、いいわ。思いがけず敵が紛れ込んでいるのがわかったのだから。」
フィゲラスは、慌てて身を乗り出した。
「彼は、ここへ害を加えに来たのではありません!」
「リディ様に命を捧げるとか言った舌の根も乾かぬうちにジェードの味方?だから信用できないのよ。」
栗色の髪に混ざる金髪の光が、フィゲラスの前を横切った。
「待ってください!」
フィゲラスは思わず、ソフィアの腕を掴んでいた。
「!?」
素早く身を翻したソフィアは、フィゲラスの手をバッと振り払った。
「無礼な!」
その勢いに一瞬戸惑ったが、フィゲラスは言葉を選びながらも言った。
「ソフィアさんがどこまで御存知なのかはわかりませんが、アランさんはリディ様の敵ではありません。」
「あなたこそどこまで知っているのかわからないけど、私にとっては彼がジェードの人間だという事がすべてよ。」
「リディ様のことをお考えになるのなら、彼に手を出すべきではありません!」
「私が考えるのはプラテアードの利益であって、リディ様のことではないわ。」
「そんなはずはないでしょう?半年以上こちらで暮らして、ソフィアさんがどれほど独立運動の王に傾倒しているかよくわかりました。リディ様は、アドルフォ様が心血注いで育てられた方。大事でないはずが・・・」
「やめてよ!」
ソフィアは、衝立の中であることを忘れて叫んでいた。
「ジェードの人間に、アドルフォ様の名前を口にすることさえ私は許さない!何も知らない若造に、私の気持ちをわかったように語られるなんて不愉快よ!」
衝立の裏側から、ソフィアは走り去って行った。
フィゲラスは深く息を吐き、椅子に崩れ込んだ。
こういう時、フィゲラスは自分がもう少し鈍い方が幸せだったのでないかと思う。
ソフィアの言動を間近で見てきて薄々感じてはいたが、それが今、確信に変わった。
ソフィアは、アドルフォを尊敬とか崇拝とか以上の気持ちで見ていたのだ。
そしてそれは、亡くなって十数年経った今も、続いていたのだ。
とても切なく、強く。
同じ頃。
アンテケルエラとプラテアードを結ぶ唯一の入り口は、未だ閉ざされていた。
石垣に設けられた、大中小三種の鉄の扉。先日はリディ達のために右端の一つだけが開放された。
国境の見張り番の一人は早馬からの文書を受け取り王宮へ向かったが、それ以来、他の見張り番に動きは見られない。
その後、第二総督府のディラスチェ総督がアンテケルエラ国王との謁見を申し込んでいるが、その返事も未だ無い。
ただ、見張り番の数は増えた。見張りのため駐留している兵士全員というところか。
国境の濠を繋ぐ石造りの細い橋を挟んで、ジェードとプラテアード軍とのにらみ合いが続いている。
雨は小康状態になったものの、細かい雨粒はじっとりと服の下へ染みていく。
灰色の空が一層暗さを増し、夜の訪れを告げる頃に、アンテケルエラの鉄の扉が中央の一つのみ、開かれた。
まぶしいほどの燈色の灯りに照らされ、多くの兵士を盾にするように馬上のエストレイが現れた。相当に警戒をしているらしく、それ以上先へ進もうとはしない。
ディラスチェ総督の合図で、部下の兵士が大声を張り上げた。
「こちらにおられるのは、ジェード第二総督、ディラスチェ様である!国王陛下からの使いで馳せ参じた!」
橋の向こう側では、エストレイ自らが返事をした。
「私はアンテケルエラの王子、エストレマドゥラである!父王に代わり、私がジェード国王からの伝聞を承る!」
ディラスチェは、恭しく書面を広げ、声高に読み上げた。
「この度、アンテケルエラがプラテアード王女に申し込まれた縁談については、プラテアードを管轄するジェード国王の名において、正式にお断り申し上げる!」
エストレイの灰色の瞳が、鈍く光った。
ディラスチェの声はまだ続いた。
「プラテアード王女は本日より、ジェード王宮に住まいを移された。もし、それでも尚王女をお望みとあらば、ジェードへの忠誠の証として、アンテケルエラの領土半分、領地内の鉱山から産出される資源すべて、年間に収穫される穀物の5割を、永久に差し出すことを約束されよ!!」
エストレイは、100mほど先のディラスチェを鋭く睨みつけ、声を上げた。
「その約束を守らなかった場合は、どうなる!?」
「王女のことは潔く諦めていただく!無理にでも奪うとおっしゃるならば、ジェード王宮までお越しになればよい!その道のりに待ち構える難関に、相応の血を流す覚悟がおありならば!」
エストレイは、血が流れるほど唇を噛みしめた。
今更、激しく後悔する。
あの時、どうあってもリディをアンテケルエラに留め、奪っておくべきだった。
ジェード王宮に監禁されては、どうにも手を出せない。
リディの薔薇翡翠のペンダントが引っかかって躊躇したが、やはりあれは、リディがジェードに忠誠を誓った証だったのではないか。ジェードに楯突く振りをして、独立運動家を装いながら、その実ジェードに身も心も抱え込まれていたのではないか。それこそジェード国王は以前からリディが王女であることを承知で、泳がせ、他国が接触してきたら即刻報告する仕組みができあがっていたのではないか。
(そうだ。それ以外、考えられない。)
エストレイは、苦汁を飲まされるとはこういうことかと、眉根を寄せた。
リディはあんな国民思いのようなセリフを口にしながら、国民を裏切っていたのだ。
アンテケルエラとブルーアンバーの取引をしたことも、ジェード国王の指図だったのかもしれない。
(もし私があのまま王女を奪っていたら、どうなっていた?ジェードに攻められる覚悟はしていたが、ジェードが戦いの筋書きを立て虎視眈々と攻め入る準備を万端にしていたとすれば、流石の我が軍でも勝てる見込みはなかった。私は王女を手玉に取ったつもりでいたが、その実ジェードに踊らされていたというのか・・!?)
自尊心を生まれて初めて砕かれ、エストレイは地団駄踏みたい気持ちだった。
ここで橋の向こう側にいる兵士を全滅させたって、失った王女は取り戻せない。ディラスチェと名乗る総督を人質にしたところで、ジェードは王女はおろか銅貨一枚さえ出さないだろう。無駄な労力も血も、流すことはできない。
どうしても手に入れたかった紋章つきの王女を、ここで諦めなければならないのか。
いや。ジェードと戦う準備をし、策を練れば不可能ではない。それには少し時間が必要というだけだ。
ただ、一時でもジェードが自分達の思い通りに事が運んだと大きな顔をさせておくのは口惜しい。
エストレイは今一度拳に力を込め、叫んだ。
「ジェード国王へ伝えられよ!アンテケルエラ王子エストレイは、プラテアード王女の最大の秘密を握っている。ジェードと王女の関係がどれほどのものであろうと、王女は私から逃れることはできない。それを肝に命じ、美しい王妃と残りの日々を平穏に暮らされよと!!」
無論、そんな秘密など握ってはいない。
だが、どうしても相手に多少の不安を与えておきたかったのだ。
このまま、勝ち誇った顔で帰らせたくなかったのだ。
ディラスチェ総督がどんな表情をしたのか、エストレイの方から窺い知ることはできなかったが、少しは効き目があったと思いたい。
橋の向こう岸から去っていく騎馬隊を見送りながら、エストレイは固く瞼を閉じた。
悔しい。
この鈍い悔しさは、日を追うごとに神経をいたぶり続けるだろう。
どんなに急いでも、準備に数カ月はかかる。それに、今はまだ父王の采配がすべてだ。エストレイ一人の意志で軍隊を動かすことは許されない。
今までのことはともかく、今回王宮に連れて行かれたリディが、マリティムの子を身籠るような事態になれば、お終いだ。あと一カ月ほどでフィリグラーナが三人目の子を産むと聞いている。それがまた額に紋章を持たないとあらば、愛妻家と噂のマリティムとて手段を選ばぬとしても不思議はない。
エストレイは手綱を引き、向きを変えると、護衛の兵士達に向かって命じた。
「・・・城に戻るぞ。急ぐんだ!」