第59話:動き出す歴史
螺旋階段を降り切ったところの影は、レオンだと思った。
しかし、鼻をくすぐる花の香りで、そこに居るのが女だと気づいた。
真っ暗な空間では、互いの顔を認識するのも難しい。
アンドリューは慎重に腰の銃に手をかけた。
「・・・誰だ!?」
厳かな衣擦れの音と共に姿を見せたのは―――
「王妃・・・!」
小さなランタンを手にしたフィリグラーナは、黒いマントに身を包んでいた。
だからだろうか。余計に白い肌が闇に映える。
8年前の華々しさから、落ち着いた美しさへと変化しているが、その美貌に変わりない。
思いがけない事に言葉を失っていると、フィリグラーナは目の前まで近づいてきた。
「ジェリオから聞いて、まさかと思って来てみましたが・・・本当に、アンドリューなのですね。」
「・・・何の御用ですか。」
フィリグラーナは声を潜めた。
「ずっと確認したいと思っていました。陛下は絶対に私には話してくれないのです。あなたが陛下の弟だというのは・・・真実なのですか。」
「・・・ジェリオが俺の額を見ているそうですから、無駄な否定はしません。」
「王子であるあなたが、その身分を隠して生きているのはなぜです?」
「それを知って、どうするんですか。」
「私はジェードの王妃です。知る権利があると思います。」
「マリティムが話さないことを、俺が話せるわけがない。確かにあなたは王妃かもしれないが、ジェリオを傍に置いている限り、プリメール国も捨てられないということだ。いつ敵に寝返るかわからない女に、国の秘密を話せるわけがない。」
フィリグラーナの瞳が陰った。
「相変わらずあなたは、私に冷たい言い方をなさる。」
「・・・他意はありませんよ。」
「私は何か役に立てればと思っただけなのです。王家の血をひく身分でありながら不遇な人生を強いられているのだとすれば、何か、」
「そういうところが!」
アンドリューは、思わず声を張り上げていた。
驚いて目を見開いたフィリグラーナを、アンドリューは苦い表情で睨んだ。
「そういう思い上がりが、嫌いなんです。俺の人生を、誰かにどうにかしてもらおうなどと思わない。俺の人生が不遇だなんて、何の事情も知らない他人から言われたくもない。」
「あなたは王子なのですよ?城で優雅に暮らすこともできる、高い地位にもつける立場にあるのです。植民地の一総督などという身分に甘んじるなんて!」
アンドリューは、ギリッと歯ぎしりをして、その場から立ち去ろうとした。
「待って!」
フィリグラーナに掴まれた腕を、アンドリューは即座に振り払った。
その瞬間にフィリグラーナが見たアンドリューの瞳は、深い冷たい海の色をしていた。
一方、アンドリューが捕えたのは、肌蹴たマントの中のフィリグラーナの身体だった。
胸から下のスカートが大きく膨らんでいる。
「・・・・そんな身体でこんな湿気た場所へ来るなんて、どうかしている。」
「いいのです。もう9割がた諦めていますから。」
そう言いながら、フィリグラーナは身重の身体を再びマントで覆い隠した。そしてアンドリューに背を向け、呟くように言った。
「紋章のない子は既に二人もいます。これ以上は、要りません。」
「マリティムは、あなたを責めるつもりはないと言っていた。」
「それは口先だけのこと。どこの国の王も王子も考えることは同じです。」
フィリグラーナは体半分だけ振り返った。
「先ほど知りましたが、プラテアード王家の生き残りが名乗りをあげたそうですわね。」
「・・・。」
「ジェリオの話では、あのエンバハダハウスに住んでいた少女だとか。あなたはそれを知っていて下宿させていたのかしら?」
アンドリューは何も答えるつもりはない。
しかし、フィリグラーナの声は続く。
「正しくは少年の恰好をした少女でしたけど・・・。一度だけお会いして少しお話をしたのを覚えていますわ。知っていて?彼女、あなたのことが、」
「王妃。」
アンドリューは伏せ目がちにして言った。
「急いでいますので、用がなければ失礼します。」
「では、これだけ教えてください!」
フィリグラーナは、アンドリューの前に立ちまわった。
「あなたがこの王宮に戻って暮らす事は、永遠にないのですか。」
「・・・それは全て、神の御心のままに。」
二人の視線が少しだけ重なり、また、離れた。
アンドリューが塔から出ていくと、フィリグラーナは近いどこかに身を潜めているジェリオに言った。
「アンドリューを追いなさい。おそらくプラテアードの総督府へ戻るはず。そこで何か起こります。王女の行方も含めて、すべてを私に報告するのです。」
その頃プラテアードでは、武装した市民や農民達が続々とアドルフォ城へ向かっていた。
フレキシ派の幹部達は早馬とは別に国中に散り、できる限りの人員を集めることに必死になっていた。 無論、村や街を空にすることもできない。その配置こそがキールの緻密な計算の上に成り立っている。
キールやソフィアら幹部は、リディを派首として国に残すために何をしなければならないか計画を練り、動いていた。
キールは、リディの額に紋章があることを知らない。だからリディに王女としてどれだけの価値があるかはわからなかったが、少なくともアンテケルエラの王子が奪いに来る可能性だけは覚悟している。そして、この王女であるという真実が「アドルフォの娘」という称号を消し去った。それでも尚、リディが国民を率いて行けるかどうかは、正直自信がない。それこそ国民を前に声明を読み上げるリディのカリスマ性に賭けるしかないと思っていた。
それから、もう一つ。ジェード王国の存在だ。
プラテアードが勝手な振る舞いをすることなど許すはずがない。今までひたすらベールの奥に隠しておいた「アドルフォの娘」が王女である名乗りを上げ、更に声明を打ち上げるなどということを見逃すはずはない。
それでも尚、リディを派首として残す覚悟を決めた根拠は一つしかない。リディを王女としてアンテケルエラに引き渡しても、結局アンテケルエラとジェードの大戦争に巻き込まれるということだ。どの道、この国の正念場には変わりない。そしてそれは、いつまでも避けてはいられないことだ。この飢饉で弱り果てている時期だということが重すぎるが、歴史には「その時」というものが必ずあり、それを逃すと二度とチャンスは来ないことをキールは知っている。かつてアドルフォが読むよう勧めた膨大な量の歴史書が、それを教えてくれた。
しかし、今自分が考えている策をリディは受け入れないだろう。
誰かを犠牲にして自分が永らえることが嫌いなリディだ。しかし、それでは首長にはなれない。だからいわゆる「汚い仕事」は全てキールが指揮し、幹部が実行してきた。今回も同じことをするまでだ。
ほどなく、一人の女性がキールの下へやってきた。
それは、国の独立のために犠牲になることを厭わない、勇敢な農家の娘だった。
アンドリューがレオンと共に第四総督府へ戻ったのは昼過ぎだった。
そして既にそこは、「何かが起こった後」と「これから何かをしなければならない」両方の雰囲気に包まれていた。
雑然とした人塵を掻き分け、アンドリューを真っ先に出迎えたのはウエルパ将軍だった。
「陛下からのご命令に従い、未明にアドルフォ城へ踏み込みました。」
アンドリューは静かに息を整え、尋ねた。
「それで、どうした。」
「向こうも兵を揃えて徹底的に攻防しておりましたが、どうやら戦力の半数は別の所へ回していた様で、思っていたより手薄でした。守りの兵の半数が死傷したところで城に踏み込むと、王女と名乗る女性が現れまして、ジェードの要求は何かと尋ねてきました。」
「・・・王女の答えは?」
「我々が城から完全に撤退することを条件に、ジェードへ行くことを承諾すると。ただし、もし撤退しない場合、もしくは再び攻め入った場合には即自害する、とも。」
アンドリューは、頷いた。
「こちらが生きたままの王女を必要としていることを読んだ発言だな。して、王女は今どこに?」
「とりあえず、外れの地下牢の中に入れてございます。」
「陛下は、今後どうする様指示してきたのだ?」
「アドルフォ城に最も近い我々第四総督府には、総督がお戻りになり次第、次のプラテアードの動きに備え、アドルフォ城周辺を見回るようにとのことでした。第二総督府のディラスチェ総督は、軍を率いてアンテケルエラとの国境へ向かっております。エストレイ王子がプラテアードへ向かってきた時に、ジェード国王からの伝言を読み上げるそうです。それから王女を陛下の下へ送り届ける役目は、第一総督府のガラン総督が。間もなく到着するでしょう。」
「・・・そうか。」
アンドリューはレオンに目で合図をすると、二人だけで地下牢へと向かった。
そして、地下へ降りる階段の所でアンドリューはレオンに言った。
「ここで待っていてくれ。一人で行く。」
レオンは、訝しげな表情を浮かべた。
「・・・まさか、リディを逃がそうなんて考えているんじゃないだろうな?」
「レオンは、ここにリディがいると本気で信じているのか。」
「え?」
「最終的に、リディはジェードの圧倒的な力で王宮へ連れて行かれるだろう。だが、それは今ではない。」
「ウエルパ将軍が騙されたというのか?」
「それを確かめたい。もしリディがいたなら、それはそれまで。歴史の歯車がプラテアードを見捨てたということだ。」
アンドリューはそう言い残し、狭い石の階段を降りて行った。
ランタンの灯を頼りに、道伝いに進む。
黴臭い、湿り気のある地下牢は、ここ暫く使った形跡がない。
鉄柵も赤錆が浮き出て、少し力のある男なら壊せそうなほどだ。
牢の前に立つ二人の番兵は、アンドリューを見て、ゆるんでいた両足をすぐ様正した。
アンドリューは、牢の中を明かりで照らした。
奥の壁に寄り添うように、冷たい石畳の上に蹲る影が見える。
この暗さでは、髪の色さえ確認できない。
「中に入らせてくれ。」
アンドリューの言葉に、番兵は慌てて首を振った。
「とんでもない!総督にもしものことがあったら、我々の首を刎ねたくらいでは済まされません!」
「プラテアードの末裔とやらの顔を拝んでおきたいだけだ。」
「それならば、ガラン総督がお見えになり次第、王女を外へ連れ出します。その時ご覧になればよろしいでしょう。」
「俺は忙しい。すぐに出掛けねばならないのだ。奴は丸腰だろう?俺は銃も剣も持っている。案ずることはない。」
アンドリューは強引に牢を開けさせ、中に入った。
影はアンドリューの気配を感じながらも、全く動じない。
アンドリューは乱暴に女の髪を鷲掴みにし、顔を上げさせた。
白い顎が見え、ランタンを近くへ寄せると、緑の瞳が見えた。
女はリディでもなければ、ソフィアでもない、知らない顔だった。
その知らない顔はアンドリューを見ることもなく、ただじっと宙を睨みつけている。
「・・・これが王女の顔か。よく覚えておこう。」
アンドリューは踵を返し、すぐに地上へ戻った。
待っていたレオンの腕を取り、足早に自分の部屋へ向かう。
途中、アランを探したが、既にネイチェルとアドルフォ城へ向かった後だった。
アランは、アンドリューの部屋の机上にメッセージを残していた。
――― ウエルパ将軍が連れてきた王女は袋の中に入れられており、顔を確認することが僕にはできませんでした。でも、それがリディではないという1パーセントの確率でもあるのならと、アンドリュー様のご命令通りネイチェルと共にアドルフォ城へ行きます。―――
アンドリューはマッチを擦り、その手紙を燃やしながら言った。
「あの牢屋の女は、ダミーだ。」
レオンは、アンドリューの横顔を見つめた。
「これから、どうする?」
「無論、マリティムの命令通りアドルフォ城へ向かう。リディが本当に声明を発表できるのか、見ものだからな。」
「リディの身代わりの女は、どうなるんだ。」
「ガラン総督に、偽物と見分ける術はない。あのまま王宮へ連れて行かれるだろう。」
「陛下は、どうなんだ?王女が本物かどうか、わかるのか?」
「・・・わかる。そしてあの女は殺される。」
レオンは、固唾を呑んだ。
「あのリディも、他人の命を犠牲にすることを覚えたというわけか。」
「いや。リディはまだ覚悟の足りない、甘ちゃんだ。裏の事は幹部達がやっているんだろう。」
「少し前から気になっていたが、アンドリューは最近もリディと接していた様な口を利くよな。」
アンドリューは眉一つ動かさず、答えた。
「リディは敵だ。あり得ないことを言わないでくれ。」
「それにしては、リディのことを良くわかっているじゃないか。」
「プラテアードの動きから推測しているだけだ。・・・さあ、行くぞ。」
「・・・ああ。」
レオンの声は、何も納得していない。
マリティムがリディをどう扱うかわからない。しかし、マリティムの隠密でもあるレオンには、リディと接触したことを絶対に知られてはならない。それを、今一度心に刻み直す必要がある。それは、アランも同じだ。
レオンは好きだ。信頼もしている。
だが、リディのことだけは、別だ。
もし、地下牢にいたのが本物のリディだったとしても、逃がすことなど考えない。
マリティムがリディを殺そうとしても、止められない。
それが自分の立場というものだ。
外へ出ると、人々のざわめきが先ほどと違う色を帯びていることに気付いた。
それは、皆の視線が空へ向けられていることと、風がいつになく強いことから予測できた。
遠くに、濃い灰色の雲海が見える。
どこかから、低い雷の唸りが聞こえてきた。
「雨だ・・・!」
「雨が来るぞ!」
「・・・雨、雨よ!!」
涼しい風が、アンドリューの頬を吹き抜けた。
総督府内の人々は、両の手を高く広げ、ぱらぱらと散り始めた雫を受け止めている。
これで、やっと干ばつから逃れられる・・・!
その歓喜の声が、あちこちから聞こえてきた。
「・・・マントを取って来よう。ぬかるまない内にアドルフォ城へ辿り着ければいいが。」
レオンがそう言って、中へ戻って行った。
アンドリューは、次第に濡れていく髪と肩を感じながら天を仰いだ。
(この空の色なら、少なくとも一晩はたっぷりと雨が降るだろう。誰もが予測していなかった雨だ。この天の恵みは一体、どの国のためのものなのか。歴史が動くこの日の雨は、偶然などではない。必然だ・・・!!)