第5話:銀の笛
川の流れは速くなったり緩やかになったりで、少しも展開がない。
リディはすぐ隣でじっと息を凝らしているアンドリューの横顔を見て、ハッとした。
「アンドリュー、おでこに血が・・。」
さっきオールで傷つけられた額が割れて、まだ血が止まらないらしい。
「これぐらい何でもないさ。そのうち止まる。」
「・・・ごめん、俺が騙されるような馬鹿やっちまったから・・。」
「本当だぜ。相当、命懸けで動いてるからな。」
アンドリューは冷たく言い放ち、リディから視線を逸らした。
リディは俯いたまま、水面を見つめた。
「この川・・どこへ向かっているの?」
「アルジェ湾だ。」
「その湾まで行けば、助かる?」
「わからない。お前達を売り飛ばそうとした奴等の仲間が絶対どこかで待ってるはずなんだ。そいつらに見つかったら、終わりだな。警察に先に見つけてもらえる可能性は薄いし。」
リディは、力なくつぶやいた。
「でも、アンドリューだけは助けるよ。」
「え?」
「だって、関係ないのに巻き込んじゃったんだから。どうしてここまで来てくれたのかわからないけど、これ以上迷惑かけられないからな。」
アンドリューは、意地悪な笑みを浮かべた。
「へぇ。どうやって助けてくれるんだ?」
「・・・それは、その場次第だけど。」
「期待しないけど、楽しみにしとくぜ。」
身体はどんどん冷えていく。
裸足の爪先から、感覚がなくなっていくようだ。
栗色の髪の少年が、段々力なく目を閉じていくのを見たアンドリューは叫んだ。
「馬鹿野郎!こんなところで寝るな!死にたいのか!?」
黒髪の少年が、慌てて栗色の髪を思い切り引っ張った。
「おい!寝るなってよ!!」
「・・・痛いっ。」
「痛くて正解だ!死んだら終わりなんだからな!」
薬で眠らせていた余韻がまだ残っているのかもしれない。
黒髪の少年も、リディだって、必死に耐えているだけかもしれない。
登ることが可能な崖でも土手でも見つからないか。
ある程度急勾配でもかまわない。
死に物狂いでやれば、きっと登れる。
しかし。
犯罪者が選ぶルートだ。他人が決して通らない危険な場所であることは間違いない。
アンドリューは、不意に目の前のかすみを感じた。
思わず目をこすってみたが、まだぼやけている。
額の裏側がゆらり、と回転するような感覚に襲われる。
それに気付いたリディは、慌ててアンドリューの肩をゆすった。
「アンドリュー、どうした?」
「・・・ちょっと、眩暈がするだけだ。」
「おでこの血、止まってないからだよ。」
「そうかもな。・・・リディ、ちょっとの間、俺の代わりに登れそうな場所を探しててくれ。」
「わかった。いいよ、アンドリューは休んでなよ。」
リディはオールから上半身を乗り出すようにして、必死に辺りを見わたした。
(アンドリューは、アルジェ湾に着く前に陸に上がりたいのか。)
だが、そんな場所は見つからない。
身長の20倍はありそうな崖、岩石・・・。
この辺りは、まだ開発されていない大理石の山だ。
「・・・アンドリュー?」
リディは、アンドリューがオールの上に乗せた腕に額を埋めるようにして肩で息をしているのを見つけ、驚いた。
「どうした?そんなに具合悪いのか?」
濡れきったプラチナブロンドの隙間から額を、そっと指先で触れてみる。
熱い・・・気がする。
リディは自分の額も指先で触れ、アンドリューの熱が高いのを確信した。
(・・・どうしよう・・?)
少し後ろを見ると、二人の少年も疲れと寒さと眠気でぐったりしている。
リディは、「そうだ」と思い出し、自分の胸元から細い筒状の銀の笛を取り出した。
糸で首にぶら下げておいたお守りだ。
死んだ父親は、鳩を呼べると言っていたが、リディがそれに成功したことはない。
(これを吹けば、誰か気付いて助けてくれるかもしれない。)
大声で助けを呼ぶのは体力を使うし、川音にかき消されてしまう。
だが、笛の高い音色ならば遠くまで響くのではないだろうか?
迷っている暇はない。
選択肢はただ一つ。
実行あるのみ、だ!
笛の水気を払い、思い切り息を吸い込む。
フィーーォ
フィー・・・ーォ
高い空と緑の木々に木霊するように、澄んだ音色が大気を振動させる。
リディは、息が続く限り、何度も笛を吹き続けた。
フィーーォ
フィーーーー・・・ォ
気が遠くなるような高さの断崖。
誰かが気付いてくれても、助ける術もないだろうか・・?
そんな中、ふと見つめた先に、別の川との合流点があるのを見つけた。
不思議だ。
こちらの川の流れは濁った灰色なのに、もう一つの流れは美しい翡翠色をしている。
(もう一つの流れの方が穏やかなのかも。)
そう。
もう一つの川の対岸は、低い土手になっている。
しかし、合流と共に土手は終わりになる。
何としても、あの土手にたどり着くのだ!
リディは、少し後を流れてくる二人に向かって叫んだ。
「あの土手に行け!あれが最後のチャンスだ!」
その声に、アンドリューも苦しげだが顔を上げた。
「・・よし、俺も全力で泳ぐ。」
「うん!」
雑草が所々生えている土手に向かって、4人は必死に泳ぎだした。
陸に上がれば、何とかなる。
4人は残った僅かな力を出し切って、流れに逆らい、土のある部分へと進んでいく。
川底の石は大きく、すべる。なかなか足をつくことはできない。
何せ、裸足だ。僅かな隙間に指をはさんでしまったり、つまずいてしまったりを繰り返す。
それでも何とか、足が川底に着いた。
それを支えに、歩いたり泳いだりを繰り返す。
一番初めに土手に上がったのは、黒髪の少年だった。
栗色の髪、リディ、最後にアンドリューが裸足の足を土に埋める。
リディは、アンドリューの熱い身体を支えて辺りを見回した。
と、そこへ馬の蹄の音が近づいてきた。
陸に上がった4人を待っていたのは、逞しい馬に乗った二人の男だった。
「笛の音が気になって来て見たが、正解だったようだな。」
「君達だろう?川から助けを呼んでたのは。」
動物の毛皮をまとった猟師風の男達は、疲れ果てた4人の身体を支えてくれた。
アンドリューは残った力を振り絞るようにして、男に言った。
「馬を・・!頭に深紅の飾りをつけた栗毛色の馬を・・・探してくれ・・。」
その男達だって、もしかしたら人買いかもしれないし、盗賊かもしれない。
だが、今の4人にとって、彼等は救い主にしか思えなかったし、疑う余裕さえなかった。
男に馬の背に乗せられながら、リディは遠のく意識の中、思った。
(ああ、俺達は助かったのだ・・・。)
リディは安堵の息をつき、重い瞼を閉じた。