第56話:王女の使命 ― その4 ―
高まった気分が引いていくことで、リディは、自分が一つの方向しか見ていなかったことに気付いた。
アンドリューは、カタラン派との一戦で財力を失ったことに加え、この飢饉に際し管轄領土からの取り立てを規制したことで、他の総督からの風当たりが更に強くなっていると聞いている。そのことへの気遣いも示さず、ただ自分の感情だけで呼び出し、感情を押し付け、答えの決まっている質問をしたなんて身勝手すぎた・・・と、リディは項垂れた。
だが、もう一つ、アンドリューに話しておかねばならないことがある。
リディは俯いたまま肩まで伸びた髪をかきわけ、首の後ろに手を回した。ペンダントを外そうとするのだが、色々な感情が混ざり合っているせいか、なかなか留め具が外れない。その様子を上から眺めていたアンドリューは、露になった白い首筋のある一点で思わず目を留めた。しかし、ほどなくリディが留め具を外せたため、その正体を確信することはなかった。
「キールから経緯を聞いて、ずっと持っていました。本当は真っ先にこれをお返しすべきだったのに、お詫びします。」
アンドリューが薔薇翡翠のペンダントを受け取るのと同時に、リディは言っておかねばならないもう一つのことを口にした。
「実はこのペンダントを、エストレイに見られてしまったんです。」
「エストレイに?」
「薔薇翡翠はジェードの貴族以上しか持つことが許されない物なのにどうして持っているのかと聞かれて・・・もちろん何も答えませんでしたが、ジェードとの関係を疑われて・・・!持ち歩いていた私が悪いんです。謝って済むことではないですが、本当にごめんなさい。」
ペンダントを上着のポケットにしまいながら、アンドリューは聞いた。
「・・・そんな人目につくように身につけていたのか。」
「いいえ!今みたいに、ちゃんとシャツの内側に見えない様にして・・・!」
リディが口を噤んだのと、アンドリューの肩が反応したのは、同時だった。
押し黙ったアンドリューに、リディは慌てて言った。
「違う・・・!違うんです。別に何かあったわけじゃなくて、そうではなくて・・・!」
リディは、何をどう言っていいのかわからなくなり、唇を噛みしめた。
アンドリューは、喉の奥を軽く締め付けられたような気分になった。
なぜ、リディが会った瞬間からあんなに泣いていたのか。
なぜ、殺されてもいいなどと言ったのか。
なぜ、様々なリスクをおしてまでも自分に会いに来たのか。
白い首筋に見たものが、何だったのか。
すべての疑問が一気に解消した。
単にエストレイに結婚を迫られているくらいだったら、もっと毅然として冷静に淡々と現状を告げ、助言を求めてきたはずだ。それをせず、動揺して要領を得ない会話だったのには、それなりの理由があったということか。
アンドリューも、紋章つきの独身の王女が皆無だという現状はマリティムからの密書で知っていた。マリティムの二人の子に紋章がないことは各国の王家間で話題になっており、紋章があっても駄目なケースもあるということが王族に相当の動揺を与えているらしい。紋章付きの王女を望む声は高まる一方なのに、それが皆無という現状は、各国の存亡を揺るがす事態だった。もしプラテアード王家の末裔が存在し、尚且つ王女であれば、必ず王子が群がることも、それによって国同士の戦争になりかねないこともマリティムは予想し、一刻も早く殺害するよう再三アンドリューに催促してきたところだった。
あのやり手のエストレイのことだ。リディが紋章付の王女であることを知った以上、どんな手を使ってでもものにしようとするに決まっている。それこそ、リディの気持ちなど関係なしにだ。強引に身体を奪って済し崩しに自分のものにしようと考えても無理はない。国の存続がかかっているのだ。戦争さえ厭わないというのも、わかる。リディが言う通り何もなかったのだとしても、相応の事があったことは疑うまでもないだろう。
王女としての悩みを相談できるのは自分以外にいなかったという事情も考慮し、このまま突き放すのが気の毒になったアンドリューは、口調を和らげた。
「それで、結婚を断ったらどうなるんだ。」
リディは、伏せ目がちなまま答えた。
「食料も水ももらえないだけでなく、ブルーアンバーの取引からも手を引くと。そして、私が王女であることを公表すると・・・。」
エストレイは、リディが拒否するわけがないと考えているのだろう。後にも先にも、選ぶ道は一つしかありえないのだと。
「それで、いいのか。」
リディは、大きく冠りを振った。
「困ります!でも、あの男と結婚なんて絶対に嫌なんです・・・!二度と顔も見たくないんです。それなのに・・・!」
「そんな甘えたことを言ってられる場合ではないだろう?エストレイも国の存亡をかけて必死なんだ。リディも国のために命懸けで臨まなければ、負けるに決まっている。」
「それはわかっているつもりです!でも、駄目なんです・・!私の中にどうしても譲れないものがあって、・・・あって・・!」
「国のためだ。そのことを第一に考えろとアドルフォから教え込まれたのではないのか?」
「そうです。でも・・・!」
あの、耳元で感じたエストレイの息遣いを思い出すだけで鳥肌が立つ。あんな思いを数回繰り返せば慣れると言われても、その前に心が壊れてしまうだろう。
思わず両手で顔を覆うと、アンドリューはその両手首を掴んで、無理に顔から引き離した。
「しっかりしろ!こういう日が来ることを想像していなかったわけではないだろう?国の利益になるための結婚しかできないと、覚悟していなかったのか?」
「では、あなたは誰とでも結婚できるのですか?この世で一番嫌いな女性であっても、国の利益の為なら一生添い遂げられるというのですか?」
「できる。・・・俺の存在は俺のものではない。国家のものだからな。」
アンドリューは将来、誰と結婚するのだろう。想像するだけでリディは胸が潰れそうだった。アンドリューのすべてを手にできる女性がこの世に一人だとして、なぜ、その一人が自分ではないのだろう?他の誰よりも、絶対にこの世で一番アンドリューを愛していると言い切れるのに。それこそ命を賭けて、幸せにすると誓ってもいいのに。
しないでほしい。
自分と結ばれないのなら、他の誰とも結婚しないでほしい。
そう言えたら、どんなにいいだろう。
そんな切ない思いで震える唇を噛みしめていると、アンドリューが突然言った。
「エストレイと結婚するのがそんなに嫌なら、俺と結婚するか。」
「!?」
リディは息がとまるほど驚いた。
だが、それがアンドリューの本心でないことは、すぐに気付いた。なぜなら、その一番欲しい言葉を聞いても、何の感情も沸いてこないからだ。心からの言葉でないから、心が動かない。
「どうだ?今のところ国王ではないから王妃にしてやれないし、プラテアードに恩恵を与えることもできない。革命家や派首という身分も総て捨ててもらわねばならない。ただ一人の女になって、敵国に嫁ぐ覚悟はあるのか?」
意地悪な質問だ。
リディがどんなにそれを望んでも、アンドリューは受け入れるわけがないのに。そしてまた、リディが国を捨てられるはずがないと、知っているはずなのに。
自分の立場をすべて捨てるような無責任な人間が、大嫌いなくせに。
リディは悲しく眉根を寄せて、答えた。
「それは・・・例え私が国を追放されようと、すべての身分を捨てようとも、プラテアードの血が許さないことです。」
アンドリューは、ゆっくりと頷いた。
「そのプラテアードの血は、アンテケルエラに嫁いでも生き続けることができるのか。」
リディは、ハッとした。
エストレイのことばかりに捕らわれ過ぎて、別の見方ができなくなっていたのかもしれない。アンテケルエラとの取引のことや、王女の正体をばらされたくないという思いを天秤にかけていたが、本当に重要なことを見逃していたのではないだろうか。
リディは、唇を噛むことも眉根を寄せることもやめ、まっすぐにアンドリューを見つめた。
「アンテケルエラに援けられることは、今後の隷属を意味することです。プリメール国のフィリグラーナ様がジェードに嫁いだのと同じ結果になるはず。プリメールは独立国家だけれど、常にジェードに怯え、言いなりになっている。同じような状況ならば、私のプラテアードの血は、死んだも同じです。」
アンドリューは、その答えに満足したように瞬き、そしてリディの肩越しに天を観た。月の位置がだいぶ動いている。許された時間は、もう僅かだ。
「リディ。一つ聞くが、お前はこれから王女として生きていきたいのか、それとも革命家として生きていきたいのか。」
「もちろん革命家としてです。私は26年間、そうして育ってきました。でも私の正体が王女であると公表されてしまえば、国民は私を王女としてしか見なくなります。」
「そうなれば、もう革命家として生きられないと?」
「だって、私はもうアドルフォの娘でいられなくなるんです。民主的な独立国家を目指すリーダーが王族だったなんて、国民の誰もが許さないでしょう?しかも、今まで王女であることを隠していたばかりでなく、アドルフォの娘と偽っていたなんて、大罪に値します。私はリーダーでいられないどころか、プラテアードから追い出されてしまうかもしれない。」
「それが怖いのか。その現実から逃げる方法がわからないから、俺を頼ってきたのか。」
「いいえ!逃げるつもりなんてありません。ただ、国民を騙していたと思われるのが嫌なんです。」
「そんなことで、本当に国を独立させられるとでも思っているのか?リーダーという立場上、これから先、国民を欺かねばならないことも、駆け引きをしなければならないことも絶対に出てくる。民衆の気持ちを考えることは大事だ。だがそれは、民衆のご機嫌取りをすることとは違う。国民に嫌われたり、揶揄されることを怖れていては真の指導者にはなれない。人の上に立つ資格はない。」
「・・・資格・・・。」
「アドルフォの娘という肩書から卒業する時が来たんじゃないのか。アドルフォの娘だからではなく、リディという存在そのもので、これからのプラテアードを率いていく時が来たんじゃないのか。」
「私が、私として・・・?」
「そうだ。それに王女だという事実が広まれば、例えエストレイをかわしたとしても別の国の王子がお前を攫いに来るだろう。そいつらからいつまでも逃げ切れるとは思えない。強引に連れ去られて・・・」
それ以上口にすると、リディの傷口を広げることになる。
そう気づいて、アンドリューは口を噤んだ。
アンドリューの戸惑いや後悔を感じ取ったリディは、無理に口を開いた。
「・・・大丈夫です。」
「リディ・・。」
「私はもう、大丈夫ですから。」
語尾が震えているのに、今にも涙が溢れそうな状態なのに、そう言って頷いて見せたリディを見たアンドリューは、突然、リディを抱き締めたいという衝動に駆られた。
しかし、手の甲に力を入れ、それを堪えた。
8年前。リディは、アドルフォの本当の娘でない事実と、王女である事実から取り乱した。その時、リディの傷ついた心に同情して抱きしめたことを覚えている。あの時、一緒に泣いてやりたいという気持ちが確かにあった。あれは、リディがアンドリューにとって、放っておけない友人という気持ちからの行為だった。
しかし、今は違う。
今、抱き寄せたいと思ったのは、同情や一緒に泣いてやりたいという気持ちではない。
矢毒を受けてベッドで苦しんでいたあの時から。
フィゲラスを貰い受けると宣言したあの時から。
アンドリューにとってリディは、確かに一人の異性だった。
リディの自分に対する想いは察している。
しかし、それに応えることが許されないということも知っている。
そして自分の気持ちが、リディの想いの何十分の一ほどにも届いてはいないことも実感している。事実、リディがエストレイと結婚しても仕方がないという気持ちにしかならない。まったく胸が痛まないとは言わないが、それ以上の気持ちにはならない。
今確かに言えることがあるとすれば、ただ一つ。
敵同士で、しかもアンドリューにとっては抹殺すべき相手であっても、似た境遇に生まれついた者同士という運命が、互いの存在を打ち消し合うことを許さないということだ。
リディの涙に濡れた頬が光って見える。そこには、一生消えないかもしれない銃の傷跡があった。柔らかな頬に刻まれたそれは、自分の罪を刻み付けているかのようにアンドリューには見える。
以前、リディはこう言った。
―――あなたが私を殺そうとしても、それは私があなたを殺す理由にはならない―――
撃ったことを、責めないというのか。
撃たれて殺されていたとしても、それを恨まないというのか。
空の色が変わりだしたことに気付いたリディは、アンドリューから一歩離れた。
「もう、帰らなければなりません。・・・来て下さったこと、心から感謝しています。本当に死にたいとさえ思っていました。でも、今はそんな風には思いません。私はもう、私の道を見誤りはしません。あなたのお蔭です。・・・ありがとう、アンドリュー。」
その時、リディの瞳が金色に光った。
その色は、いつもリディの強い意志を表している。
そしてそれが、アンドリューはとても好きだと思った。
「リディ。」
「え?」
アンドリューは素早くリディの腕を掴むと自分の元に引き寄せ、そして頬の傷跡に唇を押し当てた。
リディは一瞬、時も、心臓も、何もかもが止まったような錯覚に陥った。
そしてその瞬間は、あっという間に終わりを告げた。
頬から離れた唇が、耳元で低く囁いた。
「俺が今応えてやれるのは、ここまでだ。」
反対の方向へ、二人は全力で馬を飛ばさねばならなかった。
城が目覚めぬうちに帰り着かねばならない。
月が氷砂糖のように白く冷ややかな表情になっていくと同時に、東の空が淡いブルーに染め変えられていく。
それは、リディにとって、新たな歴史の幕開けの朝だった。