第54話:ソフィアの追憶
空の色が変わり始めた頃、3人はアドルフォ城に戻った。
交渉の行方が気になる幹部達が城門で出迎えたが、3人の顔色の悪さが実りのない結果を察するに十分すぎて、誰もが口を噤んでしまった。
「・・・本当に、すまない。」
リディは小さな声で言い、そのまま馬を歩ませた。
その様子を黙って見ていられなかったソフィアは、すぐに走ってリディを追いかけた。
厩で馬を降りたリディの背に向かい、大声をあげた。
「理由を話してください。なぜ交渉が失敗したのか、このままでは納得いきません!」
リディは何も言わず、馬具を取り外していく。
「リディ様!」
リディはマントがはだけない様に胸元でしっかり閉じあわせて、振り向いた。
「私が・・悪いんだ。本当に、すまない。」
ソフィアは一歩、前へ踏み出した。
「そんな理由で周りが納得できると思ってるんですか?国民が危機に瀕しているというのに、あなたにはそれを背負う覚悟がないのですか!?」
リディは、ソフィアの言葉に反論する術もなかった。
ソフィアは正しい。
そして、その正しいことに進めなかったのは、確かな事だ。
国家の首長ではなく、一人の女としての判断を下してしまったと責められても仕方がない。
リディはソフィアを一度だけ見つめ、黙ってその脇をすり抜けた。
(・・・?)
リディを横から一瞬見ただけだったが、ソフィアはハッとして息を呑んだ。
肩まで伸びた髪が靡いた隙間から、白い首筋に赤紫の痣があるのを見たからだ。
見間違いかとも思った。
だが、見逃してはいけないものを見切る力に長けているソフィアは、間違いではないと確信した。
「リディ様!」
城に入っていくリディを、ソフィアは追いかけた。
「お待ちください、リディ様。」
しかし、リディが歩みを緩める気配もないことを察したソフィアは、走ってリディの行く手を塞いだ。
リディは、上目づかいにソフィアを見た。
その紅茶色の瞳は、曇ってくすんでいる。
「・・・どいてくれ、ソフィア。」
「一つ、確認したいことがございます。」
「今は一人にしてくれないか。」
「確認したら、お部屋へお送りしますから。」
リディは、もしかしたらソフィアに勘付かれたのではないかと直感した。
ソフィアはスパイだ。隠し事を暴くプロだ。
リディは、首を振った。
「頼むから、放っておいてくれ。」
「すぐに済みます。・・・そのマント、脱いでください。」
「・・・!!」
唇を噛みしめたリディを見て、ソフィアはもう一度言った。
「何もないなら、簡単なことですわね?」
「・・・必要のないことは、しない。」
「大事なことです。」
強引に先へ進もうとしたリディの肩を、ソフィアが掴んだ。
「!」
その感触。
青い上着に付いていた金属の肩当てとは明らかに違う。マントの生地から、素肌の温もりが伝わってきた。
ソフィアの顔色が変わった。
「・・・アンテケルエラの王子は、まさか・・・。」
ソフィアの問いに対し、リディはゆっくりと首を振った。
「ソフィアが心配するようなことは・・ない。」
「お怪我は・・・?」
「大丈夫だ。・・・すまない、本当に。国民に合わせる顔がないとは思ってる。」
「リディ様・・・。」
「今ソフィアが思っていること、絶対に誰にも言わないでくれ。キールもパリスも、外で待っていて何も知らないんだ。・・・誰にも知られたくないんだ。頼む。」
マントを身体に巻きつけたまま去っていくリディの後ろ姿は、ソフィアの胸を締め付けた。
ソフィアは、アンテケルエラの王子が物資と引き換えにリディの身体を要求してきて、それをリディが拒否したために交渉が失敗したのだろうと推測した。リディが王女であることを知らないソフィアの考えの及ぶ範囲は、それが限界だった。
リディの言葉から、それは未遂に終わったのであろうが、ソフィアは、その拒絶を責めることはできなかった。
それは、ソフィアの昔の経験による。
忘れもしない、アドルフォとの出会い。
ソフィアの本当の人生が始まったと言っても過言でないあの日を、ソフィアは静かに振り返っていた。
――― もう、16年も前になる。
20歳になったばかりのソフィアの美しさは、既にプラテアード中に広く轟いていており、求婚者も絶えなかった。自他共に認める美貌から、ソフィアにはナルシストの気があり、自分とよく似た容姿に文武両道の兄キール以上の男でなければ男として認めていなかった。そのため、すべての求婚者は鼻の先であしらわれることになった。
そんな求婚者の中には気弱な者もいたが、性質の悪い輩も少なくなかった。どんな公衆の面前だろうと容赦なく嘲り、あしらうソフィアは、徐々に敵を増やしていった。そしてある夕刻、一人街を歩いていたソフィアは数人の男に連れ去られ、あっという間に強姦されてしまったのだった。
林の奥に置き去りにされたソフィアは、意識朦朧とした中、一人の男の声を聞いた。
(また男に犯される!)
その恐怖に慄いたソフィアは、次の瞬間には意識を失っていた。
気付いた時、見知らぬ部屋の中にいた。
丸太を組み上げた質素な造りで、天井は屋根の小屋組が剥き出しだった。
柔らかな布団にくるまれていたソフィアは、再び自分の身に何が起こったのか思い出し、身体を固くした。
「気づきましたか?」
声の方を見ると、ベッドの傍らに一人の少女が近寄ってきた。
紅茶色の優しい瞳で、ソフィアを見つめる。
ソフィアは何か言おうとしたが、声にならなかった。
少女は「父さん、お姉さんが気付いたよ!」と言いながら、部屋の外へ駈け出していった。
ほどなくして、口から顎まで茶色の髭を生やした、精悍な身体つきの男がやってきた。
だが、ソフィアはまだ色濃く残る恐怖から解放されておらず、男を見た途端に震えが止まらなくなり、顔を背けた。
男はそんなソフィアの様子をみて、少女に一言二言ささやいた。少女は頷き、男に代わって質問してきた。
「父さんが、一つだけ質問に答えて欲しいそうです。頷くか、首を振るだけでいいと。あなたは、キールの妹さんですか。」
ソフィアは、この男がキールの知り合いなのかと、思わず振り向いていた。
改めて男の顔を見て、ソフィアは驚いた。
話だけは聞いていたし、遠目には見たことがある。だが、こんなにも近くで拝するのは初めてだった。
ビーリャ・ラス・アドルフォ・アルミラーテ・コン・シュゼッタデュヴィリィエ!
まさか、こんな簡素な家に住んでいるとは。
ソフィアは、問いに対し、頷いた。
そして、今恐れていることを、どうしても告げねばならないと震える唇を開いた。
「兄や家族には・・・言わないでください・・・!」
それを聞いたアドルフォは、リディに「台所でスープの様子を見ていてくれ。」と言い、部屋の外へと追いやった。
二人きりになると、アドルフォは努めて穏やかな声で言った。
「今、夜の9時を過ぎたところだ。君の家ではさぞ心配しているだろう。立てるようなら、これから送っていくが。」
「・・・。」
ソフィアは、グッと下唇を噛みしめた。こんな格好で家へ帰ったら、何もかも明らかになってしまう。そんなソフィアの思いを察するように、アドルフォは言った。
「嫌でなければ、私の服を着るといい。着替えた理由も考えておこう。今リディにお湯と服を持ってこさせるから、準備ができたら隣の部屋へ来なさい。」
「お湯は・・いいです。」
「顔だけでも、拭いた方がいい。美しい顔が埃だらけだ。それこそ・・・」
「それは、嫌味ですか。」
「え?」
「どうせ、こんな目に遭ったのは自業自得だって思ってるんでしょう?この顔を鼻にかけて男を踏みにじってきたからって、そんな顔が汚くなって当り前だって・・・!」
一度感情を出してしまうと、抑え込んでいたものまでもが一気に外へ噴き出した。
「高慢ちきな女だと噂されてたことも知ってます!顔だけで中身は空っぽだとか、気が強いとか、人を思いやる気持ちなんか少しもないとか、散々に言われ続けてきたことにも、ちゃんと気づいてた!でも、私は私。それを誰にも責める権利なんかないはずよ!こんな目に遭う理由もないわ!!」
そこまで吐き出し、ソフィアはワッと泣き崩れた。
自分が支離滅裂なことを言っているとは思った。だが、冷静な思考など今のソフィアには望めはしない。
アドルフォはそんなソフィアの叫びを黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「私は君の家へちょうど用事がある。君は今晩私の家に泊まると言っておこう。無論、君が心配しているようなことは一切口にしないから安心しなさい。」
「・・・。」
「明日の朝まで一人にしておこう。気のすむまで泣けばいい。叫べばいい。それを誰も責めはしない。男の私には、所詮他に何もしてやれないのでな。・・・すまない。」
扉が閉まる音が聞き届け、ソフィアは身体を丸めて再び布団の中に潜り込んだ。
暗闇が怖いはずなのに、明るいところにいる方がなぜか様々なことが蘇ってきて、涙が浮かんできた。布団の中の暗い場所で、膝を抱えて息を潜めた。
唇を震わせながら、堰を切ったように溢れ出す涙が頬から顎を伝って落ちていく。この、深い沼に埋まってしまったような気持ちが、いつか晴れる日など来るのだろうか。
そんな風に思えて、切なかった。
腫れて重くなった瞼を持ち上げるのは難しい。結局、半分しか開くことができなかった。
カーテンの隙間から、眩しい金色の光が差し込んでいる。
ソフィアは自分の身に起こったことを改めて思い出し、頭を抱えた。自分の気持ちは泥に塗れたように重いのに、こうして朝は必ずやってくる。
そこへ、扉をノックする音が聞こえてきた。
「お姉さん、起きてますか?」
リディの声だ。
ソフィアは、返事をする気になれなかった。
するとリディは去ったようだったが、また30分後、同じように扉がノックされた。それを4回ほど繰り返された時、ソフィアは観念して返事をした。
リディは扉を開けると、大きな盥を抱えて、よろめきながら脇机まで運んできた。
中には、温かな湯がたっぷり入っている。
「父さんから、お姉さんが起きたら運ぶようにと言われてました。」
リディはそう言うと、腕に掛けていたタオルも机の上に置いた。
ソフィアは、気だるく前髪を掻き揚げた。
「それで、あなたのお父様は?」
「出かけました。」
「・・・そう。」
「父から、手紙、預かってます。」
「え?」
リディはポケットから白い封筒を取り出し、ソフィアに手渡した。
「1時間後に食事を運びますから、待っててくださいね。」
封は蝋で固く閉じられている。リディが居なくなるや否や、ソフィアは封筒の端を契り、すぐに中を確認した。
『ソフィア殿。君は昨日、川で溺れかかったリディを助け、私の家へ着替えに寄った。ところがリディが濡れたことで熱を出し、出掛ける私の代わりに君が看病してくれている・・・君の家族には、そう言っておいた。私はこの周辺の40歳以下の男を全員連れて、全総督府への抗議行進に行く。2週間ほど家を空けることになるので、その留守を君に頼みたい。リディは自分のことは自分でできるから、世話はかけない。ただ、10歳の少女一人きりにするのは親として忍びない。君は自分の家と思って、好きに過ごしていい。このことも、君の家族には伝えておいた。着替えはすでに私が、君の母上からトランクに詰めてもらってきてある。部屋の扉の外に置いておくから、必要ならリディにベッド脇まで持ってこさせるといい。』
ソフィアは、思わず手紙を握りしめた。
アドルフォが意図したことなのか、それとも偶然が重なったのかはわからない。しかし、ソフィアが恐れていることの幾つかは、これで回避された。
ソフィアを襲った男達が遥か遠くから来た可能性は低い。アドルフォが、周辺の40歳以下の男全員を連れて行ったというなら、その中には確実にソフィアを襲った連中が含まれている。2週間は、男達と遭遇する危険はなくなったし、男達が街中でソフィアを襲ったことを吹聴する虞もなくなった。抗議行進中の男達の間では話題になるかもしれないが、それをキールが聞きつけたが最後、奴らが無事で済まされるわけはない。
(でも、知られてはしまう。)
アドルフォがいくら口を噤んでいても、あの連中が口を噤まない限り、話が漏れ伝わる可能性は残る。
(覚悟は・・しなくてはならないのだ・・・。)
死なない限り、どんな現実も受け止めねばならないのは事実だ。
生きるなら、外を見なければ。
だが、今のソフィアには、そんな前向きな考えを受け止めるだけの力がなかった。
しかし、今はとにかく、汚された身体だけは綺麗にしたいと思った。
ゆっくりと、上半身だけ起こす。
破れた服を体から剥ぐたびに、皮膚ごと剥されるような痛みが走った。
与えられた湯に布を浸し、顔を拭った。そして手と、足首から下の泥を拭いた。
それ以上、身体の中で少しでも性を感じさせる部分は、見たら嫌悪感でどうにかなりそうだったが、そのままにしておいたら更に気分が沈みそうだった。
嗚咽と共に涙が再び溢れた。
だが、それを抑えることはしなかった。
ずっと、泣くのは恥だと思っていたし、弱さの証だから嫌いだと思っていた。
だが、どうしようもない時もある。アドルフォが「それを誰も責めはしない」という言葉が、ソフィアの泣くことへの罪悪感を拭っていた。
(そう。私自身でさえ、泣き崩れる私を、今は責めはしない・・・。)
リディは10歳とは思えないほど他人への気遣いに溢れている少女だった。
アドルフォから何を言われていたのかはわからなかったが、ソフィアがベッドから出なくても何一つ不自由が無いように常に気を遣っていた。ソフィアが時折ヒステリックに感情を剥き出しにしても、悲しい瞳をするだけで、ただ言われるままになっていた。そして暫く経ち、ソフィアが冷静になった頃に再び部屋を訪れ、温かいものや柔らかな布、花などを差し入れてくれるのだった。
4日後。ソフィアは床の上に自分の足で立ち、埃をかぶった置物を拭いたり、床を掃いたりし始めた。
6日後には、初めて部屋から出た。台所でリディと食事の用意をしたり、洗い物をした。
7日目には、初めてカーテンの隙間から少しだけ空を見た。それは、まだグレイがかった青い色だった。
8日目、二人は向き合って裁縫をした。リディやアドルフォのシャツや靴下の繕いや、ボタンの付け替えをした。リディは細やかな性格の割に手先は不器用で、ソフィアは小さく微笑んで、きれいに仕上げるコツを伝授してやった。
10日目、ソフィアはカーテンを半分開けた。
外は土砂降りの雨で、景色は滲んでいた。だが、その雨はソフィアの心の汚れを洗い流してくれるように思えて、優しい気持ちになった。
そして、2週間が経った。
馬の蹄の音に反応したのは、リディだった。
「帰ってきた!」
玄関の扉を開け、リディは帰宅したアドルフォに飛びついた。
「お帰りなさい、父さん!」
その時、ソフィアはあの日以来、初めて家の外へ足を踏み出した。
そこには、リディを片手で抱きかかえたアドルフォが立っていた。
アドルフォはソフィアを見ると、優しい瞳になった。
「留守を預かってくれてありがとう。お陰で安心して出掛けられた。」
その時、アドルフォとその後ろで沈みかけた赤い夕陽が眩しくて、ソフィアは思わず目を細めた。
すごく長い間待ち続けていたものがようやく訪れたような、なぜかそんな気持ちになって安心した。
夜、リディが眠ってしまうと、アドルフォはソフィアに言った。
「君を襲った男達を突き止めてある。浅はかな連中だから、まるで手柄でも立てたかのように仲間に話しているのをキールが聞いてしまった。」
「・・・兄が・・・。」
「キールは奴らを殺しかねない勢いだった。当然だ。私は組織の秩序を守る責任がある。奴らはしばらく牢獄へ閉じ込めておくが、・・・残念ながら、話が広がるのは止めることができなかった。」
ソフィアは、ゆっくりと頷いた。
「この2週間で、覚悟はできました。家族を巻き込んでしまうのは申し訳ないことですが・・・。」
「君の家族は、そんな風には受け取らない。君の苦しみは君と同じくらいに感じ、君が世間と戦うなら一緒に戦ってくれる。」
ソフィアは、眉根を震わせた。
「そうでしょうか。・・・私、家族のために何もしてこなかった。なのに、家族は私のために戦ってくれるのでしょうか。」
「もちろん。家族だからね。私も、できる限り力になりたいと思っている。」
アドルフォの言葉に、ソフィアは堪らず顔を手で覆って泣き始めた。
独りきりでないということは、何と有難いことだろう。
家族なんて鬱陶しいと思った事は、一度や二度ではなかった。少女から大人へなるに連れ、家族と言い合いになることが増えていた。傷つけるようなことを言った回数など、数えきれない。それなのに、家族は、自分の味方になってくれるというのか。
アドルフォの前で、ソフィアは子供のように泣き続けた。
どういうわけか、アドルフォの前でなら泣いてもいいと思った。甘えてもいいと思えた。男への恐怖が消えてはいないのに、アドルフォが傍らにいることは心地よいくらいだった。
それがソフィアの、最初で最後の恋の始まりだった。
それから一か月後、アドルフォが女スパイを必要としていることを知ったソフィアは、迷わずに志願した。
何の武術の心得も思想もなかったソフィアは、よく採用されたと半信半疑の思いだった。アドルフォはソフィアの申し出に一瞬だけ驚いた表情をしたが、ソフィアの真剣な瞳を見つめて、承諾した。
それから3カ月、ソフィアはフレキシ派の秘密基地で特訓を受けた。知識やスパイとしての心得は、アドルフォが毎晩つきっきりで指導してくれた。ソフィアにとって、それは幸せこの上ないことだった。ある程度の毒に対し免疫をつけるためだと言って、毒を飲まされることも多かった。少量ずつ飲ませていても、毒は毒だ。激しい苦痛や痙攣を起こすことも少なくなかった。それを寝ずで看病してくれたのも、アドルフォだった。
ある時、ソフィアは堪らずキールに聞いたことがある。
「ねぇ、アドルフォ様の奥様って、いつ亡くなったの?」
キールは、返事を濁した。ソフィアも、あまり追及するとアドルフォへの想いを勘付かれそうで、深追いするのはやめた。
アドルフォが結婚などしたことがないことも、リディが本当の娘でないことも、キールはアドルフォの死後、初めて教えてくれた。
「これからはソフィア、お前もリディ様を身近でお守りすることになる。だから秘密を打ち明けた。リディ様でさえ知らない秘密を知らせたのは、真にお守りする上でどうしても必要だからだ。」
ソフィアはアドルフォの亡骸に誓った。アドルフォが跡継ぎと認めたリディを、命に代えても守るのだと―――
ソフィアは、リディの部屋の外で一夜を明かした。
リディに何かあったら、すぐ対応できるようにと待ち構えていたが、中からは物音ひとつしなかった。
そこへ、キールがやってきた。
「ソフィア。リディ様は?」
「まだ眠ってらっしゃるんじゃないかしら。一歩も外へは出てらっしゃらないわ。」
キールの苦い横顔に、ソフィアは何をどう言ったらいいか次の言葉を迷った。リディは、キールもパリスも何も知らないと言っていたが・・・。
「私、ずっとここにいて何かあれば知らせるわ。」
「・・・お前、あれからリディ様を責めたりしたんだろう?ソフィアが居座ってるから、出てらっしゃらないんじゃないのか?」
ソフィアはムッとしたように口を尖らせた。
「酷い言い方だわ。私は、何もしていません。」
キールを追い払い、ソフィアは改めて息を吐いた。
強姦され傷ついていた自分に、リディは優しくしてくれた。
では今、自分はリディに何ができるのだろう?
リディは、何をして欲しいと思うのだろう?
ソフィアは、あの時のリディがしたように、扉をノックした。
「リディ様。ソフィアです。御目覚めですか?」
返事はない。
ソフィアは、やはりリディがしたように、30分置きにそれを繰り返した。
4回目になって、扉の鍵が開いた。
ほんの少しの隙間から、リディはソフィアに手紙を差し出した。
「キールに渡して欲しい。頼む。」
「それは、すぐに。それより、他に何か私ができることはありませんか。」
リディは、苦笑した。
「何だ。めずらしく、優しいのだな。」
「私は・・・!」
「ありがとう。でも、大丈夫だから。」
「ジロルド様かフィゲラスをよこしましょうか。」
「いや、・・・いい。」
扉が再び閉ざされ、ソフィアは廊下に一人取り残された気分になった。
一晩では、傷が癒えるわけがないことを、ソフィアは知っている。
そしてまた、傷を癒すために必要なものが何かも、ソフィアは知っていた。
リディは、アンドリューのペンダントを握りしめながら、どうすればいいのか迷っていた。エストレイにされた事に傷つくより、重大な選択を迫られていることの方がリディを苦しめていた。
エストレイと結婚して、アンテケルエラの配下に置かれるか。それを拒絶して国民を更なる貧困に苦しめるのか。どちらにしろ同じなのは、国民に自分が王女であることがばれてしまうということだ。つまり、アドルフォの娘ではないことが白日の下に曝されることになる。その時点で、リディは首長ではいられない。それは構わないが、国民を「騙された」という気持ちにさせてしまうことが辛い。せめて急場を凌ぐための水と食料を得るためには、結婚しかない。
国のために結婚する。
おそらく、王族の多くがそうなのだろう。そして、それを受け入れて生きてきたのだろう。
だが、リディには、どうしてもその覚悟ができない。
あのエストレイに抱かれなければならないという事が、どうしても受け入れられないのだ。
キスだけであれだけの嫌悪感があった相手と、どうして一生添い遂げられるのか。
1カ月も一緒にいれば情も移って慣れるのだろうか。
だが、その1カ月を耐える自信がない。
贅沢なのだろうか。我がままなのだろうか。首長としての自覚に欠けているのだろうか。
こういう時どうすればいいかなんて、アドルフォは何も言ってなかった。キールも、バッツも、何も教えてくれなかった。
相談できるものなら、今、したい。
だが、リディが王女であることを知らないキールやソフィアに相談することはできない。アドルフォの娘でないばかりか、国王のいない民主国家を作り上げることを掲げてきたフレキシ派の派首が王女だったなんて知ったら、二人はどういう態度に出るだろう?想像するだけで、リディは怖かった。
つまり、相談できるとしたら、それはリディが王女であることを知っている人間しかいないということだ。
そう思いたったリディは、思わず身体を震わせた。
相談できる相手は、一人しかいない。
リディの返事如何では、アンテケルエラとジェードが戦争になる。
つまり、ジェードは無関係ではないという事だ。
それは、会う理由としては十分なはず。
それに、薔薇翡翠のペンダントも返さなければ。
違う。
理由なんて、都合のいい言い訳に過ぎない。
会いたい。
ただ、アンドリューに会いたい。
会ってどうするわけではないが、いくつにも引き裂かれた心を立て直せるのがアンドリュー以外にいないことを、リディは確信していた。あのアンドリューが、慰めてくれるとか優しくしてくれるなんて思っていない。ただ、会って、指先一本でいいから触れたい。それだけで明日を乗り切る力になる。何かを決断する勇気になる。
リディは、部屋の片隅に置いてある巣箱から伝書鳩をそっと取り出した。
第四総督府からこのアドルフォ城まで辿り着き、リディの無事を伝えた鳩だ。
(ならば、その道をお前は覚えているはずよね・・?)
アンドリューは、キールと会うために電報を使ったと聞いた。しかし、今アドルフォ城から電報を打って受信するのはアンドリューではない誰かであり、その誰かがアンドリュー以外の誰かへ電報の中身を知らせてしまうかもしれない。もし、アンドリューがプラテアードと秘密の繋がりを持っているなんて噂されたら、それこそ取り返しのつかないことになる。
(だから、お前しかいない。お前は、アンドリューの部屋から私が飛ばした。だから、そこへ戻れるはず。)
思い立ったが最後。もう、気持ちを止めることはできなかった。
居ても立ってもいられない。
行動せずにはいられない。
リディは、日時と場所、そして「薔薇翡翠のペンダント」とだけ書き記した紙を小さな銀の筒に丸め込み、鳩の首に巻きつけた。
(お願い。今は、お前しか頼れない。)
鳩の頭にキスをして、リディは窓を開けた。
相変わらずの乾燥した風が吹く。
(さあ・・・!)
大きく羽ばたいた翼に太陽の光が照り付け、金色に輝いた。
リディは、胸の前で手を合わせ祈った。
(どうか届いて。私の想いを届けて・・・!)