第53話:王女の使命 ― その2 ―
決定的な何かを口にしたとは思わない。
だが、エストレイの言葉に反論できないでいることも、動揺を隠しきれないことも、何が真実かを証明している。
どうすればいいのか迷っている間もなく、リディはとうとうタペストリーの掛けられた壁まで追い詰められた。
もはや何を言おうと、言い訳にさえならないだろう。
「!!」
突如両手首を掴まれ、壁に強く打ちつけられた。
タペストリーが歪んだのが、背中の感触でわかる。
リディは、自分の身体を覆う高さから、エストレイに見下ろされた。
「今、私が一番欲しているものが何かわかるか?」
「!」
エストレイの瞳の色が変化したのを目にした瞬間、本能が異常な嫌悪感となって、リディの全身に危険を知らせた。
掴まれた手首を外そうとするが、まったく動じない。
強い力。
理屈ではわかっていたが、こんなにも差があるとは。
こういう時のために武術を学んできたのに、今、何の役にも立たない。
リディは、恐怖心を抑えてエストレイを睨みつけた。
歯を食いしばりながらでも、息がかかるほど近くにある顔から目を背けてはいけない。視線を外した途端、負けになる。
「どんな強国も跡継ぎが生まれなければ存続できない。このアンテケルエラが、私の代で終わるなど絶対に許さない。」
「それが私と、何の関係があるのです?」
「今、この大陸の王国で紋章を持つ未婚の王女はいない。それで最後の頼みの綱、プラテアードの生き残りを探していたのだ。ブルーアンバーの取引を受けたのも、真相を掴む切っ掛けになればと考えたからだ。雲を掴むような噂話だと諦めかけていたが、私は幸運だ。末裔を見つけたばかりでなく、狙い通り女だったのだからな!」
「紋章を持つ未婚の王女がいないって・・・?エンフリアード国にも、カルテラ国にも、そう、アルマセネス国にだって、王女がいるではありませんか!?」
先ほどエストレイが言った「額の証がなければ国を継ぐ資格がない」というのは、王家以外の者は国を継ぐ資格がないという意味だと、リディは単純に捉えていた。
「王家の子女全員に紋章が出現すると思っていたのか。・・・それは、そなたの額に裏紋章が現れるという証拠だな。」
エストレイは、薄笑いを浮かべた。
「額に王家の裏紋章が出現するかしないかは、それこそ神のみぞ知るところ。国王の実の子であっても裏紋章が現れるとは限らない。そして、紋章が無ければ国を継ぐことが許されないというのがこの大陸の掟だ。その掟のために潰れた国はいくらでもある。今生き残っている国は、それこそ神に選ばれし国家なのだ。」
エストレイの顔が、リディの顔を覗き込むように近づいてくる。
「裏紋章を持つ者同士が交わることで紋章つきの子が産まれる可能性は9割以上。ところがジェードのマリティム国王とフィリグラーナ妃は共に紋章を持ちながら子の二人ともに紋章がないという有様だ。紋章のない王女と結婚すれば、さらに真の跡継ぎなど期待できなくなる。」
逃れる隙を必死に探ろうとするリディを、エストレイは更に力を入れて壁に押し付けた。そして、逃げようとすることが完全に無駄だと思い知らせるように、エストレイの片足がリディの太腿を割って入った。
次の瞬間、エストレイは強引にリディに唇を重ねてきた。
「っ!」
思わず、目を瞑る。
気持ちが悪い。
無数の虫が全身を這い回る様な感触に見舞われる。
そんなリディの思いなど構う様子もなく、エストレイは素早くリディの両手首を頭上で重ねあわせ片手で掴み直すと、もう一方の手で、リディの襟元を一気に引き裂いた。
布の引き裂ける音が、心をも引き裂く。
アドルフォの形見である藍色のスカーフが、はらりと床へ落ちた。
リディは崩れそうな心を必死に保って叫んだ。
「こんなやり方で私をものにして、何があるというのです!?」
「私が気付いたように、他国が気付くのも時間の問題だ。余所にも独身の王子は何人もいる。紋章つきの王女を一番先に見つけたのは私だ。横取りされてたまるか!」
「お忘れですか!?今の私は王女ではない、革命家なのですよ!?」
「そうだ。だから今日限り、革命など忘れてしまうがいい。」
「そんなこと、できるわけがない!」
「できるさ。・・・食料が欲しいのだろう?」
鳥肌が立つほどの、いやらしい物言いだった。
「そなたが私の妻になれば、プラテアードはアンテケルエラのものになる。私はジェードのようにプラテアードを痛みつけることはしない。他国から守り、自国と同じように大切にする。」
「あなたは何を言っているかわかってるのですか?プラテアードをジェードから奪うことになるのですよ?それこそ、全面戦争になってしまいます!」
「そうだ。それを覚悟で、そなたが欲しいと言っているのだ。」
エストレイは全体重をかけ、リディを床上に押し倒した。
顔を背けると、剥き出しになった白い首筋に唇を這わせてきた。
女の身体は、不思議なものだ。
相手がアンドリューだったら、何の抵抗もなく、むしろ喜んで受け入れていたのかもしれない。ところが好きでもない相手となれば、容赦なく身体が拒絶する。これが、女の本能というものなのだろうか。
さらに性質が悪いのは、数分前までは親しみや尊敬を感じていた相手から、思いがけない仕打ちを受けたことだ。それが、リディを一層傷つけていた。
白いシャツの下にエストレイの手が潜り込み、肌をまさぐられた時、リディは思わず叫び声を上げた。
ところが、声が音にならない。
喉の奥から空気が漏れるだけだ。
恐怖で声が出ないという経験を、リディは初めて味わった。
今まで、命を狙われたことは何度もあった。その時は、恐怖心より抵抗心の方が常に勝っていた。しかし、今回は違う。あるのは吐き気がするほどの嫌悪感と、絡め捕られるような恐怖。それだけだ。
男の身体は、どうしてこうも重いのか。逞しさは弱者を守るためにあると思っていたが、今は、華奢な女の身体を征服するためのものにしか思えない。
どうすればいいのかわからない中、夢中で力の限り身体をよじってエストレイを避ける。
エストレイは、リディの顎を掴んで正面を向けさせた。
「どうして私を受け入れない?こんないい話はないだろう。そなたは時期王妃として贅沢な暮らしができる。こんな安物を着ることもない。国民も救われる。」
そうだ。
わかっている。ここへ来たのは、日照りで水不足と飢えに晒されている国民の命を救うため。ここでエストレイに抱かれることで国民を救えるのなら、安いものではないのか。
でも。
これでいいのか。
このまま、エストレイの言いなりになっていいのか。
食料の援助はいいとして、その先は?
ジェードとアンテケルエラが戦争になったら、プラテアードは巻き込まれるに決まっている。そのために国民の多くが戦いにかりだされ、苦しみ、死ぬことにはならないのか?アンテケルエラがいくら平等に扱ってくれたとしても、常に「守られる」立場で、下の地位に抑え込まれるのは目に見えているではないか!
嫌だ。
そんなことは、駄目だ。
そう思った途端、エストレイがリディの白いシャツを、ボタンごと胸元から剥ぎ取った。
千切れた布と、貝でできたボタンが宙を舞う。
「・・・っ!!」
カラ・・ン
白蝶貝のボタンが床に落ちる音を合図にしたように、突然、エストレイの手が止まった。
目を固く閉じていたリディは、恐る恐る瞼を開いた。
「これは・・・。」
エストレイが息を呑んで見つめる視線の先にあるものの正体に気付き、リディは慌てて両腕で胸元を隠した。
見られた!
アンドリューのペンダント・・・
薔薇翡翠のペンダントを見られてしまったのだ!
エストレイはリディの腕を掴み、再びペンダントをよく見ようとした。
だが、リディは必死にそれを阻止した。
「それは薔薇翡翠だろう?そんなもの、どうして・・・。」
「・・・。」
「答えろ。薔薇翡翠の装飾品は、ジェードの貴族以上の地位を持つ者しか身につけることが許されないのだぞ。それをどうしてプラテアードの人間が持っているのだ?」
リディは、首を振った。
まだ言葉が出ない。
「一体どういうことだ?プラテアードはジェードから独立を目論んでいるのではないのか?本当は、両国はどういう関係になっているのだ・・?」
露になった肩を震わせて背を向けるリディを、エストレイはしばらく黙って見つめていた。自分の身体を守ろうとしているのか、ペンダントを守ろうとしているのか、傍目からはわからない。
エストレイはリディから身体を離すと、大きく息を吐いた。
「一つ、聞いてもいいか。」
「・・・。」
「他に、好きな男でもいるのか。」
ほんの少し、リディの肩先が揺れた。
それは、肯定の証と言って間違いなかった。
「そうか。・・・私を拒絶する理由はわかった。だが、どのみち身分違いの適わぬ恋だろう。」
「・・・。」
「私たちのような立場の人間には、恋愛結婚など到底縁のないものではないか。」
そう言われても、本能が拒否するのだ。それは、どうしようもないではないか。
「いい年をして少女染みた考えを持っているなら、諦めろ。王族の結婚は取引だ。商談だ。最高の条件の相手と契約し、その相手を好きになろうと努力する方が建設的だと思わないか。」
エストレイは脱ぎかけた上着のホックをかけ直すと、床からリディの青い上着を拾い上げた。
リディは目の前に差し出されたそれを、手の甲で振り払った。
エストレイの触ったものを触るのさえ、嫌悪感が先に立った。
胸元を押さえて立ち上がろうとしたが、腰が抜けて動かない。
身体を引きずって移動し、ソファに掛けておいたマントを手に取ると、エストレイに背を向けて身体に巻きつけた。
指先が震えている。
奥歯も震えている。
そんなリディを見下ろし、エストレイは言った。
「そのペンダントの主が、恋人なのか。」
リディは、激しく首を振った。そんな風に誤解されるのだけは、困ると思った。
だが、やはりリディはエストレイより下の立場だった。
「まあ、いいだろう。遅かれ早かれ、そなたは私のものだ。絶対に余所の男には渡さない。5日後、次の満月がやってくる。その時まで返事を待とう。この城に今度は一人で来い。額の徴を見せてもらう。もしその時、そなたの額に裏紋章が表れなければ、そのまま解放してやる。ブルーアンバーと食料の交換にも応じる。裏紋章が浮かんだなら、そのままアンテケルエラの王宮へ連れて行く。私の両親は喜んで受け入れるだろう。プラテアードには惜しみない援助をしよう。どうだ?どちらにしろ願ってもない話だろう。」
少し落ち着いたリディだったが、怖くてエストレイを見られない。だから顔をそむけたまま、かすれた声で聞いた。
「もし満月の晩、ここへ来なかったら・・・?」
「その時は、食料援助だけでなく今まで行っていた通常のブルーアンバーの取引きからも完全撤退する。そして、プラテアードの末裔が生きていたことを大陸全土に公表してやる。そなたが王族の娘ということは、アドルフォの娘ではないということだ。それは、これ以上ない国民への裏切りになるだろう。」
「・・・!」
リディは歯を食いしばり、そして、必死に声を振り絞った。
「卑怯な・・・!」
だが、エストレイは落ち着き払った声で答えた。
「私が一番欲しかったものだ。手に入れるためなら、どんな卑怯にでもなる。戦争さえ厭わない。国家の存亡を賭けているのだから、当たり前だ。」
こういう事になり兼ねないから、王女であることを隠しておけとアンドリューは言ったのに。
もう、取り返しがつかない。
破れて見る影もない服と素肌をマントで覆い隠し、リディは城の門へ戻った。
ふらついたリディにエストレイが手を貸そうとしたが、指が微かに触れただけでリディの身体が大きく震えたため、彼は思わず手を引っ込めた。
リディは門の外に待っていた馬に乗ろうとしたが、足に力がなかなか入らない。
その異常さに、キールは見送りに来た軍人に詰問した。
「シュゼッタデュヴィリィエ様に何かしたのではないでしょうね?」
「・・・それは、愚問ですな。」
軍人が深く頭を下げると同時に、門が重く、固く閉ざされた。
リディは馬の鬣を懸命に掴み、やっとのことで馬にまたがった。
キールが声をかけると、リディは力なくつぶやいた。
「・・・すまない。」
キールとパリスは、交渉が上手くいかなくて、それでリディが落ち込んでいるのだと思った。まさかエストレイと何かあったなどとは、露程も疑わなかった。
帰りの足取りは重かった。
リディは、二人に何があったか絶対に悟られまいと必死だった。
泣いてはいけないし、やけになったように馬に鞭を刳れてもならない。
唇をギュッと噛みしめ、リディは胸元に揺れるペンダントにマントの上から触れた。
未遂に終わったのは、このペンダントのお蔭だと思う。それはアンドリューが助けてくれたのと同じだと思った。
いや。
そう思って、自分を慰めずにはいられなかったのかもしれない。
風で靡く前髪の隙間から、遠くに輝く月が見えた。
それは、5日後に満ちる日を待ちわびるように膨らんでいる、クリーム色の月だった。