第52話:王女の使命 ― その1 ―
季節が流れた。
その年は日照りが続き、作物は全滅に近かった。
川の流れは日に日に細くなり、井戸の水位もみるみる内に下がっていく。
青から金色に染め変わるはずの小麦も、実るはずの果物も、無残に枯れ果てた。
それはプラテアードだけでなく、同じ大陸にあるジェードもアンテケルエラもプリメールも、他国も同様だった。しかし、もともと土質が悪いプラテアードは特に深刻だった。しかも、僅かに取れた作物はすべてジェードに巻き上げられてしまう。
第四総督府の総督であるアンドリューは、管轄領土からの取り立てを規制したが、その話が第一と第二総督府に伝わった途端、減税の時と同様に、規制した分が巻き上げられてしまった。
ジェードの統治下となっているプラテアードには、この様な事態に備えて蓄えを持つことなど許されていない。雨が降らない日があと1カ月も続けば、命に関わる事態に陥るのは間違いなかった。
フレキシ派の幹部達は、新たに井戸を掘ったり、洞窟内の湧水を探すために日夜を問わず奔走した。しかし空振りに終わることが多く、メンバーの顔にも徒労が色濃く表れてきていた。
当然、ジェードからの救済など得られないプラテアードの最後の頼みの綱は、ブルーアンバーの買い取り先であるアンテケルエラ王国だった。
極秘の取引は、1カ月に1度、夜中に、洞窟内で行われる。
取引は互いに3人対3人を約束とし、一人1本の蝋燭のみを手に集う。
アンテケルエラは、地位のありそうな初老の軍人と、体格のいい大男、そして背の高い眼光鋭い若い男の3人がいつものメンバーだ。一方プラテアードはキールを筆頭に、フレキシ派幹部の二人がついていく。二人のうち一人はリディであることが多い。国の命運を賭けた取引を見守りたいリディは、常に服の中を完全武装して立ち会う。
その夜、取引の前にキールが口火を切った。
「今回の取引に際し、お願いしたいことがあります。」
初老の軍人は眉をちょっと上げた。
「何ですか。」
「昨今の気象事情はおわかりだと思います。特に我々は・・・。」
「おっしゃりたいことは、わかります。」
キールの言葉は、軍人の一言に遮られた。
「つまり、貨幣より食料が欲しいということですね。」
思いを先読みされたことで、返事への不安が高まる。固唾を呑んで待つ間もなく、軍人から即答が返ってきた。
「プラテアードの苦しい事情は察していますが、我々も余裕があるとはいえません。」
「それは承知していますが、我がプラテアードは限界に近づいています。自力で努力できる範疇を超えているということを考慮していただきたい。」
一歩も引く気配のないキールの様子を見定めた軍人は、軽く頷いた。
「実は今回、そちらが食料を要求してくるだろうことは推測していました。そこで予め、国王陛下と話し合ってきています。」
「国王様と・・?」
「陛下は良いお返事はなさいませんでしたが、代わりに王子が交渉に応じてもよいと申し出られました。」
「王子?」
「さよう。エストレマドゥラ王子です。」
アンテケルエラには王子の他に二人の王女がいる。だが、年長のエストレマドゥラが時期国王であることは数年前に公言されていた。つまり、王子には額に裏紋章があるということだ。
「王子は、現プラテアードの首長ともいえるフレキシ派派首、シュゼッタデュヴィリィエ殿と直接1対1で対面することを条件に、交渉に応じるとおっしゃっています。」
キールの影にいたリディは、太腿の脇で静かに拳を握った。
振り向いてリディの顔色を窺いたいのをグッと堪え、キールは言った。
「して、その日時と場所、方法は?」
「プラテアード国境に最も近いエシャンプラ城にて、明日の夜に10時に。城門前までは2人まで伴を連れてくることは構いませんが、城内へはシュゼッタデュヴィリィエ殿お一人しかお通しすることはできません。」
「そんな・・!」
「嫌なら、お越しにならなければよい。それだけです。」
「・・・っ。」
二の句が継げないキールに追い打ちをかけるように、軍人は言った。
「派首の身の上を案じるのはわかりますが、もし偽物などよこしたら交渉どころではなく、一切の取引を止めさせていただきます。くれぐれも、浅はかな行いはなさらぬよう。」
弱味があるのは、キールの側だ。交渉が平等に行われるわけはない。
軍人がエシャンプラ城の位置を示す地図をキールに渡し、双方は別れた。
アドルフォ城への帰り道、リディはキールの隣に馬をつけ、言った。
「私の気持ちは決まっている。皆と話し合うまでもない。」
「お気持ちはわかりますが、相手が何を企んでいるのか不安です。」
「私には、国民の命がかかっている。私一人の命を惜しんではいけない。」
「しかし、万が一のことがあっては・・・!」
「いつも言っているではないか。私がいなくなったら、キールかソフィアが継げばいい。私よりずっと立派にやっていける。案じてはいない。」
冷静な口調の時、リディはいつも決意を固めている。他がどんなに反論しようと、意志は変えない。
アドルフォ城では今回のことについて緊急会議が開かれたが、結論は変わらなかった。
ソフィアは、まっすぐ前を見据えて自分の決意を述べるリディの眼差しに、再びアドルフォの面影を見た。
義理の親子だと忘れてしまうほど良く似た眼差しで、きっと、二人は同じものを見ている。二人には、同じものが見えているのだろう。
リディにも、恐怖心がないわけではない。相手の正体がわからない胸騒ぎが身体を時折震わせる。
しかし、そんなリディを、今は支えるものがあった。
アンドリューのペンダントである。
それが胸にあることを想う度、心の奥が熱くなり勇気が湧いてくる。
別にアンドリューからもらったわけでも何でもないが、それは問題ではなかった。
許されない恋心でも、それは確かにリディを強くしていた。
道中何があるかわからないため、3人は日の高いうちにアドルフォ城を出た。
キール、リディ、そして幹部の中で最も剛腕なパリスという男が護衛についた。
アンテケルエラとの国境には、深い濠がつくられている。
アンテケルエラは長い年月をかけて国境沿いに濠をつくり、他国との出入国に管理の徹底を図っている。プラテアードとアンテケルエラを結ぶ入り口は僅かに一か所。普段は完全に閉鎖されているが、今夜は解放され、キールが軍人から受け取った地図を見張り番に見せることで通れるようにしてあった。
石造りの細い橋を渡る。
これでは、敵が大群で押し寄せることはできない。馬2頭横並びが限界だ。また、大人数で押しかければ、橋が重みに耐えきれず落ちてしまうだろう。
橋の向こうには石を積み上げた壁が聳え、見える限り延々と濠沿いに連なっている。キール達のために鉄の扉が開かれ、3人が通った後はすぐに固く閉じられた。これでは、帰るのもアンテケルエラの許可なしでは不可能ということだ。中立を保っていられる裏には、これだけの武装が必要だという証拠なのかもしれない。
そこから更に1時間以上馬を走らせ、ようやくエシャンプラ城に到着した。
約束より早く着いたため、10時まで3人は城門の外で待たされた。
星が煌々と夜空で瞬く頃、ようやく門が開いた。
そこには、取引の場で前面に居た初老の軍人が待っていた。
「シュゼッタデュヴィリィエ様のみ、お通り下さい。」
リディが前へ進み出ると、馬から降りるよう促された。
リディはキールとパリスを一度だけ振り返り、「大丈夫」と目で合図して、門の奥へと消えて行った。
取引の場にいた軍人は、洞窟で既に見知っていたリディが前に進み出たことに少し驚いたようだったが、すぐに丁重に頭を下げ、先に立って歩き出した。
砂利が敷き詰められた広場を四角く取り囲むように、レンガ色の建物が建っている。壁には多くの窓が規則的に並び、4階建てであることがわかった。こんなに多くの部屋がありながら、明かりのついている部屋は一つもない。しかし、広場の形に添って等間隔に並ぶ石台の上には金のオイルランプが置かれ、すべてに火が入っているため、それなりに明るい。
この建物は以前、プラテアードとの交渉の場に利用したり、アンテケルエラ王家や親しい貴族の別荘として使っていたと軍人は道々話してくれた。しかしプラテアード王家がジェードに全滅させられてからは、ほとんど使われていないと言う。
建物の中は、軍人の持つランプの明かりだけを頼りに進むことになった。
長い廊下をまっすぐ行ったり曲がったり階段を上がったり・・・一人で逃げ帰るのは無理そうだ。
やがて一つの部屋の前で、軍人は止まった。
その部屋には、扉の脇に二人の番兵が待機していた。
軍人が扉をノックし、返事を待たずに開けた。
広場側からは見えなかったが、その部屋にはしっかりと明かりがついていた。
しかも天井から吊るされた豪勢なシャンデリアである。
初めての眩しさに、リディは思わず目を細めた。
「王子。シュゼッタデュヴィリィエ様をお連れ致しました。」
「そうか。」
細めた目を徐々に開いていき、ようやく見えた先に立っている男を見て、リディは唇を引き締めた。王子も、リディの顔を見て一瞬、言葉を無くしたようだった。
が、すぐに命令を出した。
「私が鈴で呼ぶまで、番兵と共に銀の間で待機してろ。」
軍人は「え?」という顔をした。
「銀の間でございますか。しかしあそこは、ここから大分離れておりますが・・。」
「私の言ったことが聞こえなかったのか?」
「・・・はっ。」
扉の閉まる音を聞きながら、リディは改めて王子を凝視した。
深い緑の混ざったような黒髪、少し日に焼けたような淡い小麦色の肌、グレーの瞳。銀糸で刺繍が施された白い上着を身にまとっている。眼光鋭い切れ長の細い目・・・それは、昨日洞窟にいた3人のうち一番若い男だった。そう、エストレマドゥラ王子も常に交渉の場にいたのだ。
王子にとっても、同じ思いだった。度々交渉の場に居合わせた男装の女性が、かの有名なアドルフォの娘で、プラテアードの最高権力者だったとは。
互いを見定めた後、リディはハッとして跪いた。
相手は大国の王子。そして自分は小国の革命家のリーダーにすぎない。
「自己紹介が遅れ、失礼いたしました。私は・・・。」
そこへ、下を向いていたリディの視線の中に、王子の靴が入った。
「頭を上げてくれ。私は、そなたが私より下とも上とも思っていない。」
それを聞いたリディがゆっくりと立ち上がると、王子は右手を差し出した。
「互いに長ったらしい名前を持っているようだから、正式名を名乗るのはやめないか。私は通称でエストレイと呼ばれている。同じように呼んでくれ。」
思ったより親しみやすい相手なのだろうか。
疑いを拭えぬまま、リディは差し出された手を握った。
「私は、リディと呼ばれています。」
握ったエストレイの手は、リディの1.5倍はあろうかという大きく骨ばっていて、冷ややかだった。
エストレイは、部屋の中央に置かれたビロードのソファにリディを招いた。
リディは黒いマントを脱いだ。マントの下は鮮やかな青の正装だった。スタンドカラーの襟元にフレキシ派リーダーの象徴である藍色のスカーフを巻いている。白いタイツに黒のブーツ。それは、今まで話にだけ聞いていた、王国時代のプラテアード軍最高司令官の出で立ちだった。外国の王族や重要人物との交渉の場にのみ用いたという衣装は、「いつか来る日のために」とフレキシ派幹部の妻達が作っておいたものだった。
リディは緊張した面持ちのまま、浅くソファに腰かける。
「酒か、それともブラックティーがいいか。」
「いえ、私は交渉のために参上したので・・。」
「勧められたら一応受けておくものだ。その方が、交渉も滑らかにいくと思わないか?」
「・・・では、ブラックティーを。」
「ふん。男の成りをしていても、口は女なんだな。それとも、敵陣では一切飲み食いするなと言われているのか?」
「私は、ジェードの最高賞金首ですから。」
「そうだな。だが、私はそんなはした金で売り渡すより、今後の利用価値の方が高いことを知っている。ここで殺しても、何の得にもならない。私の言い分に納得したら飲め。」
銀製のポットから、蔦模様の施された白いカップに注がれたブラックティーは、薔薇の香りがした。リディは恐る恐る口を寄せ、少しだけ啜った。初めて口にする、高貴な味。格の違う異国を感じる。
エストレイはリディの向かいに座り、金を溶かしたような色の液体を口にした。
「私は城の中でじっとしているなどという退屈な日常には耐えられない。プラテアードには元々興味もあったし、取引の話も私から立会を申し出た。」
カップに添えた指に力を入れたまま、リディは王子の話に耳を澄ます。
「特に伝説の男、アドルフォ。その噂が耳に入った頃はまだ少年だったが、活躍ぶりを聞く度心が躍った。それほどすごい男がこの世にいるのか・・と。できれば一度会いたいと思っていたが、適わずして亡くなってしまった。」
「私も子ども心に、父は偉大だと常に感じていた記憶があります。」
「多忙だったと推察するが、家庭ではどのような父だったのだ?」
「母がおりませんから、私が不憫にならないようできる限り一緒にいてくれました。私ができるようになるまでは、家事の一切を仕切っていましたし。」
「独立運動の王がか?メイドや乳母を雇わなかったのか?」
「革命家など金はすべて国家のために使ってしまうものです。そのような余裕はありません。国の統率者という意味では国王も革命家リーダーも同じかもしれませんが、内情はまったく違います。」
「なるほど。しかし、剛腕な大男が洗濯を干す姿など想像できないな。」
「私には、家での父が父でした。家を出れば、私の父ではなく国のリーダーです。娘といえど、気軽に話しかけることさえ憚られる・・・そんな偉大さがありました。」
こんな話をさせて、エストレイはリディが本当にアドルフォの娘か確かめているのだろうか。それとも思い出話で、緊張を解きほぐそうとしているのか。
沈黙の間を繋ぐように、リディは再びカップを口に運んだ。一刻も早く話を切り出したいが、頼みごとをする方から申し出るのはやりにくい。
「それで、幼い頃からアドルフォから思想やら帝王学やら叩き込まれてきたのか?」
「武術や学術は父の側近から教えられ、思想や哲学は父から直接・・・。でも、未だに勉強は続いてますし、それに限りはありません。」
「その考えや姿勢には私も同感だ。人間として生を受けた以上、学ぶことが人間らしくある唯一の手段であるし、学ぶことをやめた途端に成長が止まる。一生勉強は必要だし、それは地位に関係ないものだとも思っている。」
「市民に知恵をつけさせることを怖れる権力者が殆どだと聞いて育ちましたが・・。」
「それでは国そのものが成長しない。市民の知恵を怖れる権力者など、所詮上に立つ器ではないのだ。怖れる暇があるなら、更に己を鍛えればよい。」
大人の男だ、とリディは率直に感じた。
この男なら、明日にでも大国アンテケルエラを率いて行けるだろうし、その自信に溢れている。最高権力を手にすることを躊躇っている自分とは、次元が違う。
考えてみれば、権力を手にする立場同士の会話など、今まで誰ともしたことがなかった。アンドリューと少し話したこともあるが、こんなに互いの考えや思想を交し合うことまでは踏み込んでいない。
エストレイは口先だけではなく、非常に博識だった。リディが書物を読んで疑問に思っていたことにも、自分の考えを織り交ぜながら的を射た答えをくれた。
いつの間にか、リディの警戒心や緊張は解けていた。こんなに饒舌だったろうかと思うほどリディは喋り、エストレイもそれに応えた。
「だが・・・。」
話に一区切りついた時、それまで強気だったエストレイが、不意に声を落した。
グラスを持って立ち上がると、窓辺へ歩み寄った。
「国を継ぐというのは個人の問題ではないし、自分だけの力では足りぬこともあるようだ。」
リディは、エストレイの引き締まった背中を、息を凝らして見つめた。
窓から天を見上げるようにして、エストレイは言った。
「この大陸には、因果な掟があるものだ。なぜ額の証が無ければ国を継ぐ資格がないのか。私には、いくら考えてもわからない。」
「額の紋章なくして国を継いだ方は、未だかつていらっしゃらないのですか。」
「継ごうとした者はいたらしい。だが、歴史書によれば間もなく国が亡びたり、継承式の前日に不慮の死を遂げたりと、成功例は一つもない。今、最も跡継ぎ問題に揺れているのがジェードだ。」
「ジェード・・・。」
その国の名を口にした途端、リディの全身に激震が走った。
今、自分はエストレイと何の話をしていた?
額の紋章の話。
古から王族と神使のみの秘密とされてきた裏紋章の話。
リディが口を押えるのと、エストレイが肩越しに振り向いたのは同時だった。
青ざめたリディの表情に、エストレイは不敵な笑みを浮かべた。
奥歯が、ガチガチと音を立てるほど震えている。
エストレイのグレーの瞳が、困惑のリディを捕えた。
「まさかとは思ったが、ここまで狙い通りに堕ちるとはな。」
ゆっくりと歩み寄るエストレイから逃れるように、リディは後ずさった。
「王家の裏紋章のことを知っている理由を、弁解できるか?」
アンドリューと二人だけの秘密だったはずなのに。
アンドリュー以外に、この秘密を死ぬまで明かさないつもりだったのに!
「独立運動の王の娘が、プラテアード王家の末裔だったとは・・!」
「っ・・!」
悔いても、どうにもならない。
エストレイに気を許したのは自分だ。
警戒心を解いてしまったのは自分だ。
唇を噛みしめて理由もなく首を振るリディに、エストレイは容赦なくにじり寄った。