第49話:目くらましの間で
血清の効き目は覿面だった。というより、対処が早かったことが最大の勝因らしい。
リディが再び上半身を起こせるようになったのは、それから数日後のことで、既に南の塔に来てから二週間が経っていた。
痩せて体力も無くなっているリディには、流石に「トウモロコシ粥」ばかり与えるわけにはいかず、フィゲラスは、栄養価の高いものを食べるよう勧めた。リディが遠慮するような素振りを見せると、「あなたを救うために総督やアランさんがどれだけ苦慮されたかわかりますか。恩返しのためにも、一日も早く元気になることを考えてください。」と言って諌めた。
その夜、リディの顔色に薄桃色が戻ってきたのを確認したフィゲラスは、安堵の表情を浮かべた。
「もう大丈夫。あとは体力が戻るのを待つだけですね。」
つられる様にリディが微笑を浮かべると、フィゲラスは「おやすみなさい。」と言って部屋を出た。
全面鏡張り、六角形の目くらましの間には、6つの扉の上部ごとに燭台が設けられている。6枚の扉のうち、1枚は前室、もう1枚は総督室へつながり、あとの4枚はフェイク。鏡と鏡が反射し合い、無数の炎が壁の奥へ連なって見え、まさに「目が眩む部屋」だ。
三歩進んで部屋の中央に立てば、もう、どの扉が本物かわからなくなる。扉はすべて小さな木片を組み合わせたモザイク模様で彩られており、細部に至るまで異なる点は全く無い。
誤った扉の向こうへ一歩踏み出せば、一貫の終わりだと言われていた。
つまり、逃げ道はないのだと。
フィゲラスは、白衣の内側に隠し持っていた小瓶を取り出した。
この液体は、薄めて適量を用いれば痛み止めになるが、そのまま飲み干せば劇薬になる。
リディの命が保障されれば、自分は用無しになり、兼ねての約束通り始末される・・・。
アンドリューに額を撃ちぬかれてもいいが、想像すると悲鳴を上げたくなる。
それよりも先に、自らが選んだ薬で死んだ方が楽そうだ。
口では色々言っていても、アンドリューの根は優しい人だとわかった。リディの正体は結局のところわからなかったが、相当身分の高い女性なのだろう。そしてそれは、絶対に知られてはならない秘密だったのだ。それを知ってしまった庶民は始末されても仕方ない。だが、アンドリューが自分を手にかければそれなりに苦しむだろう。なぜなら、「始末する」という言葉を口にするたび、アンドリューは眉間に皺を寄せていた。悲しそうな光を、瞳に宿らせていた。
(仕方ない、ですね。)
フィゲラスは、ゆっくりと瓶のコルクを抜いた。
床に跪き、唇にガラスの口を当てる。
そして ――――
バンッ
突然、扉が開いた。
フィゲラスは驚き、思わず振り返った。
そこにはリディが立っていた。
体力が万全ではないリディは、ドア枠に手をつきながら、フィゲラスを食い入るように見ている。
「先生、何をしているんです・・・?」
フィゲラスは、リディから視線を外した。
「何でもありませんよ、早くベッドへ戻ってください。」
「嘘・・!」
フィゲラスがリディを一人置いて部屋を出ていくなんて、今までなかったことだった。
アランが訪ねてきて一旦部屋を出ても、すぐ戻ってきた。
だが、今日は様子が違っていたし、フィゲラスの頬に影が見える気がしてならなかった。
リディは胸騒ぎを押さえられず、扉を開けたのだった。
これ以上リディに構っていたら、決意が鈍ってしまう。そう考えたフィゲラスは、再び瓶の口を唇に運んだ。
「駄目!!」
リディは、フィゲラスの背中に体当たりするように倒れ込んだ。
その拍子に、瓶がフィゲラスの手から零れ落ちた。
リディは、フィゲラスの前に回り込み、肩を掴んだ。
「一体、どういうことなんです?説明してください。」
リディの瞳に蝋燭の火が映りこみ、煌々と輝いて見える。
フィゲラスは、どうせ自決しなくてもアンドリューに殺されることになるのだから、と思って重い口を開いた。
「あなたを助け終えたら、私の命が終わるという約束なのです。」
「約束?そんな約束、誰が決めたのですか?」
「総督と、私で決めたことです。」
「・・・アンドリューが?」
「ええ。ですから、私の事は放っておいてください。」
「放っておけるわけないでしょう!?どういうことなのか、私が理解できるように話してください。どうしてアンドリューは、先生の命を終わらせようとするんです?」
「多分・・・あなたは、総督が助けてはいけない立場の人だからではないでしょうか。」
リディは一瞬口を噤み、しかし再び開いた。
「でも、殺してまで口封じする必要などないはずです。」
「それだけではない!」
突如、目くらましの間に三人目の声が響いた。
前室にいたアンドリューが、扉の向こうで二人の会話を聞きつけたのである。
アンドリューは扉を開けず、大声を張り上げた。
「フィゲラスは満月の晩、俺達の額を見てしまった。それだけでも、口封じの理由になる!」
久々に聞いたアンドリューの声は、昔と少しも変わっていなかった。
リディは苦しくなる胸を押さえながら、抗いの訴えを起こした。
「先生がこの秘密を一生胸に秘めて生きていけるのなら、始末する必要などないはずです!」
「俺はお前を殺さなければならない立場にある。総督が敵を助けたなどと知れたらどうなるか、わかるだろう!?」
リディは、アンドリューに思いの丈をぶつけた。
「アンドリュー。私は、敵であるあなたを助けたジロルドを殺そうと思ったことは一度もない!ジロルドを信じているから。もちろん、同じようにキールも。だからあなたも、フィゲラスを信じてあげて!」
「無理だ!リディにとってジロルド医師やキールは長年の腹心ではないか。だが、フィゲラスは違う。」
「先生は、医師としての使命を全うしただけです。しかも、あなたとの約束を果たすために自ら命を絶とうとして・・・!こんなに誠実な人を、なぜ信じられないのです!?」
「俺は、誰も信じない。長年連れ添ったアランや、レオンでさえもだ。いつ亡き者にされるかわからない毎日で、何を信じろという!?」
リディは、アンドリューがそんなにも孤独だとは思ってもみなかった。レオンやアラン、エンバハダハウスの住人だった腹心達に囲まれ、固い絆で結ばれていると思っていた。だが、実は違ったのか。これが、革命家として仲間と共に歩むものと、国王として君臨する者との決定的な違いなのか。
リディは、顔を上げて叫んだ。
「では、私がフィゲラスを貰い受けます!」
「!?」
「私がアドルフォ城へ戻るときに、フィゲラスも一緒に連れて行きます。それなら、アンドリューが私を匿ったことがジェード内に漏れる心配はなくなるでしょう?」
「そんなことをしても、フィゲラスが口を割ればプラテアードからジェードに伝わるのも時間の問題だ。フィゲラスは、最初から命が無くなるのを承知してお前を治療した。すべては、覚悟の上でのことなのだ!」
二人のやりとりを息詰まる思いで聞いていたフィゲラスは、目の前のリディを悲壮な眼差しで見つめた。
「・・・もう、やめてください。」
「え?」
「あなたの気持ちは有難く思います。でも、やはり私は知り過ぎてしまったようです。あなたと総督の額の輝きを目にした時から、私のような凡人が関わってはいけない次元の話なのだと覚悟を決めておりました。」
「先生・・・。」
小瓶の中身はすべて床に消えてしまった。
フィゲラスは意を決し、リディを突き放すと、一つの扉に向かって走り出した。
扉を開け、そのまま闇の向こうへ飛び込んでいく。
「!!」
カツーーー・・・ン
フィゲラスが視線を上げると、そこには自分の腕一本を必死に掴んでいるリディの、厳しい表情が見えた。
扉の向こうは、塔の底へ繋がる空洞になっていた。
穴に堕ちたフィゲラスを、リディが必死に繋ぎとめている。
片方の靴が落ちた反響音で、どれくらい深い底なのか想像できた。
リディは片手で穴の淵を掴み、もう一方の手でフィゲラスの腕を掴む。その腕に、フィゲラスはハッとなった。この腕は、傷を負った方ではないか!
大人の男一人の重さが、リディの腕の皮と肉を引っ張る。
「・・っ、」
引き千切られるような痛みに、歯を食いしばるリディの目尻に涙が浮かぶ。
フィゲラスは、叫んだ。
「放しなさい!このままでは傷口がまた開いてしまう!」
そんな言葉に逆らうように、腕を掴むリディの力が更に強まった。
だが、病み上がりで立つのもやっとの状態のリディの体力は落ちている。
ずるっ
リディの身体が、わずかだが穴の中へと引きずられた。
今のリディが、フィゲラスの身体を穴の外へ引っ張り上げられるわけがない。
このままでは、二人とも穴の中へ堕ちてしまう。
フィゲラスは、力いっぱい全身を揺すった。
それでも、リディは必至で腕を掴んだままだ。
ずっ
リディの両肩が、穴の淵から下へと外れる。
フィゲラスは、再び叫んだ。
「私を放しなさい!このままでは、あなたまで穴に堕ちてしまう!そしたら、私が何のために死ぬのかわからない!あなたを助けた意味もなくなってしまう!」
しかし、その言葉に返事をする余裕はリディにはなかった。それに、口など開いたら踏ん張っている力に緩みが生ずる。
リディは、自分のために誰かが死ぬのが耐えられなかった。多くの犠牲の上にでも成り立たねばならない命だと、言われている。しかし、今、目の前でこんな状況を許すことはできない。こんな思いをするのは、バッツの時だけで十分だ。
フィゲラスが縫ってくれた傷口が開いたのが、わかった。
しかし、その痛みに耐えかねてフィゲラスを放したら、自分を一生呪うだろう。
それがわかっていながら、どうしてこの手を放せるだろう!?
フィゲラスは、これ以上どうすればいいかわからなかった。
リディの体力が尽きて、手放されるか。
それとも、リディの身体が自分の重みに耐えかねて一緒に堕ちるか。
首が重くて、もう、上を見上げることさえできない。
リディの方も、だんだん腕が痺れてくる。
手のひらに滲む汗が、掴む力を弱らせる。
駄目かもしれない。
流石のリディにも、そんな弱気が脳裏をかすめた。
と、その時。
リディは突然、隣に体温を感じた。
独りで掴んでいた腕に、もう一本の腕が差しのべられる。
肘まで捲ったシャツ。
引き締まった腕。
隣を見ることができなかったが、それが誰のものか確かめる必要はない。
救いの手。すがり付きたいくらい、愛おしい手。
アンドリューは、フィゲラスの腕をしっかりと捕まえた。
「リディ、お前は手を放しても大丈夫だ。代わりに俺の腰を押さえてくれ。」
リディは穴から身体を起こすと、俯せになっているアンドリューの背中から腰に抱きついた。フィゲラスの重さに負けない様、力いっぱい体重をかける。
アンドリューはやがて、フィゲラスの腕から肩を掴み、両肩を穴の淵に乗せるまで至った。
そこからは片腕をアンドリュー、もう片方をリディが取り、フィゲラスを穴の外へと引き上げた。
三人の荒い息が、部屋の中に響き渡る。
リディの力は、そこが限界だった。
フィゲラスと、そして7年ぶりのアンドリューの姿を目にして安心したリディは、ゆっくりと瞳を閉じて倒れた。
アンドリューは息を弾ませてはいたが、リディの軽い身体を抱き上げるぐらい、わけはなかった。
総督室の扉を開け、アンドリューは肩越しにフィゲラスを振り返った。
「リディの腕の手当をしてくれ。また、そなたの力が必要になってしまった。」
しかし、腰が抜けて立つことができない。
引っ張られた腕が痺れているが、それ以上に脳が麻痺して動かない。
フィゲラスはただ、床に触れた揺るぎない手触りから、「生かされた」ということだけを実感していた。