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第48話:ヒースの花

 キールから10人分の血清を提供してくれるという返事を受けるや否や、アンドリューは表へ飛び出した。

 手元の懐中時計は朝の5時半を示している。

 あと30分もすれば、総督府内が目覚める。その前に、出て行かねばならない。

 たった一つ降ろされた吊り橋を渡り、アンドリューは警備兵に告げた。

「領地を一回りしてくる。昼前には帰るつもりだ。」

 兵士は敬礼しながら「総督お一人で行かれるのですか。」と尋ねた。

「・・いや、すでに夜から森の中を偵察している者が二人いる。彼らと合流する。」

 適当な嘘が、自然と口をついて出た。本能がそうさせたとしか、いえない。

「さようでございますか。では、お気をつけて。」

 アンドリューは兵士を見ずに軽く頷くと、すぐに馬を走らせた。

 森の小道を、薄青い霧が覆っている。

 奥へ進むほど、木々と土の焼けた臭いが鼻をついた。

 たった一晩の戦いであっても、傷跡は深く、後々まで引きずることになるのだ。

 手綱を握る手に力を込め、アンドリューは身を低くして更に加速をつけた。

 

 待ち合わせの場所は、広々とした荒野の真ん中だった。

 地平線さえ臨めそうな広大な地には、ヒースと呼ばれる薄紫の小さな花の低木が果てしなく広がっている。

 くすんだ灰色の蒼空には、太陽も白い雲も見えない。

 吹きすさぶ風が、アンドリューの髪を無造作にかき分ける。

 必死で走ってきたせいか、冷たい風が首筋を通り過ぎていくのが心地いい。

 

 ほどなく、彼方に小さな人影が見えた。

 影は黒一色から段々と色彩を明確にし、やがて金色の長い髪が宙を舞うのが見えた。

 アンドリューは、キールの姿形を見たことがない。容貌を話で聞いていただけだ。

 金髪を首の後ろで束ねた男は、互いの顔を確認できるギリギリのラインで馬を止めた。

 顎のとがった、細面の端正な顔立ち。瞼と頬が少し落ち窪んだところが、年齢を感じさせる。だが、それよりも、この顔・・・見覚えがある。

 (そうだ、あの写真・・・!)

 マリティムが見せくれた「アドルフォの娘に違いない」という女性の写真!

 鼻筋の通った切れ長の目、シャープな顎のライン。まばゆいブロンドのウェーブがかった髪・・・。

 キールには妹がいるとも聞いていた。そうだ、あの女性は、キールの妹でリディの側近だったのだ。

 アンドリューは今、ここに現れた男性がキールであることを確信した。

 一方のキールは、エンバハダハウスで監視していた時にアンドリューを目にしていた。が、ここに来た青年は、記憶の中の髪の色と違う。それで疑いを持ち、少し距離を置いて立ち止まったのだ。

 そんなキールの疑いを察したように、アンドリューはおもむろにカツラを外した。

 はらりと額と肩にかかる、プラチナブロンド。

 薄い青紫の影と銀の光のコントラストが、只ならぬオーラを放つ。

 長い前髪から覗く、蒼い、冷たい眼差しは、少年の頃と変わらない。ただ、あの頃より首から肩、そして腰にかけてのラインが精悍になった。

 キールは、アンドリューに応えるように前へ進んだ。

 馬を合い違えて、二人は馬上で顔を合わせた。

 しばらく互いの瞳の中をじっと見つめ合い、真実を探ろうと息を凝らした。

 やがて口火を切ったのは、アンドリューの方だった。

「ジロルド先生は、お元気ですか。」

「足腰弱くなったと言っていますが、現役です。アンドリュー殿の事をバッツそのものだと懐かしんでおられました。」

 それが、二人が互いの身分を確認し合うための会話だった。

「先を急ぎます。約束の品を。」

 差し出されたアンドリューの手のひらを一瞥し、キールは言った。

「リディ様の命と引き換えという約束ではないのですか。」

 アンドリューの蒼い瞳が、少し陰った。

「今はまだ、お返しできないのです。」

「・・・どういう事です?我々を騙したのですか?」

「いいえ。リディは昨夜、破傷風を発症しました。この血清は、リディと、それから府内の感染者のために使うためのものです。」

 キールの表情が、一気に強張った。破傷風の致死率は承知している。血清がなければ、死は免れない。

「ジェードの総督府に、血清が無いとは思えませんが。」

「すべて使い切ってしまったのです。本国に要請しても、2週間待ちで間に合わない。そこで、リディの命がかかっているとなれば敵であっても応じてもらえるのではと、電報を打ちました。」

「・・・この血清を本当にリディ様に使って下さるという保証は?それに、リディ様がまだ無事だという証拠は?それが無ければ、こんなに不利な取引には応じられない。」

「ここで頂けなければ、リディは確実に死にます。一刻も早い対処が有効だと医者に言われ、藁にもすがる思いで敵であるあなたに救いを求めた。このことを知っているのは、府内には誰もいない。こんなことが仲間に知れたら、私は総督という立場であっても、ただでは済まされないでしょう。そこまでのリスクを負ってまでの行動だということを、理解していただきたいのです。」

「我々にとって、リディ様はプラテアードの宝です。この血清も、ジロルド様がアンドリュー様のためにと惜しみなく提供されましたが、これでプラテアードの破傷風血清はゼロです。これで両方とも失うことになったら・・・」

 キールの言葉が終わらぬうちに、アンドリューは徐に、首からペンダントを外した。

 楕円形に形成された薔薇翡翠の上に、古代文字と模様が彫られたこのペンダントは、かつてフィリグラーナに馬を借りる代償として渡したこともある。総督という地位にあっても、王子であっても、アンドリューが個人で自由にできる資産は今も昔もこれだけだった。かつての銀の鎖は黒ずみやすい上、千切れる可能性も高いことから、数年前に革紐に変えた。

 アンドリューは、革紐を掴んでキールの前に差し出した。

「このペンダントは俺がジェードの王子であるという唯一の証です。俺の命の恩人であるバッツ殿とジロルド先生が最も懇意にしているあなたを、俺は信じます。あなたにも俺を信じてもらうために、これを託します。」

「・・・・。」

「ですから、早く血清を。」

 キールは、躊躇いを隠せない。

 アンドリューは、逸る気持ちを懸命に抑えながらキールの返事を待った。

 結局、リディを人質にとられているような状況のキールは、頷くしかなかった。

 血清の入ったブリキの箱とペンダントが、同時に交換された。

「感謝します。ジロルド先生にも、よろしくお伝え願いたい。」

 言い終わるや否や、アンドリューは馬の手綱を操り、方向転換をしていた。

 キールは慌てて、引き留めるように声をかけた。

「必ず・・・!リディ様を、必ず助けてくださいますね?」

 アンドリューは、肩越しに振り向いた。

「そのつもりです。」

「リディ様に万一のことがあれば、あなたの命を頂く・・!!」

 キールの射るような眼差しを横顔で受け止め、アンドリューは馬の脇腹を強く蹴った。

 ヒースの小さな花を蹴散らして、瞬く間に小さくなっていくアンドリューを見送りながら、キールは改めて手の中のペンダントを見つめた。

 宝石に縁のない生活を送っているキールでも、その価値の重さが見て取れる。彫られた模様には金箔が貼られ、縁取りには見たこともない赤い石が埋め込まれていた。

(これで、信じるしかないのか。)

 唸るような強い風に長い髪を乱れさせながら、キールはペンダントをギュッと握りしめた。



 第四総督府の門を潜り抜けたアンドリューを待ち受けていたのは、厳しい表情のレオンだった。

 腕組みをして石壁にもたれていたが、アンドリューの姿を見るなり行く手を遮るように通りの中央に立ちはだかった。

 手綱を強く引き、アンドリューは馬上からレオンを見下ろした。

「急いでいるんだ。どいてくれ。」

「供を二人連れていくと言っていたそうだが、そいつらはどこにいるんだ?」

「・・・。」

 流石にレオンに対しては、正面切って嘘が出てこない。

 レオンは、眉間に深い皺を寄せて怒鳴った。

「俺達側近に隠し事か!?アランと二人でコソコソと!」

「・・・っ、」

 歯を噛みしめて、言葉を堪える。何を言っても、言い訳にさえならない。かといって、リディのことは噫にも出してはいけない。

 アンドリューは、レオンを無視する形で広場を駆け抜けた。

 もう少しだ。

 あと少しすれば、秘密から解放される。

 

 南の塔の階段を脱兎のごとく上り詰め、アンドリューはフィゲラスの待つ部屋へ飛び込もうとしたが、貼り紙に気付いて押し留まった。

 『立ち入り禁止。用事がある時は強くノックすること。』

 何のつもりかと疑問を感じながらも、アンドリューは言われたままに強くノックをした。

 待つ間もなく、フィゲラスが扉を開けた。

 アンドリューは息を弾ませながら、ブリキの箱を差し出した。

「立ち入り禁止とはどういうことだ?」

「これ以上、外からの菌を持ち込ませないためです。ここは人の往来から離れているで大丈夫だと思って油断していました。この部屋に入るのなら、私の言うとおりの消毒と・・・。」

「ああ、もういい。俺は入る必要はないからな。それより、早く中を見てくれ。」

 フィゲラスはすぐに中身を確認した。

「よく、これだけの数を調達されましたね。」

「悪いが、質の程は保障できない。」

「きちんとした医師の指導の下で作られた物でしょうね。」

「それは、大丈夫だと思うが・・・。」

 正直、中身が本物の血清かどうかアンドリューにはわからない。

 リディが破傷風であることを告げたのに、キールが偽物をよこすとは思わないが。

 フィゲラスは小瓶一つを取り出すと、後はアンドリューに返した。

「病院へ届けてくださいますか。あちらも、切羽詰まっているはずですから。」

「・・・これで、リディは救われるのか。」

「救ってみせますよ。これが私の生きている最後の証なのですからね。」

 

 病院へ血清を届け、アンドリューはまたすぐに南の塔へ戻った。

 前室では、アランがミントの葉を煮出したお茶を入れて待っていた。

「アンドリュー様がいらっしゃらないことに気づかれてから、大騒ぎでしたよ。」

「・・・どうして気づかれた?」

「朝7時頃でしたか。アンドリュー様を訪ねてレオンが来たのです。正直に言わないと、リディのいる部屋まで押しかけ兼ねない勢いで・・・。すみません。」

「そうか・・・。」

 アンドリューは椅子に腰かけ、アランからお茶のカップを受け取った。

 清々しい香りの中にかすかな苦みがあり、神経が休まる感じがした。

 アランは、相当レオンから責められていた。

 アンドリューを一人で府外へ出さないように見張っていろとか、何を隠しているのか言えとか、詰問を受けていた。それに耐え、交わしながら、アランはアンドリューがリディのために動いていることに喜びを感じていた。

 朝、食事を運んだ時、フィゲラスからリディの容体を聞いた。そして、血清がないことも、アンドリューが手に入れてくると言って出て行ったことも聞いた。

 リディとアンドリューを守るためなら、どんな秘密も隠し通す。

 アランは、アンドリューと同じくらいリディも好きだった。

 エンバハダハウスで、リディはいつも優しかった。今回も、意識を戻したリディは変わらず優しかった。青白いやつれた顔で、アランの足の事や身体ばかり気遣っていた。

 アランは、意識を取り戻したリディに聞いていた。

 ―― なぜ、捕らわれていた僕を助けてくれたんですか ――

 するとリディは、少し苦笑して答えた。

 ―― あのままだと、殺されてしまいそうだったから ――

 ―― でも、僕はリディ達の敵ですよ? ――

 ―― それは・・・きっと今、アランが敵である私に優しくしてくれるのと同じ理由じゃないかな ――

 ほんの少し微笑んだようにも、泣くのを堪えているようにも見えて、アランはそれ以上何も言えなかった・・・

 そんなことを思い出しながら、ぼんやりと部屋の中を眺めていたアランは、ふと壁に掛けられたアンドリューのマントに目を止めた。黒い布の折り重なったはざまに、薄紫色の花が覗いている。

 アランの視線に気づいたアンドリューは、アランが何か言う前に、2~3本の花束を差し出した。小さな薄紫の花が寄せ集まって、野草と蜜の入り混じった香りを放っている。アンドリューと花束という思いもよらない組み合わせにアランが戸惑っていると、アンドリューはぶっきら棒に言った。

「ヒースの花だ。これでお茶を入れてフィゲラスに飲ませてやってくれ。栄養価があると聞いている。」

「・・・リディには?」

「あいつは、まだそれどころじゃないだろう。」

 アランが花束を受け取ると、アンドリューは独り言のように呟いた。

「ヒースが咲くような、耕してもどうにもならない土地がプラテアード国土の半分を占めているんだ。国力を蓄えるのも容易いことではない・・・な。」

 それが、誰の事を、誰に対して言っているのかアランには全くわからなかった。

 ただ、腕組みをして宙を睨みつけているアンドリューの瞳の奥に何が映っているのか・・・それだけが知りたかった。

 ミントティーを飲み終えたアンドリューは、再び立ち上がった。

「どちらへ?」

 アランの問いかけに、アンドリューはシャツの襟を整えながら答えた。

「少し休んだからな。レオンのところへ行って、それからもう一度病院へ行って血清の効果の程を聞いてくる。」

「レオンのところへ?また、何か聞かれますよ?」

「これ以上レオンとの関係を悪くしたくない。話せることは話してくる。」

「単独で総督府から出たこと、すごく怒ってましたよ?」

「じゃあ、怒られてくる。」

 気軽な返事で出て行ってしまったアンドリューに、アランは少し不満を感じた。

 いくら血清を手に入れたからといって、リディがどうなるか行く末を見守るつもりはないのか。それとも、フィゲラスを全面的に信じているのか。

(アンドリュー様は、今でもまだ、本当にあのお医者様を殺すおつもりなんだろうか・・。)


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