第43話:医師、フィゲラス
遠くの空が朱いのは、森が燃えているからだ。
夜が深まるほど風が強くなり、火災が納まる気配はない。
ジェード側の兵士の半数は、プラテアードの民衆を火中へと追い込み、逃げ帰るか焼け死ぬかの選択を迫った。そして残りは一般人と共に木を切り倒し、必要以上の延焼食い止めに必死だった。森の木々は貴重な資材となるだけでなく、食料となる鳥獣の住処でもあり、実のなる草木も多い。この森と広い湖という立地から総督府を置き、プラテアード国民の立ち入りを事実上禁じていたジェードにとって、この損失は大きすぎる。
結局、ウエルパ将軍率いる小隊だけが、カタラン派派首ノキア率いる騎馬隊との対決に臨むことになった。
ノキアの騎馬隊は捨て駒の歩兵を大量に用意し、ウエルパ将軍たちとの距離を保ちながら銃を撃ってきた。
歩兵を槍で突き、矢を剣で避け、人波を馬の蹄で蹴散らすが、数の上では、確実にノキア達の方が上だった。
武器の量も、戦いの腕もウエルパ達の方が格段に上だというのに、死に物狂いの民衆が束になってかかってくれば苦しい立場に追い込まれる。
その戦況が伝令役の兵士によって府内の作戦本部の耳に入ったのは、アンドリューが城へ戻ろうとしていた、まさにその時だった。
「援軍を!回せるだけの戦力が必要です!数だけの問題ですから、直ちにご決断を!」
アンドリューは、参謀として唯一人残っていた准将に尋ねた。
「最小限の警備兵だけ残して、あと何人出せるか。」
「私の小隊、50名が控えております。これが限界です。」
「よし。すぐに向かってくれ。」
「しかし、これで本当に府内の戦力はゼロになってしまいます。」
「騎馬隊を追い払えれば、こちらの心配はなくなる。案じなくてよい。」
准将は、難色を隠せなかった。
「この大事に、本部は総督お一人になってしまうなど・・・。」
アンドリューは、その不安を払拭するように立ち上がった。
「構わん。優先すべきは明らかではないか。俺は自分の身の守り方ぐらい心得ている。早く行け。」
准将は口髭の奥で不安を濁しながらも、頭を垂れた。
「・・では、行ってまいります。」
「ああ、頼む。」
小隊が森の中へ消えるのを見届けたアンドリューは、改めて本部のある石畳の広場を見渡した。
すると、広場に面した建物の一つに、怪我人が運ばれていくのが見えた。
軍人ではないことが、服装からわかる。
アンドリューは気になって、後を追って建物の中へ入った。
足を踏み入れた途端、強い消毒液の臭いが鼻をつく。
戦禍では元々ある病院が手狭になるため、緊急にこの広い建物を怪我人の収容に用いているのだろう。
広い玄関ホールから続く長い廊下。
その両脇にいくつも扉があり、その一つから白衣の若い男が出てきた。
医師であるフィゲラスは、廊下に立っているアンドリューに気づき、慌てて寄ってきた。
「これは総督。どうかなさいましたか。」
「今、民間人が運ばれてきたようだが。」
「ええ。軍人は多少の傷では戻ってなどきませんし、医務班が現地に行ってますから。ここに運ばれてくるのは現場で手におえない重症者です。民間人で木を切り倒しに行って火傷を負ったものが多いですね。後は、毒矢を受けた軍人が十数名収容されています。」
アンドリューは、ハッとした。
そうだ。
慌てて懐中時計を見ようと胸元に手を入れようとした。
(・・・?)
どうしたのだろう。
左手が動かない。
さっきまで何事もなかったというのに。
まるで、身体の一部だけ自分から切り離されているかのようだ。
見ると、左の指先が僅かに震えている。
気のせいだろう。
そう思って右手で時計を取り出した。
銀の針は、次の注射の時間を過ぎていることを示している。
アンドリューは慌てて踵を返した。
と、その時。
「お待ちください、総督。」
アンドリューは突然、医師に左腕を掴まれた。
「?」
フィゲラスはそのまま人気のない小部屋にアンドリューを連れ込み、強引に椅子に座らせた。
思いがけないことに口もきけないでいると、フィゲラスはアンドリューの左手の甲をつねった。
「どうですか?痛みを感じますか。」
薄い皮に皺が波打つ様は、見た目には痛い。しかし、神経は何も反応しない。
フィゲラスは顔色を変え、片膝を床について、アンドリューを見上げた。
「お聞きします。数時間前、総督のいつも傍におられる足の不自由な青年が、病院に毒と血のついた矢をお持ちになりましたが、ご存知でしたか。」
なんと言えばいいのか。何をどう、答えられるのか。
否定しないのは、肯定の証拠だ。
フィゲラスの質問は続く。
「怪我人が出たと伺いました。あの矢で怪我したのは、まさか総督のことでは・・・!?」
「違う!」
アンドリューは彼の手を振り払い、立ち上がった。
「俺は怪我などしていない。・・・放っておいてくれ。」
「駄目です!」
フィゲラスも続いて立ち上がった。
「駄目です。・・・総督は、間違いなく毒に侵されています。」
「そんなはずはない。」
「左手の感覚が麻痺しておられる、それが証拠です。しかし、幸いに軽症です。すぐに投薬すれば問題はありません。」
「・・・。」
詰問は止まらない。
「もう一つお聞きします。あの矢で怪我をした人は、どこですか。」
「そんな者は、知らない。」
「総督の症状は、あの毒の成分の一つだと推察します。本当に怪我をしていないのですか?」
「当り前だ!俺はこうして立っているし、熱も出ていない。見ればわかるだろう!?」
それを聞き、フィゲラスは静かに頷いた。
「そうですね。わかりました。総督が、怪我人と接触したことが。」
アンドリューは、唇を薄く噛んだ。
やけになっていて、何を口走ったか余り覚えていない。だが、何か言ってしまったのだろう。
「とにかく今、薬をお持ちしますから待っていてください。」
「そんな必要はない!」
少し青みを帯びた唇を震わせているアンドリューを、フィゲラスは凝視した。
「では、はっきり言いましょう。あと半日もすれば、手だけでなく、総督の左全身は完全に麻痺して動かなくなります。どういうことかわかりますか?血の巡りが悪くなれば、心臓も止まるということです。」
「・・・!」
そんなに、強い毒だったのか。
軽症だと言われたアンドリューが半日なら、明らかに重症のリディはどうなるのか。言われたとおりに注射していても、全然良くなる気配も見えなかったリディは?
「わかりましたね。すぐ戻りますから。」
フィゲラスが部屋から出ていくのを見送ると、アンドリューは自分の左手を今一度自分でつねってみた。
気のせいではないことが、現実味を帯びてくる。
フィゲラスはほどなく戻り、アンドリューの背中に注射をした。
背中への注射など経験がなかったアンドリューは、戸惑いを隠せなかった。
「背中でないと、効き目がないのか?」
「いいえ。ただ、効果が高いので。」
だから、腕に注射したリディの効き目が悪いのだろうか。
フィゲラスは大きなカバンを持ってきており、それを肩に担いだ。
「すぐに私を、怪我人の所へ連れて行ってください。」
アンドリューは、首を振った。
「言っただろう。そんな者はいない。」
「事情があるのはご推察します。足の不自由な青年が一人で使いに来たのを見て、よほどのことだろうとは思いました。彼は一切、我々の質問には答えてくれませんでしたし、深追いすることは控えました。しかし、」
「ならば!・・・それだけわかっているなら、放っておいてくれないか。」
言葉の語尾が、苦しげにかすれる。
アンドリューは、再びその場から立ち去ろうと背を向けた。
フィゲラスは、叫んだ。
「助けたくないんですか!?」
「・・・!」
「差し上げた薬を注射されてますよね。あの時はまだ主成分の割り出ししかできていませんでしたから十分ではありません。しかし、今は違います。私に治療をさせてください!」
「患者はここにもいるではないか!?これから更に増えるんだ。たった一人にかまっていられないだろう。」
「死にますよ?日の出の前に、確実に!」
アンドリューは眉間に皺を寄せ、動く右手で拳を握った。
わからない。
リディを助けたいのか、助けたくないのか。
今は、アランがどうこうという問題ではなく、純粋にアンドリュー自身の葛藤だった。
恩義とか、そういうものを総て取り去り、どうしたいのか。
口にしてしまえば、踏ん切りがつくのか。
アンドリューは、俯いたまま言った。
「かまわない。・・・これで死ぬなら、それまでの運命だということだ。」
それに対するフィゲラスの答えは、静かで、冴えていた。
「それは、本心ではないでしょう?」
「何?」
振り向いたアンドリューの目を、フィゲラスは緑の瞳でとらえた。
揺るぎない自信。
それが、アンドリューには不思議でならない。
「どういう意味だ?」
「怪我をしていない総督が、なぜ毒に侵されているのか考えていました。傷から毒が入っていないなら、口から入るしかない。怪我人の傷口の血を吸いだしましたね?」
「・・・!」
「矢に毒が塗ってあったことに気づいていながら、その血を口に含むことがどれだけ危険か知らなかったとは思えません。唾液と共に吐き出せば安全というものではないし、口を酒で濯げばいいというものでもない。もし総督があのまま城に引きこもったままだったら、手遅れになったかもしれないんです。それだけの危険を冒していて、死んでもいいなんてありえません。」
こんなに激昂するのは、多分図星をついているから。
だが、それを認めることができない。
アンドリューの血の騒ぎと、フィゲラスの冷静さが対峙し、空気が張りつめる。
「総督が本部に出ていらっしゃらなかった理由も、これで合点がいきます。総督が全面で指揮をしないことに対し、兵士の士気が上がらないと文句を言う者も多かったのですよ。それこそ総督としての力量を問われる大事なのに、それをおしてでも看病されてたわけですよね。その役目を、これからは私が引き受けます。そうすれば、総督は指揮に専念できます。」
アンドリューの口は、まだ強張ったまま動かない。
「総督の御身体も、まだ万全ではないのです。その左手も、あと半日以上経たねば完全に動くようにはなりません。注射器に薬を入れるのも、困難だと思いますよ。」
「何も・・・。」
「え?」
「何も知らぬ分際で、勝手なことを言うな!」
「総督・・・。」
「『事情』などという言葉で片付かぬ問題もあるのだ!そなたは、自分の命と引き換えにしてでもその怪我人を救う覚悟があるのか?」
「もちろんです。医師になる時、自分の身体より患者を優先させる誓いをたてています!」
「治療が終わったら、俺はそなたの首を刎ねなければならない!それほどの『事情』でも、治療したいか!?」
一瞬、フィゲラスの顔色が変わった。
が、すぐに睫毛を伏せ、きっぱりと言い切った。
「怪我人が目の前にいる以上、救うのが医師の使命です。その後のことは、総督の意のままに従いましょう。」
「・・・怪我人が助かろうと助かるまいと、そなたの命はないのだぞ・・・。」
「結構です。私を、お使いください。」
「後悔するぞ。俺は、命乞いなど聞かぬ男だ。」
フィゲラスは少し哀しげに、薄く薄く笑ってみせた。
「もし私が往生際悪く見苦しい姿を曝したならば、一思いに額を撃ちぬいて下さい。」
「・・いいだろう。」
医師の覚悟というものが、アンドリューには理解できない。
だが、確かな意志を持って前だけを見据えたフィゲラスには、時の行方を委ねる価値があるように思えた。
いや。
これは、いつまでも決断できないでいたアンドリューに与えられた、最後の頼みの綱だったのかもしれない。