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第33話:兄と弟

ここから第2部になります

 激しい嵐の晩だった。

 乾いた地を叩きつける雨音に混ざって、稲妻が光の矢となって闇を貫く。

 猫一匹彷徨う気配もない街外れ。

 泥水を蹴散らすようにして、一頭の馬車が古い屋敷の前で止まった。

 馬のいななきと共に、一人の男が馬車から降りた。

 褪せた緑色のフード付きマントを風にはためかせ、男は門の壊れた入り口に立った。

 外観は廃墟のような、石とレンガの貴族の館。だが、ここは確かに尋ね人の住処だ。

 一向に静まる気配を見せない風から身を守るように、男はマントをきつく肩に巻きつけた。

 乾いた土色のファサードをくぐり、草木の無い中庭を通り抜け、回廊に辿り着く。

 全身から滴る雨水をものともせず、男は回廊を北へと突き進んだ。

 凄まじい爆音と共に、一瞬、雷が辺りを明るく照らした。

 男の白い引き締まった頬を金色に染め、空は再び深い闇に包まれた。

 ブーツの踵が鳴らす、足早な響き。

 それは、複雑な廊下の突き当たりまでよどみなく続いた。

 少しも下っている感じはしなかったというのに、いつの間にか地下室の入り口にたどり着いていた。

 男はそこで、はじめてマントを脱いだ。

「お待ちしておりました。」

 蝋燭のかすかな明かりに照らされた青年は、男の前で跪いた。

 男は青年に、濡れたままのマントを手渡した。

「人払いは、済んでおるな。」

「はい、手はずどおりに。」

「では、お前も下がっていろ。万に一つでも私たちの会話を聞いたならば、その命、無い。」

「心得ております。」

 青年は、部屋の入り口の扉を静かに開いた。

「私は少し離れた場所でお待ちしております。何かございましたら、お声をかけてください。」

 青年が膝を立て、立ち上がろうとした瞬間、男は彼に手を差し出した。

 青年は、慌てて身を引いた。

「恐れ多いことです。どうぞ、私にお気遣いなどなさらないでください。」

「遠慮することはない、アランフェス。杖なしでは歩けないお前に手を貸すのは、当然のことだ。」

「しかし、国王となられるお方に、それは・・・。」

「アンドリューとは、兄弟のように接しているのだろう?ならば私も、そう差はないではないか。」

 マリティムは笑ってアランの腕をつかみ、立つのを手伝った。

「・・・15分で話を済ます。待っていろ。」

「はい。」

 扉の向こうへ消えていくマリティムの背を見届けながら、アランは

(こんなことが、昔にもあった。)

 と、7年前のことを思い出していた。

 

 プラテアードの独立運動家だというリディが、アンドリューと再会した日。

 

 二人が何を話し合ったのか、今でももちろんわからない。

 だが、アンドリューが固く人払いをしたのは、今、マリティムが人払いをしたのと同じくらい重要な話をしなければならなかったからだろう。

 あの少年のなりをしたリディが、プラテアードの独立を背負う立場の少女だったとは驚きだった。細い腕に柔らかい笑顔だとは思っていた。「女だ。」と聞いても、そんなに驚きはない。だが、「一国を背負う頭」というのは想定外だった。エンバハダハウスで、ハンスが時折「ありゃぁ、只者じゃない。」と言っていたが、あまり本気にはしていなかった。

(さすがはハンスお爺さん。元国王の側近だっただけはあった。)

 ハンスは2年前、病気で死んだ。

 アンドリューもアランも、墓の前で3日3晩泣き明かした。

 実の両親と暮らした記憶のない二人にとって、ハンスは血の繋がり以上の繋がりを持った存在だった。

 それ以来、アランは車椅子を捨てた。

 それまでも杖を使って歩く訓練はしていたが、日常生活はいつも車椅子だった。

 だがハンス亡き後、アンドリューを身近で守るのは自分しかいない。いつまでも甘えていてはいけないと、杖だけの生活に改めた。

 足の痺れは、何年たっても治らない。

 マリティム王子に弟がいるという噂は、いつの時代にも流れていた。

 アンドリューは産まれた直後から城外に出されていたが、その存在を隠すため、王室は隠れ蓑を探していた。そんな折、アランは髪や目の色、容貌がマリティムに良く似ているということから5歳で貴族の両親から引き離され、ハンスとアンドリューの下に送りこまれた。 

 その時、足の腱を切られた。

 つまり、成長して陰謀を企んだとしても、アンドリューを殺したり、マリティムに取って代わるようなことができないように。

 それが、アランに与えられた運めだった。


 マリティムを待っていたアンドリューは、火の灯一つない、真っ暗な部屋にいた。

 木の粗末な椅子に浅く腰掛け、深く息をしながら兄を待った。

 緊張しているのか、肩が自然と強張り、喉がひっつきそうなほど乾いている。

 マリティムは、踵を鳴らしながら蝋燭の灯火と共に現れた。

 窓の無い地下室は、湿気とカビ臭さが鼻をつく。

 マリティムは火を翳して、アンドリューの顔をまじまじと見つめた。

 それに対し、アンドリューは宙を睨んだまま、マリティムを見ようとはしない。

「・・・プラチナブロンドか。噂には聞いていたが、本当に私とは似ていないな。」

「下らない話はいい。さっさと用件を済ませたらどうだ。」

「一言目からご挨拶だな。兄弟の生まれて初めての対面だというのに。」

「いまさら白々しい。大体、俺たちは一生顔を会わさない約束だったはずだ。」

「そうだ。それは父上が勝手に決めたことで、父が死んだ今、それはどうでもいいことだ。・・・どうせ会うのは今日が最初で最後。私も本当は会うつもりはなかったのだが・・・どうしても直接話をせねばならなくなってな。」

 アンドリューの向かいに用意された客用の大理石の椅子に腰掛け、マリティムは小さく息をついた。そこで初めて、アンドリューは兄の顔を見た。

 とろけるような金髪。白い肌。なるほど、アランフェスによく似ている。

 マリティムは背もたれに身体を預け、落ち着き払った様子で口火を切った。

「父の葬儀に、参列したかったか?」

 その問いに、アンドリューは鼻で笑った。

「まさか。国王が自分の父だと実感したことさえないんだ。そんなことを気にして会いに来たのか?」

「いや、そうではない。私は明日の満月の夜、戴冠式を迎える。国王になったら、こんな風にお前に会うことはできなくなる。手紙も気軽に書けなくなるし、どんなに信じている側近にも任せられないことがある。」

「そこまでして、俺に話すこととは何だ。」

「お前は卑しくも王家の一員だ。しかも額に紋章を持つ、正統な継承資格を持っている。」

「そうだ。・・・それなのに、どうして俺に会いに来た?しかも完璧な人払いまでして。もし俺が陰謀を持って、この場であんたを殺したらどうするつもりだった?俺が怒っているのは、無用心すぎるということだ。俺はハナッから王位に興味がないからいいようなものの、普通、陰の立場の弟なんて好からぬ野望を抱くものなんだぞ。それを、何も恐れていないように無防備に一人で俺に会いに来るなんて。」

 マリティムは、微かに口端に笑みを浮かべた。

「何だ。私を案じて機嫌が悪かったのか。それは嬉しいものだな。」

「いいから、・・・はやく。」

「うむ。実は、お前に頼みがあって来た。」

「頼み?」

「二つ、ある。一つはプラテアードのことだ。」

 プラテアード。

 久々に耳にした気がする。だが、常に気にかけてはいた。いや、気にかけないではいられなかった。

 アンドリューは息を呑んで、マリティムの次の言葉を待った。

「今、ジェードが同盟という名の下に支配している国が3つ、植民地が4つ。この中で、最も気をつけねばならないのが今も昔もプラテアードだ。」

「・・・隣国だし、相当締め付けが厳しいからだろう。」

「1年前の屈辱は忘れない。いつの間に、あれほどの力を蓄えたのか。」

 プラテアードの南にあるジェード第3総督府は、独立を求める民衆の暴動により陥落した。

 農具や手製の弓矢といった粗末な武器しか持たない民衆が押し寄せ、総督府を守っていた軍隊を全滅させてしまったのだ。総督府内に住んでいた役人やその家族50名は人質にとられ、開放と引き換えに大量の銃器や金銭を要求された。

 それは、強大と謳われたジェードの初めての敗北だった。

 国王が倒れたのも、その頃だった気がする。

 マリティムは悔しさに歯をきしませた。

「私は、プラテアードを許さない。徹底的に調べさせ、いくつかの情報を得た。」

 そう言って、マリティムは胸元から一枚の写真を取り出した。

 木の机に投げ出されたモノクロームの写真を、アンドリューは手に取った。

「その中央に写っているのが総督府襲撃時のリーダーだったと聞いている。それが、かつて独立運動の王と呼ばれていたアドルフォ・シュゼッタデュヴィリィエの娘に違いない。」

 アンドリューはその発言に驚き、写真を凝視した。

 頬までのウェーブがかった髪をなびかせ、仲間に指示している様子の女。

(違う。)

 これは、アドルフォの娘として育てられた、あの、リディではない。

 7年の月日が経っても、これは確かに別人だ。

 鼻筋の通った切れ長の目の、顎のラインのシャープな美女。

 モノクロームでもわかる、まばゆく光る髪。

 少し上向きの鼻に、大きめの瞳をして濃い栗色の髪だったリディが、いくら7年経とうとも、こうは変わらない。

 アンドリューは、恐る恐る聞いてみた。

「これがアドルフォの娘だという根拠は?」

「その女の首のスカーフ。写真を撮った男によれば藍色だったそうだ。この色は、かつてアドルフォがプラテアードを率いる際に巻いていたもの。つまり、統率者の証なのだ。それを首に巻くことが許されるのは、アドルフォの跡継ぎである娘、ルヴィリデュリュシアン・ヴァルフィ・コン・シュゼッタデュヴィリィエでしかありえない。」

 違う。

 アンドリューは写真を見れば見るほど、それを確信していた。

 この女性は、リディにしては年を取りすぎているし、おそらくリディの存在を隠すためのフェイクだと思われる。

(俺の正体をぼやかすためにアランフェスがいるのと同じように、この女性がリディの盾になっているのだ。)

 マリティムは、膝の上の拳に力をこめた。

「無論その女は近いうちに必ず仕留め、公開処刑にしてやるつもりだ。それはジェードの沽券に関わることゆえ、私と軍が行う。だが、軍にもできないことがある。」

「軍にもできないこと?」

「アンドリューに頼みたいのはそれだ。私は、プラテアード王室の忘れ形見が生きているという話を耳にした。」

「!!」

 心臓が一度大きく脈打ち、その衝撃はアンドリューの身体全身をも震わせた。

「真相はわからぬが、本当に生きていたら面倒な事になる。革命家一人を首長にして国を立て直そうというのと、王政復古を掲げるのではわけが違う。全滅していたと信じられていた王家の末裔が生きていたとプラテアード民が知ってみろ。その子を祀り上げて津波のような反乱が総督府へ押し寄せるぞ。それに、今は資源を根こそぎジェードに巻き上げられているだけの弱国で何の利用価値もないプラテアードだが、未来の国王が生きているとなれば、共に手を組もうとする国が現れる。そうなる前に手を打たねばならない。」

 ここまで聞こえるはずのない稲妻の音が、耳元で鳴った気がした。

 濃い影が、マリティムの顔の彫りの深さを浮き彫りにする。その威圧と共に、アンドリューの新たな使命が告げられた。

「その者を探し出し、殺して欲しい。」

「・・・!!」

 硬く閉じた唇の奥で、歯を噛み締めた。

 そうでもせねば、もう、震えを隠せない。

 軍人の時も、リディの暗殺命令は出ていた。だがそれは、アンドリューにだけ出された命令ではない。

 しかし、今回は違う。

 マリティムは、畳み掛けるように続けた。

「わかるな、アンドリュー。王家を継ぐ資格の紋章の存在もそれを見ることが許されるのも王家の人間だけなのだ。軍の誰にも命令できぬことなのだ。噂の真相を確かめ、もし本当に紋章つきの子が生きていたなら確実に殺せ。ただし、王家の末裔であっても紋章がない場合は生かしてもよい。どうせ王家を継げぬのだし、自分から名乗っても今となっては何の証拠もなく説得力もない。他国は相手にもしないはずだ。ただの庶民と同じことだからな。アンドリュー自ら手を下すことはない。」

 太股の辺りを握り締めたアンドリューは、俯いたまま動けなかった。

 7年の間、忘れていたわけではない。

 だが、無理に思い出すこともしなかった。

 自分が国王にならなければ、もう一生、関わることもないと思っていたからだ。

 リディに、王女の身分を隠して生きろと言ったのは自分だ。

 紋章を目にし、それを知っているのも、おそらく未だ自分一人だけだろう。

 ため息を吐きたいのに、呼吸をすることを身体が許さない。

 運命は受け入れる。

 使命は、果たす。

 だが、殺すには親しくなりすぎた。

 合い違えるには知りすぎた。

 一緒にいた時間は大してなかったはずだ。だが、互いの命を救い、離れている間も少しずつ関わりを持ち、細い糸を手繰り寄せるようにして互いに一番の秘密を共有した。

 リディは、命の恩人だ。例え先に自分がリディを助けたのだとしても。

 敵と知りながら、一番の側近を亡くすという犠牲を払ってまで助けてくれた相手だ。

 何も言わず固まっているアンドリューに、マリティムは折りたたまれた一枚の厚紙を差し出した。

「そのためにはプラテアードに潜入する必要がある。だが、昔のようにスパイとして潜入してまた捕まっては適わぬ。そこでお前には第4総督府の総督の地位を与えることにした。」

「総督・・・?」

 ようやく、口が開いた。

 マリティムは、頷いた。

「第4総督府は王室直属の近衛隊が駐留しており、そなたが以前所属していた軍とは余り関わりのない者ばかりだ。それに普段は一番奥の立派な部屋で限られた側近のみと接すればよいし、7年も経つし、昔合同葬儀で死人にされたアンドリュー・レジャンと同一人物だとは思わんだろう。」

「それは些か考えが甘いのではないか?大体、奥の部屋に篭ったままでは王家の末裔など探せられない。」

「そうだ。7年経っても誤魔化せないのがそのプラチナブロンドだろう。印象に残りやすいからな。黒髪のカツラを用意させる。人前に出る時は必ずかぶれ。あと、本名の一部であるプリフィカシオンという名をつかえ。身分は王家の親類で、公爵ということにし、迂闊に探りを入れられないようにしてある。」

「・・・してある、ということは、すべて手配済みということか。」

「お前の仲間には、レオンも含め、すでに総督府内の手配に回らせてある。あとはアランフェスと共に引っ越すだけだ。彼らにはアンドリューが第4総督に就任するということと、プラテアード王家の末裔の噂の真相を確かめるようにとだけ話してある。」

 レオン達は、リディがプラテアードの独立運動の王アドルフォの娘という立場であることを知っている。マリティムの持っている写真の美女がアドルフォの娘ではないことも、わかっているはずだ。

(主人である俺の指示を得ず、余計なことをマリティムに言わないとは思うが・・。)

 マリティムは、立ち上がった。

「長居をした。・・もう、戻らねば。」

 アンドリューは座ったまま王子の背を見上げた。

「待て。用件は二つのはずだ。もう一つはどうした?」

 マリティムは少しの間背を向けたままだったが、意を決したように肩越しに横顔だけアンドリューへ向けた。

「次の・・・国王になる覚悟をしておいてくれ。」

 その言葉の真意がアンドリューにはわからなかった。

「どういうことだ?覚悟は一応しているが、あんたには二人も子どもがいるじゃないか。」

 マリティムとフィリグラーナの間には、5歳の男子と2歳の女子が誕生している。新聞の写真で見たが、愛くるしく美しい子ども達だ。

「そうだ。だが、後を継げないのだよ。」

「・・・ああ・・・。」

 アンドリューは息を洩らした。

 そうか。二人とも、額に紋章がないのか。

「でも、まだ子はできるだろう?」

「そうだ。だが、紋章が付される可能性は薄いと思っている。」

 男女ともに紋章を持つ者同士から紋章つきの子が生まれる可能性は9割以上と言われている。だからこそ、王家は紋章つきの子ばかり伴侶に選ぼうと必死なのだ。紋章のない子は大抵、身分の高い貴族と結婚させ王家から離れるしかない。マリティムもフィリグラーナも紋章を持つのに、子二人共に紋章がないのは、運が無いとしか言いようがない。

「アンドリュー。次に私に子が産まれても、紋章がある子かどうか直接話すことはできない。そこで私は、お前だけがわかるように伝える手段を考えた。」

「それは・・?」

「子の誕生を知らせる手紙をお前に出す。その手紙の封筒が緋色ならばジェード王家の紋章を頂いた子、黒色ならばプリメール王家の紋章を頂いた子、そして白色ならば、紋章のない子が生まれたと解釈してくれ。」

 マリティムは、やるせない思いで睫毛を伏せた。

「運命は、アンドリューを次期国王にする様動いてるのかもしれない。私は別段自分の子に国を継いで欲しいとは願っていない。私自身、跡継ぎという制約が常に生活に食い込んでいて、父や母との関係をろくに築くことはできなかった。アンドリューもいることだし、我が子に紋章がなくてもよいのだ。だが・・・」

 マリティムは一度息を吐き、そして言った。

「フィリグラーナが・・・。」

「え?」

「フィリグラーナが、泣くのだよ。跡継ぎを産めないのは自分の責任だと言って泣くのだ。それが、一番つらい。」

「・・・。」

「私はフィリグラーナのせいだなどと一度も言ったことはないし、思ったこともない。それこそ、運命の思し召しだと何度も言った。だが、あれはそう思わないらしい。じゃじゃ馬で大胆不敵で高慢な女だというのに、王家のプライドが泣かせるのだろうが・・・たまらない。」

 アンドリューの記憶にあるフィリグラーナは、強気な瞳と薔薇色の唇をした、いかにも王家を思わせる高飛車な態度の女だった。そうか、あの彼女が、泣くのか。

 マリティムはそのまま背を向け、立ち去ろうとした。

 そんな兄を、アンドリューは引き止めないではいられなかった。

「待ってくれ!」

 アンドリューは立ち上がった。

 だが、何を言えばいいのかはわからない。

 これが今生の別れになる。

 それがわかっているのに、何と言っていいかわからない。

 だが、伝えなければならない何かがありそうで、このまま別れられない。

 マリティムは振り返り、言った。

「なんだ?」

 アンドリューの唇が発すべき言葉を見つけられないでいる。

 二人は、黙ったまましばらく見つめ合っていた。

 蝋燭の明かりしかないが、今は互いの全身をしっかりと捉えることができる。

 やがて、何も言えないでいるアンドリューの代わりにマリティムが声をかけた。

「これだけは言っておく。もし他国と戦争になって城が落とされそうになっても、絶対に助けになど来るな。お前が軍にいて強運の持ち主か試されていた時代は終わったのだ。私の子が成人になる日を指折り数えて死を待つ身でもない。お前はこれから、次期国王になるべく今まで以上に自愛せねばならない。お前の周囲を何人犠牲にしようとも、生き残らねばならないのだ。継承者がいなければ、王国は成立しない。王のいない国で安定した国など未だ誕生していない。国が国であるために、王は絶対に必要なのだ。だから自愛しろ。いいな。」

「俺のことは心配しなくていい。絶対に・・・何があっても生き延びる。」

「約束だぞ。」

 そう言ったマリティムは、少し微笑んだように見えた。

 結局、言いたいことも思いつかないままアンドリューは兄を見送るしかなかった。

 その背は、なぜか淋し気に見えた。

 例え様々な思惑があろうとも、自分を排除したりアランを捨て駒にするような王室は、大嫌いだった。

 だが、歳をとるに連れ、単純に嫌いとはいえなくなっていた。

 そして今、初めて見た兄は、決して嫌いではない。

 むしろ、近くにいて、支えてやりたいと思った。本来なら、兄弟として助け合うのが本当だったのではないのか。

 最初で最後だというのに、ほとんど話ができなかった。

 そのことを、いつの日か後悔しそうで、アンドリューは嫌な予感に包まれていた。


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