第31話:使わされし者
小川のせせらぎに、果実がみのる樹木。
水車に、麦とチシャの育つ畑。
つがいの牛に山羊。鶏小屋。
白い壁とオレンジ色の西洋瓦で彩られた2階建ての家。
どの村にも属していない、この一軒だけで自給自足が可能な、隔離された場所。
誰が手入れしたのか、誰が生き物の世話をしていたのかわからないが、キール達がたどり着いたときには、すぐに生活ができるようになっていた。
平和で穏やかな時間は、あっという間に過ぎていく。
3週間も経つと、ジロルドも回復し、散歩ができるようにまでなっていた。
そんな中、リディだけは別だった。
ある日は小川に朝から晩まで座り込み、ある日は少し離れた谷に向かって立ち尽くしている。雨が降れば屋根裏部屋にこもり、一歩も外へ出てこない。
家事と畑仕事はソフィアが、馬小屋の掃除や動物の世話はキールがしている。
始めはリディも手伝おうとしていたのだが、ソフィアが撥ねつけた。
「フレキシ派のリーダーのなさる事ではございません!リディ様は、ご自分の好きなことをしていて下さい!」
それが嫌味であることは、リディにもすぐ理解できた。
ソフィアが、どれほど怒っているか空気でわかる。
言葉で何も責めないが、態度の節々にそれを感じ取る。
それ以来、リディは何もせず、家にも寄り付かなくなった。
伝書鳩を胸に抱き、心を失くしたかのように外でぼんやりとしている。
キールも心配していたが、どうすることもできなかった。
バッツが死んで、アンドリューまで行方不明とあっては救いどころがないからだ。
ジロルドが回復してからは、一緒に散歩について行く役目に回ったが、何も話すことはなかった。
医師であるジロルドは、心の問題だから優しく見守るしかないとキールに言っていた。
ここは心地いいが、ジェリオの用意した家にいつまでも厄介になるわけにもいかない。
昼間、キールは新しい住処を見つけるために外へ出るようになった。
それは、空が厚い雲で覆われた暗い夜のことだった。
星も月も見えない、漆黒の大気。
キールもソフィアも疲れきって深い眠りにつき、ジロルドも安楽椅子に寄りかかってまどろんでいる。
リディだけは眠れずに、一人、屋根裏部屋のガラス窓から外を見つめていた。
その時。
突然、部屋の扉が静かに開いた。
ハッとしてランプを翳すと、その正体に息を呑むほど驚いた。
とろける様になめらかな、絹糸のようなクリームがかった金色の髪。
湖の色の瞳。
透き通るほどに白い肌。
利発そうな面持ち。
それは、アンドリューの弟とされ、車椅子に乗っていた・・・
「アランフェス・・・・!?」
アランは扉を閉めると、リディの前までゆっくりと歩み寄り、膝をついて頭を垂れた。
「ご無沙汰しておりました。今宵、私はアンドリュー様の命により、リディ様をお迎えにあがりました。」
「アラン、足・・・。」
事態が理解できず、何から言葉にしていいのかわからない。
呆然と立ち尽くすリディに、アランは小さい声で話し始めた。その口調はエンバハダハウスにいた時と同じ少年とは思えないほど、しっかりとしていた。
「私が申し上げられることだけ、お話させていただきます。私の足が不自由だというのは、本当のことです。幼い頃の事故の後遺症で、右足の痺れは治らないのです。しかし、杖をつけば歩ける程度ではあります。車椅子があれば楽なのは確かですが。」
「でも、今は杖がないけど・・・?」
「杖の音で他の方を起こしてはいけないと、置いてきました。痺れなので、我慢すれば多少は歩けます。・・・時間がありません。私についてきてください。」
リディは、首を振った。
「駄目。だって、私は・・・。」
「我々を信じられなくても仕方がありません。ですが、どうか信じてください。本当は、足の悪い私でない人間がお迎えにあがった方が楽でした。あなたを無理に連れ出すことも可能でした。それでも私が来て直にお願いしているのは、信じていただくためなんです。実は近くまでハンスお爺さんに馬車で送ってもらったのですが、先に帰らせました。あなたが私を送ってくださらない限り、私は帰る術がありません。そこまでのリスクを負ってでも、信じていただかねばならないからです。」
アランの意図がわからない。
これでアランについて行ったら仲間が現れ、殺されてしまうかもしれない。
動かないリディを、アランは必死に説得した。
「では、この場所を誰に聞いたか教えます。ジェリオさんです。フィリグラーナ妃殿下の隠密の。ご存知ですよね?ジェリオさんは、リディ様をアンドリュー様に会わせる約束をされてると聞きました。それを叶える役目を仰せつかって来たのです。」
「でも・・・。」
「お願いです。信じてついてきてください。」
アランの言葉が真実なら、アンドリューに会えるということだ。
今宵、願いが叶うのだ。
こんな誘惑に負けるのは・・・。
リディは喉を鳴らして唾を呑み込むと、アランの手を取った。
「わかった。一緒に行く。」
「・・・はい・・!」
アランの頬が、安心の喜びを顕わにした。
リディはアランの前で背中を向けてしゃがみこんだ。
「その足では辛いだろう。私が馬小屋まで背負っていく。」
「とんでもない・・!そんなことをさせては、私がアンドリュー様に怒られます。」
「アンドリューは、アランの何?様付けで呼ぶって・・・?」
その時だった。
「リディ様!」
扉の向こうに、キールが現れた。
さすがに他人の気配に気づいて目を覚ましたのだ。
キールはアランを見て、やはり驚きを隠せなかった。
「何事なの!?」
ソフィアも階段を上ってきた。
3つのランプで、辺りは煌々と照らし出された。
ソフィアはアランを見るなり、銃を構えた。
「くせ者!どこの手先か!?」
しかし、アランは少しも動じなかった。口を引き締め、じっとソフィアを見据える。
リディは、覚悟を決めた。
「キール、ソフィア。私をアランと一緒に行かせてくれ。」
「何ですって?」
ソフィアは叫んだ。
「あなたは、まだわからないのですか!?あなたの御命はプラテアード国すべての物であって、」
「わかっている!・・・わかっているんだ。でも今行かないと、私は次へ進めない気がする。今夜で最後にする。今夜で区切りをつける。だから今回だけ、行かせてくれないか。」
「では、せめて私を護衛に。」
名乗り出たキールに、リディは首を振った。
「駄目だ。アランと二人で行かせてくれ。」
アランは、キールとソフィアに向かって頭を下げた。
「アンドリュー様の命令で、リディ様をお迎えにあがりました。この場所は、ジェリオさんから窺いました。忍び入ったことはお詫びします。ですが、ここはどうしても通していただきたいのです。」
10歳の少年とは思えない。
キールは、この少年がアンドリュー王子の側近だと確信した。
おそらくエンバハダハウスでは、この少年とハンス爺さんがアンドリューの面倒を見る役目を仰せつかっていたのだろう。
キールは、アランを信じることにした。
「行ってください。」
「兄さん!?」
ソフィアの銃先を、キールが自分の手で押さえ込んだ。
「その代わり、もしリディ様に何かあれば、私達はどんな手段をつかってでも復讐します。」
アランは、しっかりと頷いた。
「承知しました。」
「キール。アランは足が不自由なんだ。馬小屋まで運んでくれるか。」
「かしこまりました、リディ様。」
キールは軽々と小さなアランを抱き上げた。
納得が行かないソフィアを見て、リディは言った。
「すまない、ソフィア。だが、もしこれで私が殺されたならば、私はそれだけの人間だったと思ってくれ。」
「・・・リディ様・・・。」
「そうだろう?神は私を、国を背負う大事に耐えられぬ人物と判断したことになる。その時は、キールかソフィアが跡を継いでくれ。父もそれを望んでいると思う。」
アドルフォの名前が出て、ソフィアが何も言えなくなった隙に、3人は表へ出た。
馬に鞍を乗せ、リディが先に乗り込んだ。
「アラン、馬に乗ったことは?」
「あります。アンドリュー様と一緒にですが。」
「結構。キール、アランを私の前に。」
リディは、アランに馬のたてがみをしっかり掴んでいるよう促した。
「やぁっ!」
馬の腹を勢いよく蹴り、二人は走り出した。
いつの間にか、雲のまにまに星が輝きだした。
アランの道案内で、リディは手綱を操った。
アンドリューに会える。
あれほど会いたかったアンドリューに。
だが、会って何を言う?
アンドリューはなぜ、自分を呼び寄せようなどと思ったのだ?
考えれば考えるほど、不安になってきた。
だが、もう引き返すことはできない。
丘を越え、川を渡り、草原を駆け抜ける。
時には断崖の狭間を走り、岩間を抜けた。
疲れが見えてきた頃、アランが馬を止めるように言った。
山肌つたいに作られた細い道を、だいぶ上がってきたところだ。
「ここは・・・ジェードか?それともプラテアードか?」
辺りを見渡しながらリディが尋ねた。
「ジェードの領域に入ったところです。足元を見てください。」
目を凝らすと、星明りに照らされて、大理石を切り出した採掘場の跡地が浮かび上がった。深く階段状に掘られ、視界が悪い今は底が見えない。
アランは、道の横の岩肌を軽く押した。
それは、ただの岩の一部に見えたが、アランの行動によって一枚の扉であることが判明した。二人が岩の奥に入ると、扉はひとりでにパタンと閉まり、完全に外界と遮断された空間が作られた。
「ここを進んでください。」
岩穴の中は数十メートルおきに蝋燭の火が灯され、明るく道を照らしている。
あまり気にならないが、徐々に下降しているのがわかった。
やがて、円形の広々とした空洞に辿り着いた。
そこで二人は馬を降りた。
アランが足を引きずりながら歩き出し、すかさずリディが肩を貸した。
緩やかなカーブを描いた壁をアランが手のひらで押し、そこが扉になって開いた。
「ここからは、お一人で。私はここでお待ちしています。」
「こんな所で?寒いだろう?」
「大丈夫です。さあ、お早く。実はあなたがここへ来ることは、私とハンスお爺さんとアンドリュー様しか知らないのです。朝になって皆が起き出さないうちに、ここから出ねばなりません。さあ。」
アランに促されるまま、リディは扉の中へ入った。
奥に明かりが見える。
リディは意を決して、真っ直ぐ奥へと突き進んだ。
視界が開けると、そこは広くて暖かな部屋だった。
部屋の隅に窓があり、その脇のベッドにアンドリューは上半身だけ起こした状態で布団に入っていた。
窓枠に置かれたランプに照らされ、その整った横顔がくっきりと浮かび上がる。
柔らかなプラチナブロンド。
長い前髪から覘く蒼い眼差し。
白い襟のシャツ。
何もかも、あの時のままだ。
アンドリューが、ゆっくりとこちらを向いた。
二人の間に、見えない刻の風が流れた。