第25話:不穏な気配
アンドリューは、自分がどこにいるのかを理解するまでに多くの時間を要した。
最後の記憶が、どこかさえ定かでない。
ただ、暗い牢屋の狭い窪みに逆さで吊るされていたことだけが脳裏に焼きついている。
しかし、ここは違う。
ランプの柔らかな明かりだけの、薄暗い、しかし暖かい部屋。
夜なのか?
嫌、窓が見当たらない。
頭を動かそうとしたが、痛くて駄目だ。
頭だけではない。腕も、足も、身体の至る所すべての骨も筋肉も皮膚も、とにかく痛い。
「おお、気付いたか。」
始めに目にしたのは、皺の深い老人だった。
老人は優しくアンドリューの手を取り、脈を計った。
「うむ。大分良くなってる。鍛えられた若い身体だ。回復機能も十分じゃ。」
アンドリューは警戒心を解くことはできず、ただ、老人を凝視した。
「ああ、自己紹介がまだだったな。わしの名はジロルド。医者じゃ。わしの孫があんたを助けて連れてきた。」
(孫?)
そのアンドリューの疑問に答えるように、部屋にバッツが入ってきた。
「アンドリュー?目が覚めたのか?」
見覚えのある顔に、アンドリューは息を呑んだ。
バッツはベッドの脇に腰掛け、アンドリューの手を握った。
「気付いたんだな?良かった。これで一安心だ。」
アンドリューはひりひりする唇や痛む喉に耐え、言葉を発した。
「どうして、あなたが・・・?」
「アンドリューを捕らえていたカタラン派が、ジェード総督府に暴動を仕掛けてな。すごい騒ぎだったんだ。牢屋も焼き討ちにされて、そんな中で見覚えのある顔を見つけて助けたってわけだ。」
予め考えておいた嘘の経緯を、バッツはスラスラと答えた。
アンドリューにとって、バッツはジェード国の猟師という設定だ。
窓のないこの部屋にいる限り、ここがジェード国かプラテアード国かなど、わかりはしない。とりあえず、敵だと知られてはならない。アンドリューはジェード国の王子だ。ジェード王室にどのような思いを抱いているかは知らないが、プラテアードに親密の情を抱いてるとは到底思えない。
アンドリューは、傷ついた頬で苦笑した。
「すごい偶然ですね。俺はもう、死ぬことを覚悟してました。」
「これが、君の運ってもんだ。カタラン派は一掃された。お前さんを捕まえた奴らも全滅した。」
アンドリューはそれを聞いて、深い息をついた。
疲れたのか、安堵の吐息だったのかはわからない。
しかし再び、瞼を閉じてしまった。
バッツは、少し安らかになったアンドリューの寝顔を見つめながら、今後のことを思案していた。
ジェリオの報告を待つのは勿論だが、アンドリューがいつ、バッツ達の正体に気付くとも限らない。その時、どうすべきか。
バッツが階下へ戻ると、父が重い表情でうな垂れていた。
「どうした、父さん。」
父は、眉根を寄せながら言った。
「実は、カタラン派の残党がリディ様に会わせろと言ってきてる。」
「残党?生き残ってた奴がいるのか。」
「少数だが、カタラン派のリーダーの息子がまとめている。リディ様に懇願して、我々フレキシ派に合流したいらしい。何しろ、家も田畑も何もかも失って、生きる術を失ってるからな。」
「他には?」
「何?」
「アンドリューのことを探りに来た様子はなかったか?」
「それはないと思う。奴らも生きるのに精一杯だ。牢から逃げた奴のことなど、構っていられないだろう。」
「・・・それで、父さんは何て返事したんだ?」
「リディ様には会わせられない、そう言っただけだ。」
「どうするつもりだ?」
「わからない。本来ならリディ様のご意思を仰ぐべきだが、国境の警備はまだ厳しすぎる。暫くは帰国されない方がよかろう。」
「伝書鳩を使おうか?」
「そうだな。キールの考えも仰ぎたい。」
そしてバッツは、キールに伝書鳩を飛ばした。
アンドリューの意識が戻ったことと、カタラン派への対応を問う内容を送った。
ジェリオとの再会まで、あと10日。
今か今かと、待ちきれない気持ちを抑えるのが苦しくなってきた。
これからアンドリューをどうすればいいのか、バッツにはわからない。
このまま、ここへ閉じ込めておくわけにはいかない。
いつかは、バッツの家から外へ出さねばならない。
その時、アンドリューは気付くだろう。ここが、プラテアード国であることを。
どう、説明するか。
どこまで、説明すべきか。
その答えをジェリオが持ってきてくれるわけではないが、その返事次第で動き方が決まる。
5日後、アンドリューは上半身だけ枕に持たれかけさせる形で起きあがれるようになった。
バッツの母が作った麦の粥を、バッツ自身がスプーンでアンドリューの口元に運んでやった。アンドリューの指は爪が剥がされており、使い物にはならない。再生はするらしいが、相当の時間がかかる。
だが、バッツにとってアンドリューが動けない方が都合が良い。家の中を歩き回られたら、この部屋が要人の隠し部屋であることがばれてしまう。そこから、バッツの素性がばれないとも限らないからだ。
食事を終えたアンドリューは、バッツに言った。
「手紙を、出したいんですが。」
バッツは、ギクリとして聞き返した。
「手紙?」
「家族に無事を知らせて、迎えに来てもらおうと思います。」
「ああ・・・。」
「あなたが俺を助けてくれたとき、一緒にヴェルデへ向かった少年を覚えていますか?彼と同じアパートに住んでいるんです。」
「そうなのか。じゃあ、後で紙とペンを持ってきて代筆してやろう。」
「ありがとうございます。」
さて、どうするか。
家族に迎えに来てもらうならば、ここの居場所を手紙に書かねばならない。
アンドリューは、ここがジェード国内だと信じているようだ。それはいいが、当のジェード国ではアンドリューは死んだことになっている。しかも、エンバハダハウスは炎上。アンドリューの祖父と弟は行方不明だという。こんなこと、病身のアンドリューに告げられるわけがない。
結局バッツはアンドリューの手紙の代筆をし、「封筒に住所を書けば、居場所がわかるから。」と言って、手紙本文に居所を触れる文章は書かせなかった。
手紙を自分の部屋の机に仕舞い、鍵をかけた。
今のバッツにとって、アンドリューは敵国の王子というよりも、守るべき要人だった。例えリディがアンドリューの正体を知って「今すぐ殺せ。」と命じたとしても、それを実行する自信はない。
わからない。
自分の気持ちが、日増しにわからなくなってくる。
(あの時、あのまま、いっそ死んでくれていたら・・・。)
一階の台所の隅に足を投げ出して座り込んでいると、そこへ父がやってきた。
台所は、玄関を入ってすぐのところにある。
父は埃だらけのマントを出入り口脇の釘に引っ掛けると、水場で無造作に手を洗い、顔を洗った。使い古しの亜麻の布で顔を拭うと、周囲に誰も居ないのを確認して、バッツに言った。
「この家は、見張られている。」
バッツはビクッとして、父を見上げた。
濃い鬚に隠れた父の唇は、強張ったように見える。
曲げた膝に手をつき、バッツは尋ねた。
「一体、いつから?誰に?」
「気付いたのはここ2、3日だ。気配だけだからな、相手はわからない。」
「この間の、カタラン派の奴らじゃないのか?」
「いや、あいつらなら俺にもわかる。今回のは今までに感じたことのない気配だ。」
ジェリオの仲間がここを探し当てたのだろうか。ジェリオの正体が不明である以上、油断したつもりはないが・・・。
バッツの父は、低い声で言った。
「狙いは、あの少年だと思うが。」
バッツは、僅かに肩を震わせた。
覚悟はしていた。一国の王子を匿っているのだ。ただで済むとは思っていない。
「秘密の間の内側が覗かれた虞はない。伝書鳩の暗号が解かれたとも思えない。」
「相手がプロなら、買い物の内容から勘付かれたかもしれん。しかし一番の問題は、」
父は前を見据えたまま、視線だけバッツに向けた。
「あの少年がそこまでの重要人物なのか、ということだ。」
バッツは下唇を噛み、俯いた。
父の声は、続く。
「お前が言い出さない限り、聞くまいとは思っていた。しかし、この家や家族に危険が及ぶとあらば、私も黙っていられない。」
拳をギュッと握り締めたバッツに、父の声が畳み掛ける。
「教えろ。あの少年は、私達家族を犠牲にしてまでも守らねばならない存在なのか。」
バッツは、乾いた声を絞り出した。
「リディ様の命令だ。それは、絶対だ。」
「そうだ。しかし、それは私が納得できる理由に基づいた命令に限る。」
バッツは立ち上がった。
「何だって?」
父と同じ高さの目線で、バッツは言った。
「リディ様は、我々のリーダーだ。どんな命令にでも従うのが掟だろう?」
「どんな命令でもというのは、違う。アドルフォ様も命令には必ず根拠を示されていた。」
「全部じゃないだろう?アドルフォ様の胸の内に仕舞われた根拠もあった。今のリディ様も、同じだ。」
「あの少年を匿うのは戦略なのか?戦略以外で胸の内にというのは、納得せんぞ。」
バッツは、腕を振りかざした。
「アンドリューは、リディ様の命の恩人だ。それでいいだろう?」
「バッツ、私にだけは真実を話せ。お前はずっと何かに悩まされている。つまりあの少年は身分を明かせないほどに、我々の敵に当たる人物ということか。」
「・・・。」
「なぜカタラン派の拷問牢に入れられていたのは知らんが、少なくとも我々の仲間ではないし、見張られるほどの重要人物であることは確かだろう。」
バッツは、首を振った。
「あと5日!」
「何?」
「あと5日待ってくれ。その時に、すべてを話せると思う。」
「5日も待てない。見張ってる奴らが夜襲でもかけてきたらどうする?」
父は、敵国の王子のために家族を犠牲にするなんて許さない。
アンドリューを人質にするという手もあるが、それは敵と交渉の場が与えられて初めて有効になる手段だ。家を見張りだした奴等が王家に雇われた者ならば、バッツ達の主張など聞かずにアンドリューだけ奪還してしまうだろう。逆に王子抹殺を狙うなら、正体を見せず家に火を放つだけの話だ。敵の正体を探る手段も時間もない今、バッツは一つの決断を迫られた。
バッツは、父に背を向けていった。
「わかった。アンドリューを連れて出て行く。」
「・・・なんだって?」
「出て行くと言ってるんだ。」
「どこへ行く気だ?」
「言ってどうする?この家が狙われなきゃいいんだろう?」
「バッツ!」
父の呼びかけにバッツは振り向き、言い捨てた。
「かつての豪傑近衛隊長も気弱になったもんだ。見損なったぜ、あんな病人を保身のために追い出すなんてな。」
バッツは階段を駆け上がり、アンドリューのいる秘密の間に行った。
アンドリューは眠っており、ベッド脇に祖父ジロルドが座っている。
「爺さん、アンドリューをこの家から出すことになった。準備を手伝ってくれ。」
「何じゃと?正気か!?」
「この家は見張られてるらしい。夜襲をかけられる前に、何とかしろとさ。」
「どこへ連れ出す気だ?まだ絶対安静の身じゃぞ。」
「キールの家へ行く。今は空き家だが、少し掃除すれば問題ない。」
「ならば、わしも連れて行け。」
「駄目だ。爺さんは残ってくれ。」
「わしは医者だ。患者の命を預かる身だ。」
「俺がアンドリューを守るのはリディ様の命令だからだ。リディ様は、ご自分の命の半分を俺に預け、アンドリューに捧げた。だから俺は、命に懸けても守らねばならない。だが、爺さんは違う。」
「わしが命を惜しがってると思うか?所詮先行き長くない老いぼれだ。連れて行け。」
バッツは、優しく首を振った。
「駄目だ。爺さんがいなくなったら、大勢の患者が苦しむことになる。薬も食料もありったけもらってく。大丈夫だ。」
不安げな祖父をよそに、バッツは荷造りを進めた。
アンドリューを毛布で何重にも包み、抱きかかえて階段を下りた。
玄関には、不安げな表情で家族全員がバッツを待っていた。
「心配するな。ちゃんとアンドリューを運び出してることをアピールするさ。」
母も姉も泣いている。
「5日後、何があるのか知らんが、それが過ぎれば戻ってくるか。」
後ろめたさを隠し切れない父の声に、バッツは冷たく答えた。
「さあな。後のことはリディ様とキールと相談する。カタラン派の奴らは、しばらく近づけないでくれ。」
玄関の扉を足で乱暴に蹴飛ばした。
家の周囲には広い畑が広がっている。
遠くに林があり、そこへたどり着くまでに農家が何軒かある。
見渡したって、敵らしき人影など見えない。
人の気配も感じられない。
だが、独立運動や戦争を潜り抜けてきた父が「気配を感じる」と言う以上、見張られているのは確かだ。
(見るがいい。アンドリューは、この家から出る。追えるものなら追ってみろ。俺一人が、相手になってやる!)
「やーっ!!」
アンドリューを胸に抱えたバッツは、思い切り馬の腹を蹴飛ばした。
重い荷物に二人の男を乗せ、バッツの愛馬は狂ったように走り出した。
土煙が追いつかないほどに、黒茶の駿馬は遠く丘の向こうへと走り去った。