第20話:紋章の秘密
ジェリオは、プリメール国にいた頃からフィリグラーナに遣わされた隠密である。
その存在はジェード王室さえ知らず、ただフィリグラーナの命令によってのみ動く生涯の忠臣であった。
首都ヴェルデの街中で黒尽くめの服で歩いていたのは、フィリグラーナに偵察を頼まれていた時。
フィリグラーナの護衛ではないため、報告時以外で王宮に近づくことはない。
街には、都会らしい犯罪や危険が多く、どうしても無視できない時に助けてしまったことが若い女性の間で噂になり、闇の騎士などと呼ばれるまでになってしまった。
流石にまずいと思い、何を見ても助けるのは止めようと決心した。
だがリディのことは、フィリグラーナを廃鉱から助け出した一件で知った存在だったため、助けてしまった。
それ以来は、人前に出没していない。
エンバハダハウスを訪れたフィリグラーナがアンドリューの不在を確認すると、ジェリオはアンドリューの行方を調査し、護衛のため、プラテアードへ密入国した。
そこでバッツの存在に気づき、アンドリュー救出の協力を仰いだのだ。
ジェリオはバッツと別れた後、再びカタラン派の拷問牢へと引き返した。
遠くから建物の様子を伺うと、そこは大勢の女と子供で溢れていた。
総督府に近い集落が戦場となり、少し離れた場所へと逃げてきたのかもしれない。
バッツが倒した番兵達の姿はすでに無く、男という男は皆、戦いに駆り出されたようだった。
建物の入り口には、武器を持った女が立っている。
その中に、アンドリューを陥れた「プロの囮」の少女もいた。
フィリグラーナがこの少女のことを知れば、間違いなく殺すようジェリオに命じるだろう。
しかしそれはジェリオの憶測であり、実際に命令が下ったわけではない。
ジェリオが動くのはフィリグラーナの命が下った場合のみであり、ジェリオ自身の判断では行動してはならない。それが隠密としての掟だ。
ジェリオは息を潜めて、木々の間から建物を見張ることにした。
ジェリオの勘では、おそらくこのままでは終わらない。
1時間くらい経っただろうか。
突然、馬の蹄と嘶きが闇夜に響き渡り、10人ほどの兵士が現れた。
兵士は持っていた槍で入り口を見張っていた女達を次々と刺し殺していく。
そして血塗られた槍で建物の窓ガラスを割ると、火のついた松明を中へ投げ込んだ。
大きな爆音が響き、安い土と木の建物は簡単に燃え出す。
さらに総督府の火災が招いた強い風のため、火はあっという間に建物全体を覆いつくした。
紅く染まる空気の中で、人々の叫び声が木霊している。
(カタラン派は、これで終わりだろう。)
ジェリオはすべて焼け落ちるのを見届ける間もなく、国境へ向かって馬を走らせた。
広大な城の東の塔一帯が、マリティムとフィリグラーナに与えられた新居である。
噴水と花園のある中庭の片隅には、薔薇水晶を贅沢に用いた東屋が設けられていた。
東屋といっても、四本の柱で支えられたドーム型の屋根の下に、丸い机と2つの椅子があるだけの簡素なものだ。新婚の二人が愛の囁きをするのにぴったりだとは思うが、マリティム王子とフィリグラーナの間には、そんな甘い感情は芽生えていない。
フィリグラーナがジェード国に来て半年。
顔はタイプだが、何かと口うるさいマリティム王子には、優しさの欠片も感じられない。
フィリグラーナが所詮は小国の王女に過ぎないからなのか、労りや思いやりの言葉、態度といったものは全く感じられない。未来の国王としての風格や資質は十分だが、夫や男としての魅力はないと思う。恋愛などしたこともないのだろうし、心から笑ったり喜んだりしたこともないのではないか。
結婚して変わったことといえば、侍女のダイナが遠ざかったことだ。
フィリグラーナが皇太子妃という身分になると、ジェード王室の侍女に遠慮しなければならないらしい。そうそうフィリグラーナについて回ったり、小言を言うことはなくなった。
夕暮れのひと時、東屋でぼんやりとしていると、フィリグラーナは後ろの茂みに人の気配を察知した。 だが、それは幼い頃から慣れ親しんだ気配だ。
フィリグラーナは振り返ることなく、言った。
「ジェリオね?」
「はい。」
人知れず二人が会話を交わせる時も、場所も、限られている。
必要に応じて、ジェリオがフィリグラーナの動向にあわせて報告に来ることになっている。
二人が会話をするのは、ジェリオがプラテアードに密入国して以来のことだ。
「国境付近の第一総督府にカタラン派が夜襲をかけたと聞いたけど。」
「はい。アンドリュー殿はカタラン派の拷問牢に入れられておりましたが、夜襲の混乱に乗じて救出しました。」
フィリグラーナの息を呑む音が、静かに聞こえた。
「それで、アンドリューは?」
「実はプラテアード国内でアンドリューを見守っている男がもう一人おりまして、彼に身柄を預けてあります。」
「どういう身分の男なの?」
「バッツという名の男で、私と同じように要人に仕えている身のようです。ご主人に命じられて、アンドリュー殿を見守っていたようでした。」
フィリグラーナは薔薇色の唇を固く結んで、考え込んだ。
(私以外にアンドリューを見守らせるなんて、一体どういう身分の人なのかしら。)
「そこで、フィリグラーナ様にお知らせすべきことがございます。」
「何です?」
「満月の光に照らされて、アンドリュー殿の額に、緋色の紋章が浮かび上がりました。」
フィリグラーナは思わず立ち上がり、茂みの奥に隠れているジェリオの姿を探した。
だが、ジェリオは身を潜めたまま、身体を硬直させ続ける。
「紋章の形を、覚えていて?」
言葉尻が、震えている。
「詳細までは覚え切れませんでしたが、記憶にある分だけ書き留めました。」
ジェリオは、小さな紙を茂みの下からフィリグラーナの方へ差し出した。
芝生に置かれた紙切れを素早く拾い上げたフィリグラーナは、小さく呻きたいのを寸でのところで堪えた。
それは、婚礼の儀に、マリティム王子の額に浮かび上がった形と同じに見えた。
細かいところが異なれば話は別だが、各国の紋章は明らかに形状の違うものであって、僅かの違いが国の違いに繋がるという話は聞いたことはない。
だが、これは王族と神使のみの極秘事項である。
どんなに信頼の厚い隠密に対しても、話すことはできない。
「バッツという男も、この紋章を見たのですか。」
「二人で目撃しましたので。」
「・・・忘れなさい。」
ジェリオは、フィリグラーナの一言で口を噤んだ。
フィリグラーナが忘れろと言う以上、二度とこの話題を出してはならないということだ。
フィリグラーナは、間もなく消えゆく太陽を見つめながら、ジェリオに命じた。
「バッツという男が誰に仕えているのか、調べなさい。その結果如何で、必要ならばその男を始末なさい。それから、エンバハダハウスに同居しているという家族が何者なのか調べなおして。分かり次第、すぐに報告を。」
「かしこまりました。ただし、フィリグラーナ様は何もなさいますよう。」
「え・・・。」
「下手な探りは、反逆とみなされますから。」
「わかってます。」
ジェリオの心配は最もだった。
いくらジェード皇太子妃となろうとも、所詮フィリグラーナは外国人である。いつ裏切ってもおかしくない存在として、目を付けられていることを忘れてはならない。
ジェリオが去っていく音を聞き遂げると、フィリグラーナは紋章の描かれた紙切れを部屋に持ち帰って慎重に燃やした。
アンドリューが普通の身分ではないことは、薔薇翡翠のペンダントを見た日からわかっていた。だが、まさか王の血筋を引く者だったとは。
婚礼の儀では、神使の前で、マリティムもフィリグラーナも額を満月の光にさらした。
この大陸の大聖堂の創りには共通点があり、祭壇の真上に丸い透明のガラスがはめ込まれている。
満月の光を導き、その下で正統な血筋の人間であることを証明するためだ。
フィリグラーナの額には、漆黒の紋章が浮かび上がった。
ビロードのソファに浅く腰掛けて、フィリグラーナは色々と考えを巡らせた。
世に示している王家の紋章はフェイクであり、額に現れる紋章こそが本物である。
紋章は王家の血筋を継ぐ者の額に生まれつき浮かび上がるものらしいが、一体どこまでの血縁者に浮かび上がるのかは定かでない。王の実子にも関わらず紋章を持たない者もいるらしいし、遠縁でも稀に浮かび上がると聞いている。ただし、額に紋章を持つ者しか国王にはなれず、逆に紋章があれば血の繋がりが薄くても国王になれる可能性があるということだ。紋章は男女関わらず浮かび上がり、女王が統治する国も少なくない。他国の王女を妃に迎える時は、紋章の有無が問題になることも多い。
と、そこへマリティム王子が入ってきた。
ここは二人が寛ぐための部屋であり、ノックなどして入ってこないため、フィリグラーナは飛び上がるほど驚いた。
「何だ。何を驚いている?」
「・・いえ。お仕事は終わりましたの?」
「第一総督府は半分以上焼け落ちてしまったからな。その修復や、新しい人員の確保には時間も金もかかる。」
白い手袋を外しながら、マリティム王子は悔しそうに吐き捨てた。
「プラテアードの奴らめ。性懲りも無く、まだ反発するか・・!?」
表向きは友好を結んだような顔をして、ジェード国にいいように操られているプリメール国の王女だったフィリグラーナには、プラテアードの反乱が痛いほど理解できる。
フィリグラーナは、国王である父がジェードとの交渉でいつも頭を悩まし、苦しむ姿を見てきた。
ジェードの半分の領土に、黒曜石という価値の低い鉱物しか取れないプリメール国がジェードに逆らえるわけもなく、ただ、泣かされてきた。
「また戦争になりますの?」
「いいや。今回夜襲をかけてきたカタラン派とかいう組織の集落は全滅させてきたから、それ以上深追いする気はない。今のプラテアードに戦力を費やす価値はないからな。」
フィリグラーナはワインをグラスに注ぎ、マリティム王子に渡した。
「これを飲んで、少しお休みになってください。」
「・・・ああ、そうしよう。」
睫を伏せてグラスに口をつける王子の横顔を見つめながら、フィリグラーナは思った。
マリティム王子と、アンドリューに血の繋がりがあるなんて、信じられない。
だって、全然似ていない。
マリティム王子のとろける様な、なめらかな絹糸のようなクリームがかった金色の髪。湖の色の瞳。
アンドリューの髪はプラチナブロンドで、瞳はくすんだ蒼色だ。
それだけではない。
目の形も、鼻も、口元も、全然似ていない。
マリティム王子の父である、現ジェード国王の若い頃の肖像画を見たが、今のマリティム王子とよく似ている。母である王妃とも、アンドリューは似ていない。
では、性格は?
しかし、残念ながらフィリグラーナはアンドリューの性格を知っているというほど関わりを持っていない。気になって関わりを持とうと試みたが、その度、何かに阻まれた。
(だから私は、アンドリューと縁を結べない運命だと思ってきた。印象的な男ではあったけれど、でも・・・。)
フィリグラーナはその時、リディのことを思い出した。
少年の振りをしてエンバハダハウスに住むあの少女は、一体、何者だったのか。
古いぼろぼろの服を着てはいたが、意思のある瞳をしていた。
不思議なもので、顔立ちは育ちや生まれを反映するものだ。
生まれついての顔立ちの良し悪しではなく、品性が滲み出るというのだろうか。
締まりのない顔の人間は、生活も人生もだらしがなく、そういう人間が貧しくて飢えても、自業自得だと思っている。
(もし彼女が男の振りをしなければならない理由があったとしたら、只者ではないかもしれない。彼女ならば、アンドリューを護衛する説明もつく。)
そう思いついた途端、フィリグラーナの肩が電流に打たれたようにビクッと震えた。
鳥肌が立つ腕を擦りながら、フィリグラーナは今の直感が正しいだろうことを確信していた。
(今度ジェリオに会ったら、あの少女のことも調べさせなければ・・・。)
グラス片手に新しい書物に目を落とすマリティム王子を横目に、フィリグラーナは拳を握り締めた。
(やはり、この王室のことも少しは探ってみるべきかもしれない。)