第19話:バッツの家
秘密の間には、窓がない。
空の色による時間の流れを感じられない部屋の中にいると、終わりの無い夜を彷徨っている様だ。
額に浮かぶ汗を、もう何度拭っただろう。
久々の重症患者に、ジロルドも苦戦している。
アンドリューが痛みで気絶した後、ジロルドは呻くように首を振った。
「駄目だ。器具も薬も足りない。わしが出来る手当ては、これが限界だ。」
「買える物か?」
「薬局で、消毒薬と包帯、それから鎮痛剤を。」
すると、ルチアがすぐに動いた。
「私が行ってくるわ。」
「可能な分だけ買ってきてくれ。最近とみに物資が不足してるからな。」
高度な医療器具も薬も、すべてジェードが抑えてしまう。
それに、それらを買う金もプラテアード国民には無い。
訊ねてくる病人をジロルドが診てやってはいるが、満足な治療を継続的に出来るわけでもなく、大抵は病気にかかったら最後、死を待つだけだ。
ルチアが出掛けると、ジロルドは大きく息を吐いて、椅子に腰を下ろした。
「ひどいもんだ。綺麗な顔も傷だらけじゃて。」
バッツは、アンドリューの額の上で温んだ布を、冷たい水に浸した。太い腕で優しく絞り、再び額にのせる。
アンドリューは熱で苦しいらしく、口を半開きにしたまま、激しい息遣いが続いている。
そこへ、バッツの母親が水と食事を持ってやってきた。
バッツの母は体格だけでなく、角ばった顎もバッツと良く似ている。
母親は陶器の水差しで、アンドリューの口中に水を注いでやった。
半分は唇から零れていくが、半分は喉を打って体内に入っていく。
そんな母の様子を眺めながら、バッツは訊いた。
「父さんは?」
「国境近くで争いがあったというので、様子を見に行ってるよ。」
「カタラン派が大規模な暴動を起こしたんだ。今頃総督府の辺りをうろうろすると、焼き討ちした一味だと思われるぞ。」
「あの人を誰だと思ってるの?その辺は抜かりないわね。」
大きな胸をゆすって大らかに笑う母を見て、バッツは幾らか安心した。
実際、総督府がどれくらいダメージを受けたのか、気になっている。
強国ジェードの軍隊がカタラン派に降服したとは思わない。
カタラン派が返り討ちにあったと予想するが、あれだけの大火災ゆえ、ジェードも相応の犠牲は払っているはずだ。
(ジェードにとったら、カタラン派もフレキシ派も同じプラテアードのテロ集団にすぎない。ジェード軍が再び責めてくる可能性は、否定できない・・な。)
独立運動に敗れて3年。リーダーのリディは若くて未熟な上、プラテアード国内の戦力も未だ蓄えられてはいない。
バッツは、あと3年は欲しいと思っていた。
リディが20歳になり、国力もそれなりに成熟すると計算していた。
(今攻められたら、プラテアードは間違いなく制圧され、二度と立ち上がれなくなる。ジェード国王が、一体どういう判断をするか・・・。)
そこで、アンドリューの存在を思い出す。
アンドリューが本当にジェード国王の子であったとして、問題は彼が「どういう立場なのか」ということだ。
ジェード国王に疎まれているのか、それとも、策略の一つで平民の振りをしているだけなのか。
今まで見てきた限り、アンドリューは王子らしからぬ命の危険に何度も曝されている。
今回だって、もしジェリオの助けがなければ、バッツ一人でアンドリューを助け出せたかどうか疑問だ。
(他にアンドリューをいつも見守ってる存在がいたとは思えない。気付いていないだけなのか?いや。俺が助けたとき、それはいつも死ぬ寸前ギリギリのタイミングだった。リディ様と共に濁流に流された時も、今回も。あれ以上放っておく護衛なんて護衛にならないだろうが・・。)
バサバサの髪を乱暴に掻き毟り、バッツは頭をかかえた。
(どうしてもディ様に、報告せねばならないことだろうか。)
ジェリオは、自分の主人に告げることが任務だと言っていた。
しかし、アンドリューが敵国の王子かもしれないという事実は、リディが一番望まない事実ではないのか。
ジェード国王の隠し子の存在を確かめるために、リディはエンバハダハウスに潜入していた。
しかし、潜入当時と今とでは事情が違う。
アンドリューが隠し子だという事実が真実ならば、リディはどんな思いでアンドリューを利用するというのか。
(あんな紋章・・・いっそ、見なければ良かった!)
バッツにとって秘密を心に留めて置くことは、代々王家を守ってきた家柄からか、造作もないことだ。
だが、それは秘密にもよる。
(しかし、いつまでも隠しおおせるものでもなかろう。)
やがてルチアが、荷の入った藁袋を抱えて戻ってきた。
ルチアは藁袋と一緒に、一羽の鳩を抱いていた。
「バッツ。これ、あなたがリディ様に渡した鳩よね?巣に戻っていたわよ。」
バッツはガタッと立ち上がり、ルチアの下へ駆け寄った。
鳩の細い足に、ひも状になった紙縒りが結びつけられている。
「こんな危険な中、よく届いたものだ。」
「アドルフォ様の伝書鳩の血を受けているのだもの。賢いのよ。」
バッツはルチアに鳩を抱かせたまま、足に縛られた小さな紙切れを解いた。
広げてみると、暗号で一言だけ書いてあった。
――― 異常はないか ―――
つまり、バッツが見守っているはずのアンドリューに何かなかったか、ということだ。
総督府とカタラン派の衝突を聞き、心配になって鳩を送ってきたのだろう。
バッツはすぐに返事を書くと、再び鳩の足に縛り付けた。
「さあ。疲れてるだろうが、もう一働きしておくれ。」
鳩を飛ばすために、ルチアはすぐに部屋を出て行った。
アンドリューは、生きている。
アンドリューがカタラン派の拷問を受けていたと知れば、リディはプラテアードへ帰国し、カタラン派を追撃しようとするかもしれない。
アンドリューを陥れた少女を殺そうとするかもしれない。
しかしそれは、今、すべきことではない。
今後どうするかは、アンドリューの回復を待ってからだ。
ジェリオの出方も考慮せねばならない。
アンドリューの身分を確認してからでなければ、次へ動くことはできない。
だから、リディへ向けたバッツの返事は、ただ一言。
――― 異常なし ―――