第15話:現れた影
プラテアード国の英雄、独立運動の王として崇められていたアドルフォの娘 ――
それが、リディの肩書きだ。
しかし、アドルフォが跡継ぎと認めていたとはいえ、実の親子でないことを知っているのは、キールとバッツ、ソフィア、そしてプラテアードにいるバッツの父だけである。
だが、リディがどういう経緯でアドルフォの養女になったかは、誰も知らない。
眠れぬまま朝を迎え、リディは仕事に向かう準備を始めた。
壊れずに残った砂糖菓子は7つ。
リディはそれを包み紙でくるみ、手に持った。
リディが階段を降りる音を聞きつけたように、アンドリューの祖父ハンスは、エントランスに現れる。
この日も、そうだった。
リディは、雑巾を渡されるのと引き換えに、ハンスに包みを渡した。
「おいしいって評判のお店の砂糖菓子です。召し上がりませんか。」
ハンスは包みとリディを見比べていたが、
「一体、何が望みだ?」
と、怪訝そうに訊いてきた。リディは苦笑し、答えた。
「望みだなんて。・・・ただ、珍しいものだから分け合ったほうがいいかと思って。」
愛想の無さは、アンドリューに似ているだろうか。いや、爺さんの方が数段上だろう。
「まあ、くれるというものはもらっておくか。」
ハンスは憎まれ口をききながら、包みを持って自室に引っ込んでいった。
だが、その扉が閉まる寸前。
「・・・わあ・・!」
思いがけず、そんな声が部屋の中から聞こえてきたのだ。
リディは、思わず耳を疑った。
もう、扉は閉まっている。
だが、今の声はもちろんハンスのものではない。
幼い・・・少年の声だ!
リディは足音を立てないように再び部屋に戻ると、屋根にいたキールに言った。
「アンドリューの部屋、いつもよりも近寄って観察してくれ。中に少年がいるようだ。いつもは、いないのかもしれない。今日がチャンスかもしれない。」
だが、再びエントランスに下りてきた時、リディは、キールへの命令が無意味だったことを悟った。
何ということだ。
このハウスは、住人を隠す能力でもあるのか?
エントランスには、ハンスに連れられた車椅子の少年がいた。
とろける様になめらかな、絹糸のようなクリームがかった金色の髪。
湖の色の瞳。
透き通るほどに白い肌。
利発そうな面持ち。
その10歳に満たないだろう少年は、にっこりと微笑み、リディに言った。
「お菓子、ありがとうございます。」
リディは驚いたまま、ハンスに言った。
「この子は・・・?」
「わしの孫。アンドリューの弟じゃよ。」
「!!」
少年は、車椅子から必死でリディに向かって手を伸ばした。
「僕は、アランフェス。アランって呼ばれてます。」
リディは、そっと手を握り返した。
「リディ・バーンズです。」
明らかに年下にしか見えないのに、丁寧な口調になってしまう。そうさせてしまう雰囲気が、アランにはあるのだ。
初対面の時、アンドリューにしろ、ハンスにしろ、とにかく印象が悪かった。それに対し、アランはとても気さくで愛想が良い。
「アランは生まれつき足が不自由でな、自分では歩けんのだよ。それに身体が弱く、外にも行けん。今日は特別具合がいいが、普段は寝ていることも多い。いい医者に診せられればいいが、生憎貧乏でそうもいかない。可哀想な子なんじゃよ。」
「家賃取れば、お金ができると思いますけど。」
「じゃあ、お前さんまず払っとくれ!」
「・・・すみません。」
アランは二人の会話にクスクスと笑いながら、明るく言った。
「今、アンドリューがいなくて、すごくつまらなかったんです。リディ、今度僕と遊んでくれませんか?」
リディは微笑んで、頷いた。
「もちろん。仕事がないときだけですが。」
「わあ、ありがとう!」
ハンスに連れられ、アランは再び部屋へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、リディは固唾を呑み込んだ。
アランの髪も、目も、マリティム王子と同じ色をしている。
しかも凛々しく、賢い面持ち。
足が不自由というのがネックだが、それが王室から隔離した理由かもしれないし、逆に故意に傷つけ、それを理由に隔離したのかもしれない。隠し子とはいえ、王の血をひいている以上、こんなボロ屋で医者にも診せられないなんて考えられないからだ。それとも、やはりエンバハダハウスに王の隠し子なんて、デマだったのか・・・?
フィリグラーナ王女からの贈り物は、思いがけない成果をもたらしたものだ。
いくら病気で寝ているとはいえ、今まで死人のように気配を消していた人間が突然その存在を明らかにしてきたのだから。
そして、もう一つ。
エントランスを掃除する時間のお陰で、住人の多くを直に確認することができるようになった。キールの報告による住人像と実物が、少しずつ繋がってきたのである。
黒い大きな犬と一緒に住んでいる男は、鉱山で力仕事をしているらしい。泊りがけのことが多いため、滅多に姿を見ることはできない。
痩せこけて、髪も髭も伸び放題の男は、集められたゴミをあさりながら生きているという。
売れない俳優だという男は、日常の動作すべてがパントマイムのようだ。
片頬に傷のある男は博打屋で、声などかけられない雰囲気を持っている。
また、一階に住んでいるという若い男はちゃらちゃらしていて、女に貢いでもらっていると自慢した。
こんな得体の知れない男ばかりが住むハウスで、よく無事でいられると思う。
紅顔の美少年アランが、掃き溜めに住む天使のようだ。
新聞社での仕事中、レオンにアランのことを尋ねると、知っていて当たり前だという風な返事がかえってきた。
「何だ、リディは知らなかったのか。まあ、滅多に外に出ないし、アンドリューも話したがらないからな。」
リディは椅子ごとレオンに近づいて、更に突っ込んだ。
「でも、お爺さんもアランも、住んでる気配が全然なかったんだよ?」
「エンバハダハウスは隣人干渉御法度だからさ。多分死体になっても、腐った臭いがハウス中に充満するまで気付かれないだろうね。」
生々しい映像を想像し、リディは思わず眉をしかめた。
レオンは笑って、再びペンを執った。
「近所付き合いが億劫な人間には、うってつけなんだよ。俺も、アンドリュー一家以外とは殆ど面識がないし。エントランス掃除してても、滅多に誰も声かけてこないだろう?」
「女に貢がせてるって自慢してた人はいたよ。」
「ああ、ティムのことか。あいつ、言うほど女にモテるわけじゃないから。話は適当に流しておけば良いさ。」
女の話になり、リディはちょっと小首をかしげた。
「レオンは、どうなのさ?」
「・・・俺?」
「こないだ、金髪の美女と裏通りで会ってたでしょ?」
「!!」
呼吸が止まったのは、レオンだけではなかった。
どういうわけか、新聞社内の社員が皆、レオンの方を一斉に見たのだ。
そのせいか、部屋の中は一瞬水を打ったように静まり返った。
驚いたのは、リディの方だ。
何か、まずいことを言っただろうか?
すると、レオンは作り笑顔でリディに言った。
「それは、通りすがりの女性だよ。」
「・・・そう?」
「そう。」
嘘に決まってる。
あの雰囲気、あの接近具合。本当に通りすがりの女性だとしたら、逆に問題だ。
数日後の夜遅く、キールが報告のため、リディの部屋を訪れた。
何枚かの資料をリディに渡し、キールは押さえた声で話をした。
「ヴェルデの大小30の病院すべてのカルテを調べましたが、アランフェス・レジャンという少年の通院記録はありませんでした。無論、同じ歳くらいで同じ症状の少年のカルテにも目を通しましたが、それらしいものは見当たりませんでした。」
「ソフィアは何か言っていたか?」
「厚いカーテン越しに車椅子の影が動くのを見た程度だそうです。ウッドデッキの下に潜んでいたそうですが、日常会話が少し聞こえただけで、それ以上は何も。」
「ハンスお爺さんはどうだ?出掛けたか?」
「はい。アンドリュー殿がいないため、食料品を買いに時々出ます。」
「薬は?」
「・・・今のところ、薬局へは立ち寄っていません。」
「アンドリューが軍人として給料を得ている以上、いい医者に診せられないまでも、一度や二度は病院へ行っているはずだと思うんだが・・・。」
「普通ならば、そうでしょう。しかし、王の隠し子ならば事情が変わってきます。」
「そうだ。その視点から、もう少し探ってくれ。」
「わかりました。それから、今日はリディ様に、これを。」
キールは胸元からそうっと何かを取り出した。
それはキールの大きな手の中で、静かな羽音をたてて命の鼓動を伝えている。
リディはおそるおそる両手を差し出し、その温かくてこそばゆい動きに目を細めた。
「これを、私に?」
「そうです。プラテアードのバッツから、今日暗号とともに私の元へ届きました。これからはリディ様の伝書鳩として、お使いください。」
リディは慣れない手つきで羽をなでながら、つぶやくように言った。
「バッツは、何て言ってきた?」
「アンドリュー殿は、カタラン派の村に潜入しているそうです。」
カタラン派は、リディ達のフレキシ派と敵対している。過激な思想で、ジェード国からの独立だけでなく、ジェードそのものを制圧しようと目論んでいるのだ。
「それは、一番危険なことではないか?」
「無論、バッツは逐一アンドリュー殿を見守っています。ですが、アンドリュー殿のために、我々フレキシ派がカタラン派と争うようなことだけは、断じてできません。」
「・・・それは、わかっている。」
「少なくとも、アンドリュー殿のお命だけは保障いたします。それは、リディ様のお命の半分だからです。」
「キール・・・。」
「今後のやり取りは、なるべく鳩を使いましょう。マリティム王子の婚礼まであと1ヶ月に迫りました。街の至るところに軍人も警官も見張りに立っています。婚礼が終わるまでは、動きを控えようと思います。」
「わかった。・・・伝書鳩、ありがとう。大事にする。」
「かつてアドルフォ様がお使いになっていた鳩の子孫ですから、良い鳩です。」
「そうか。ありがとう。」
リディは微笑み、キールを見送った。
柔らかな温もりに、リディは久方の慰めを見出していた。
(鳩の名前、つけなくちゃ・・。)
そんなことを考えながら、リディはいつしか安らかな眠りに落ちていた。