第150話:リディのノート
今宵の月は、赤みを帯びている。
緋色のカーテンの隙間から見る夜空には、ところどころ灰色の雲が千切れ飛んでいた。
アンドリューは、ゆっくりと瞬いた。
満月まで、あと2日。
地下深い牢屋に閉じ込めていても、絶対に月の光が届かないという保証はない。皇太后も生まれながらに大陸の王族の掟に縛られてきた一人だ。リディの額に裏紋章が浮かび上がる以上、必ず警備の者を遠ざけるだろう。しかし、監獄から人がいなくなるわけではない。だから、間違いのない奪還ルートを見極めることが必要なのだ。
監獄を偵察させている側近から、バジーリャ少佐の部下達が、スコップや手押し車を持って監獄周辺をうろついているという報告を受けた。アルティスの命令だと思うが、その意図は掴みきれない。リディがいる場所のヒントになればと、アランが探してきた監獄の平面図を見たが、図面には洞窟を監獄として使用するために増築した部分しか描かれていなかった。地下1階には番兵達の休憩室があり、更に下へ降りる階段も描かれているのだが、その更に下にあるはずの牢屋に関するものは、何一つ描かれていなかった。管理上、牢の位置や数を示す資料は存在するはずだ。しかし、それは監獄の執務室の中だけに留められているのだろう。それこそが「地獄に最も近い場所」と例えられ、遥か昔から数えきれない要人を収容してきた「名門」たる所以だ。
アンドリューは、プライベートの執務室へ戻った。
胸元にしまい込んだ鍵を取り出し、机の引き出しをあける。
その引き出しの奥には、複数の鍵が入っていて、そのうちの一つを手に取り、寝室に入った。
寝室の隠し書庫に、コン・クエバそのものの資料がないのはわかっている。
しかし、どこかに、何か記録されていないだろうか。
国王の敵と見なされた要人が数多捉えられていたのだから、何もないとは思えない。
上階まで吹き抜ける書棚を見上げ、視線を左上から滑らせるように走らせる。
が、やはり目ぼしいタイトルは見当たらない。
残る頼りは国王の日記だが、まだ3分の1は手つかずのままだ。アルティスから早急に目を通すように言われたものの、これ以上休まずにいたら精神が狂いだすというギリギリまで働き詰めで、時間がとれない。大臣や貴族達と信頼関係を築くため、会議以外の昼食会などにも顔を出そうとスケジュールを調整しても、タイミング悪く緊急の会議や異国要人の謁見が入り、ほぼ実現できていない。
行き詰まりを口にしてしまうと、自分の甘えを許した気になるから、すべて呑み込んでいる。
足掻きを抱えてこの書棚の前に立つたび、代々の国王達から「お前の代でジェードを潰すつもりか?」と叱責されている気がする。
棚に戻さず平積みにしてある数冊の日記は、洞窟で見つけた古代文字解読のためリディに貸し出したものだ。ジェードとプラテアードに関するページに挟まれた緋色と藍色の刺繍糸は、リディが寝食を忘れて取り組んだ証だ。
何気なく糸を手のひらですくったアンドリューは、あることに気づいた。
緋と藍の糸はすべて1本ずつ挟まっていると思い込んでいたが、所々、緋と藍を編み込んだものが混ざっている。
慎重に、そのページをめくってみる。
編み込みの糸が示す文章は古代文字で、一読しただけでは意味がわからない。
日記と一緒に保管していたリディの解読ノートを開いた。
ノートには、日記の番号とページが示されているから、現代語訳された部分はすぐに見つけることができた。
(これは・・・。)
アンドリューは、近くにあった簡易椅子に腰かけた。
片手間に目を通せる分量ではない、長文だ。
―――ジェードとプラテアードは、洞窟や鍾乳洞が多く存在する点が共通しており、昔から様々な用途で活用してきた。洞窟や地底を探検する専門家も何百年も前から存在し、彼らが鉱物を発見したことで、両国の財政は潤い、特に金を採掘したジェードは破竹の勢いで発展した。その自然の恵みに感謝した国王は、洞窟の中で最も巨大な鍾乳石の柱を神の化身として、宝石を埋め込んで崇め奉ってきた―――
そんな内容が古代文字で書かれているのだから、何百年も昔からこの風習はあったのだろう。そして今も、それは続いている。
(コン・クエバ監獄も洞窟だ。しかも牢屋として使っている穴は地下深くまで何層も続いていると聞く。きっと神の化身として崇め奉っているという鍾乳石も、類を見ない程巨大なものだろう。国の施設でもあるし、神使が儀式に呼ばれている可能性が高い。そうだ、・・・そうか、神使に聞けば・・・!)
アンドリューは立ち上がって呼び鈴を鳴らし、直ちに第一神使を召喚するよう、側近に命じた。
神使が来るまでの間、アンドリューは再びリディのノートを開いた。ここには、他にも手掛かりがあるかもしれない。
国王即位の恩赦を利用してリディを帰国させる見通しがついたため、解読の残りは自分一人でやると伝えたが、あの時、言わなくていい事を言った様な気がする。何と言ったかよく覚えていないのだが、リディの表情がサッと曇ったのは鮮明に覚えている。余計なことを言ったという後悔だけが、未だ喉につかえている。その正体が何か考える間もないまま、解読のことは後回しになっていた。
分厚いノートを端から順にめくっていると、ふと、見開きで描かれた大陸の地図が目に留まった。それは、ジェード国全土を中心に、周辺国との国境が太い線で強調されている。点在するバツ印は、ジェードの王宮、エンバハダハウス、薔薇翡翠とブルーアンバーの眠る峡谷の入り口、そして―――
(あの、採掘場跡か。)
プラテアードのカタラン派に捉えられ拷問で傷を負ったアンドリューが、バッツの家を経て一時身を隠した大理石の採掘場跡。ノートにはバツの印だけで何の位置かの記載はない。日記には位置関係だけが記録されていたのかもしれないが、そこに国王一族を匿うための居場所があることは、隠密の間で密やかに、確実に引き継がれているはずだ。だから自分を育てたハンスは、あの場所へアンドリューを隠した。ハンスは男爵という身分の裏で、ただの側近だけなく隠密の一人として影の王子を守り育てた。
アンドリューは、ハッとした。
マチオだ。
ハンスの弟であるマチオも、軍隊や病院に所属したり薬局を営みながら諜報活動をしていた。ハンスが亡くなる前には、アンドリューを守る役目を引き継ぐべく、秘密裏に交信していたと聞く。古から要人が捕らわれてきた監獄についても、何か聞いていたかもしれない。
アンドリューは廊下で見張りをしていた近衛兵に、マチオを呼ぶよう命じた。
ところが。
「・・・来られない?」
息せき切って戻って来た近衛兵は、頭を下げた。
「はい。」
「どういうことだ?」
「実は、王子様の体調が優れず、傍を離れることはできないと。」
王子様とは、ヴェルデマールのことだ。
「体調が優れないとは?」
「おとといから、高熱が続いているそうです。」
「・・・っ!そのような報告は受けていないぞ!」
「王子様が発熱することは珍しくなく、いつもは陛下に御報告するほどではないそうですが・・・。」
「それで、医師の診断は?」
「それが、まだーーー。」
「まだ?ヴェルデマールはこの国の跡継ぎだぞ!?何をやっているのだ!?」
「主治医は王立病院の院長なのですが、例の病院の惨事で重体です。副院長も重症者達の治療で手が離せず、とにかく院内は混乱状態が続いているもので、医師を手配できないのだと。」
「病院から医師を招かずとも、王宮にはハロルド伯爵がいるではないか?」
「男爵が、それは駄目だと。」
「なぜだ?」
「もし王子様が伝染する病だった場合、伯爵は陛下のお傍にいられなくなるからです。男爵も同様に、陛下との接触は避けねばならないとおっしゃいました。」
アンドリューは、僅かに唇を震わせた。
こんな時に、何たることだ。
病院の惨状が、このような形でも影響してくるとは。
アンドリューは、近衛兵に命じてハロルド伯爵を呼び寄せた。
「すぐに、ヴェルデマールの診察をしてほしい。病名がわからねば、治療の手立てもあるまい。」
伯爵は、マチオの言うことは真っ当であり、国王より王子を優先することへの躊躇いを口にした。
アンドリューは、即座にそれを打ち消した。
「ヴェルデマールはジェードの未来だ。マリティムの忘れ形見だ。絶対に、守らねばならない。」
「陛下のおっしゃることは御もっともです。ですが今、私にはやらねばならぬことがございます。リディ様の事は、一刻の猶予も、」
「何度も言わせるな!ヴェルデマールが、優先だ。」
アンドリューが冷たい言い方をする時、それは選択肢を認めない時だ。
もはや、伯爵が進言する余地はない。
異国の王女より自国の王子を優先しろと、アンドリューは正論を言っている。
ハロルド伯爵は深く頭を下げると、踵を返した。が、その背中に向かってアンドリューが声をかけた。
「伯爵。ヴェルデマールのところへ行く前に、一つ、やってほしいことがある。」
「何でしょう?」
「皇太后は、まだモラガス城か?」
「そのように聞いております。」
「では、早馬をやってくれ。ヴェルデマールが重病であると伝えるんだ。」
「重病?しかし、王子様の診断は未だ―――」
「いいから!俺の言う通りにしてくれ。我々には時間がない。」
アンドリューが無意味な命令をしないことはわかっている。
伯爵は再度頭を下げると、すぐに部屋を出た。
そこへ入れ替わる様に、第一神使が到着した。
「陛下。お呼びでしょうか。」
目の前で膝をついて礼をする神使を見て、アンドリューは思わず胸元で拳を握りしめた。
その胸元には、薔薇翡翠のペンダント。一時リディに預けていたからか、今やリディの分身のように思っている。
(もう少し、・・・もう少し待っていてくれ、リディ。)
アンドリューは、神使に向かって言った。
「教えてほしい。神使達が知っている、コン・クエバ監獄のことについて、すべて―――」
その頃、監獄で身体の自由を奪われたままのリディは、自分の体力の限界を感じていた。
冷えと飢えで、想像以上に加速を増して体力が落ちていく。
体力の落ち込みは、脳の働きも鈍らせる。
この残された体力をどう使うか、考えを巡らせられる時間も僅かだろう。
自分の死に際ばかり考えていた時間もあったが、無意味なことだと気付いてやめた。
取り潰されたプラテアード王家の末裔としてではなく、リディは、革命家アドルフォの娘として命をまっとうしたいと思った。
そのためにできることを考え抜いた結果、リディは、最期の賭けに出た。
自分に銃口を向け続けている番兵に向かい、力の限り声をあげる。
「皇太后陛下に取り次ぎを・・・!最期に、謝罪がしたい。」