第149話 リディの闘い -その8-
ポチャ ・・・ ン
広い洞窟の中に、雫の音が響き渡る。
不規則に削り取られた岩壁の凹凸は、想像以上の反響を生み出している。
リディは、額にへばりつく前髪を振り払う術もないまま、斜め上へ視線を投げた。
天井のひび割れから噴き出す飛沫は、絶え間なくリディの身体を冷やし続けている。
裸足の爪先は、痺れを通り越して感覚を失くし始めていた。
凍る唇から息を吐く。
捕らえられて1日は経っただろうか。
鉄格子の脇にいる番兵は、一定時間ごとに交替している。
だが、一瞬たりとも銃口がリディの方向から外れることはない。厳しい訓練で鍛えられた猛者が配備されていることがわかる。
大層なおもてなしだ。
今やリディの存在価値は、薔薇翡翠とブルーアンバーの峡谷の扉を開ける裏紋章だけだ。だが、このことを知っている唯一の存在は、洞窟で見つけた古代文字の解読を自分一人で行うと言っていた。
(アンドリューは、元々一人で解読できたのだ。私の気力を保つために、やることを与えてくれていたにすぎない。解読できれば、きっとあの危険な道を二人で辿り裏紋章を重ねる必要もない。私の存在価値など・・・とうに無くなっていたのだ。)
期待してはいけないと言い聞かせながらも、心の片隅でアンドリューが助けてくれる可能性を捨てきれないでいる。だが、皇太后の言う通り、アンドリューがリディの恩赦のことで家臣達と揉めているというのであれば、その原因が消滅して何の不都合があるだろう?
アンドリューの蒼い瞳は、時に冷たく、時に切なく、時に―――甘かった。だが、常にその奥には決して揺らがない国王としての冷静さが鎮座していた。そのことを、今こそ正しく理解せねばならない。
と、不意に、止まっていた空気が動くのを感じた。
霞んだ視線の先で、鉄格子の外にいる番兵が姿勢を起こし、敬礼をしている。
リディは目を細めた。
そこに現れたのは、黒い軍服の前ボタンを全開にした、荒くれ隊長―――バジーリャ少佐だった。
少佐は乱暴に鉄格子を握ると、リディの方へ顔を向けた。
「どうだ?一晩たって、頭は冷えたか?」
広い空間に、遠目に見降ろす少佐の声が共鳴する。
リディは、顔を背けた。
すると、少佐の怒号が飛んだ。
「聞こえなかったか?土下座して、謝罪する気になったか!?」
リディは、横を向いたまま唇を引き締めた。
「―――相変わらず物わかりの悪い女だ。」
「・・・」
「理由なんてどうだっていい。とにかく、プラテアードの王女が平伏せば皇太后は満足するのだ!」
バジーリャ少佐は、焦っていた。
皇太后が命じた「穴を塞げ」という面倒な作業など、最初からやる気はない。穴を塞ごうと塞ぐまいと、そもそも穴の場所がわからないのだから、どうとでも誤魔化せる。もし皇太后の遣いが確認に来たら、天井のひび割れから水が噴き出していたとしても、岩から染み出した地下水だと言えばいい。ただ、「やっています」という振りだけはしておかないと、誰が何を皇太后へ告げ口するかわからない。その無駄な労力を、一刻も早く終わりにしたいのだ。
しかし、リディは口を噤んだまま微動だにしない。
「くそっ、」
少佐は、腰に下げていた拳銃を手に取ると、鉄格子の間から腕を出した。
そして。
パ・・・ン!
ハッと視線だけ鉄格子に向けると、銃口から残る煙が見えた。
焼けつくような痛みは、遅れて頬で暴れ出した。
少佐は、意地悪く片方の口端を持ち上げた。
「これで、両頬に傷のある女になったか?次は、耳に穴をあけてやろうか?」
こんな脅しで、リディの意思が変わると本気で思っているのだろうか。
だとすれば、随分と見くびられたものだ。
そう思うと、固まっていた唇が、ほどけるように動き出した。
「私は、理由もなく謝罪はしない。」
「それは王女のプライドか?アドルフォの教えか?」
「どちらでもない。・・・私は、もはやプラテアードの首長ではなく、ましてや王女でもない。今の私は、ただプラテアード人というだけだ。」
「くだらん御託だが、それでいい。皇太后陛下は、プラテアードが憎いのだ。プラテアードという国の存在が許せないのだ。プラテアード人は、みな、ジェードの人間の前に平伏せばいいのだ。それが、敗戦国の定めというもの!」
リディは唇を震わせた。
いつも、いつもジェードは同じ事を繰り返す。法外な税金を納めるのも、村を気紛れに潰されるのも、気紛れに殴られることも、理不尽な理由で捕まり拷問されるのも、何もかも戦争に負けた者の末路なのだ、と。それに抗う発言をすれば、それこそ罪人となる材料にされてしまう。そこから脱出するために、父アドルフォはジェードと戦い、そしてまた敗れた。
プラテアードは、人として生きる権利と、どの国家にも干渉されない自由がほしいだけだ。人間として生きる上で当然に認められるべき権利と自由を奪わないでほしいと言っているだけだ。
だが、ここでこの男に何を語っても、何も通じないだろう。
無駄な問答をして体力を奪われることは、今の最善の策ではない。
リディは、言った。
「下がって、皇太后に告げられよ。プラテアード王家の末裔は、この洞窟で朽ち果てる道を選んだと。」
「くっ・・・!たかが土下座ぐらい、さっさと終わらせればいいものを!?」
「私が何者でなくても、ここで土下座をすることは、プラテアードの永遠の敗北を認めることだ。祖国への裏切りだ。それもわからぬ男を遣いにやるなど、皇太后の程度もたかが知れている。」
「くだらぬ意地を張っていると、後悔するぞ。」
「そなたの価値観は、私のそれとは違う。それだけだ。」
パンッ
次の銃弾は、リディのふくらはぎを掠めた。
二つ目の傷口を確認した少佐は、低い声で笑った。
「この劣悪な環境で傷を放っておくと、血肉が腐るんだ。・・・せいぜい、苦しむがいい。」
少佐が立ち去ると、リディは知らずに拳を握りしめていた。
覚悟はしている。
しているが、まだ、捨てたくない。
生きて、もう一度プラテアードの地を踏むその瞬間を。
多くは望まない。
そう考えた時、自分が何を望んでいるかわかった。
瞼の裏に浮かぶのは、痩せた土地を懸命に耕し麦を育てる民の姿。
ジェードに放火された村から焼き出され、行き場を失った民が見上げていた、空の色。
ヒースの丘を照らす、金色の月。
そして、人々の心を支えた、アドルフォ城の頂。
焼失した城の跡地に、この骨を埋めたい。
今度こそ終わりだと、本能が感じ取っている。
多くの人々に助けられ、生かされてきた命を無駄にしてはならないと思う。
だが、流石に成す術がない。
知らずに流れる涙が、頬の傷口に染みて、首筋に滲んだ。