第148話:扉の色
病院の内外は、近衛兵達の警備で物々しい雰囲気に包まれていた。
セラーノスが兵士の案内で病院の奥へ進んでいくと、銀のワゴンを重そうに押しているシンシアに出会うことができた。
「伯爵夫人。」
静かな声で呼び止めると、シンシアは歩みを止めた。疲れの色がありありと現れた顔が、驚きに変わる。
「いつお戻りに・・?皆、大変心配しておりました。」
「今、王宮で陛下や伯爵に会ってきたところです。ネイチェルの容態を・・・聞きに来たのですが。」
「まだ治療が続いております。御案内しましょう。」
セラーノスがワゴンの上に視線をやると、そこには銀製の茶器の他、白い布巾で覆われた食器類があった。
「私にできることなど大してございません。これはお医者様達に召し上がっていただく軽食です。」
ジェードの貴族の中で、召使のような仕事を進んでやる女性はシンシアぐらいなものだろう。だからこそ前王妃フィリグラーナには嫌われていたのかもしれない。
セラーノスが運ぶ役割を買って出ると、シンシアはその隣をゆっくり歩きながら、昨日からの出来事を言葉少なに語った。
様々な思いがあるためか、言葉と言葉の間に不自然な間が入る。しかしリディを引き留められなかった自責の念が強すぎて、連れ去られた場面を語る時には「私が悪い」と何度も繰り返した。
そんな伯爵夫人に、今、リディがどこにいるのか伝えてもいいものだろうか。
牢獄のどこにいるのかも、今まだ生きているかさえ確証もないのに。
ほどなく夫人の足がとまり、セラーノスがそこで見たのは、広い廊下の壁際で車椅子に座っているソフィアだった。
ソフィアは金色の長い髪を肩に垂らし、鼻筋の通った横顔で、治療室と思われる部屋の扉を凝視している。口元で合わせる両手は青白く、めくれた袖からは白い包帯がのぞいていた。
「麻酔から覚めてから、ずっとここにいらっしゃるのです。足の手術とはいえ、座っている事すらきつい状態のはずですが、看護師長様の特別な御計らいで、ここへ。」
セラーノスは、改めてソフィアの様子を見つめた。
時折、苦し気に瞼を閉じ、祈る様に手を合わせて息を吐く。
よく見ると、長い睫毛は雫を纏っていた。
「僕は・・・少し、彼女と話をしてきます。」
「わかりました。私は軽食を届けがてら、最新の情報を集めて参ります。」
シンシアが去り、改めて色彩のない静かな廊下を見渡すと、ソフィアの金髪と肩のショールの碧色だけがやけに冴えて見えた。まるでネイチェルが生死の狭間を彷徨っていることを匂わせているかのような光景に、思わず背筋が凍る。
しかし、ネイチェルは絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせ、セラーノスは静かに、しかし驚かせない様に気配は感じさせながら、ソフィアの隣に立った。
「・・・ネイチェルは果報者だね。」
「・・・。」
「あなたに涙を流してもらえる男なんて、この世で数える程もいないだろうに。」
ソフィアは、乾いた下唇を噛みしめた。
セラーノスの声は、なお優しく、続く。
「でも、この廊下は寒すぎる。ネイチェルの意識が戻った時、あなたが倒れていたら、今度は奴が自分を責めることになるね。」
すると、ソフィアは前を見つめたまま、言った。
「・・・違うの。」
「え?」
「私が泣いているのは、ネイチェルのためとか、そういうことではないの。」
セラーノスは、ソフィアの隣に腰を降ろすと、治療室の扉に視線を向けた。そうすると、今度は上からソフィアの声が聞こえて来た。
「私は・・・自分が信じて来た事と真逆の事を考えてしまう自分が、許せないの。」
「どういうこと?」
「数年前、私はプラテアードで医師フィゲラスを刺したことがある。出血多量で輸血が必要と言われたけれど、私は血の提供などとんでもないと言った。プラテアードの血がジェードの血に混ざることなどあってはならないと叫んだ。その気持ちは今も変わらない。なのに――――」
ソフィアは、前髪と一緒に額を抱えた。
「なのに私は、ネイチェルのために自分の血を使ってくれと叫んでいた。プラテアードとか、ジェードとか、国のことなどどうでもいいと思った。ネイチェルの命が助かるなら、どの国の血だろうと関係がないと思った。あれ程・・・!」
そこまで言って、ソフィアは咳き込んだ。
息が荒い。
セラーノスが慌ててソフィアの背を摩ってやろうと手を伸ばすと、それを拒絶するかのように、肩がビクリと震えた。
ソフィアは小さな呼吸を繰り返して、再び話し出した。
「私は、ジェードを憎んでいる。私の両親を殺し、アドルフォ様を殺し、首都を焼け野原にした。植民地にしてからは私達を奴隷のように扱い、お金も食料も搾り取り、気に食わないという理由で当たり前のように村一つ簡単に焼き潰すジェードの人間を、プラテアードは絶対に許さない。なのに、なぜ?」
ソフィアの瞳から、再び涙が零れた。
「ジェードの人間に借りは作りたくないから?ジェードに助けられるなんて、プラテアードのプライドが許さないから?色々考えたわ。でも、わからない。ただ、こんな―――、リディ様を守れなかった私などのために、犠牲になっては駄目だって、思って・・・。」
頬の赤さは、悲しみではなく悔しさの色なのか。
膝を覆うベージュ色の毛布に、ぼたぼたと染みができていく。
セラーノスは何と言っていいかわからず、ただソフィアと同じ方向を見つめ続けた。
ソフィアとネイチェルが、アンドリューの命令で秘密裏に何か動いていたことは気付いていた。一度、豪華なドレスを纏ったソフィアを抱きかかえたネイチェルを見かけた時はひどく驚いたが、とにかく二人はある目的のために心を揃えていたのは確かだ。その絆が情となって、非情に切り捨てられないことが、ソフィアには許せないのだろうか。
ほどなくして人の気配がした。
少し離れたところに、シンシアの陰が見える。
セラーノスはゆっくり立ち上がると、小声で言った。
「リディ様の居場所は、突き止めてある。」
「・・・!一体、どこに?」
セラーノスは、人差し指を軽く唇にあてた。
「これから救い出すための作戦会議を開く。リディ様のことは、アンドリュー様が必ず何とかする。だからネイチェルの事は、あなたにお願いしたい。」
ソフィアは、セラーノスを見上げた。
「でも私には、何も・・・。」
「絶対に助かると信じて、僕たちの分も祈ってほしい。ネイチェルが目覚めた時、真っ先に笑顔を見せてあげて?傍に誰もいないのでは、奴もがっかりするだろうし。」
セラーノスのウェーブがかった前髪が、柔らかく揺れた。
ソフィアが返事をする間もなく、セラーノスはシンシアの方へ向かって踵を返していた。
その二人が足早に出口へ向かって小さくなる姿を見て、ソフィアは拳を握りなおし、前を向いた。
助かるはずだ。
ネイチェルも、リディも。
そのためには、ジェードを信じるしかない。
今頼れる医師も、アンドリューも、アンドリューの側近達も、皆、ジェードの人間だ。
思えば、人の命に国境はない。
国によって選り分けているのは、人の心だ。
意に沿わない相手を敵と決めるのも、人の心だ。
そしてたいがい、それらは権力を持ったほんの一握りの人が決めたことだ。
アドルフォは、自分達の自由を掴み取るために、ジェードと戦わなければならないと言った。それが、プラテアードの尊厳を取り戻し、人として当然の権利を得るために必要なことだと言った。それを正しい事だと信じて疑ったことは無い。今だって、正しいと思っている。だから―――、
だから、わからない。
ネイチェルの無事を祈ることは、敵の無事を祈ることで。
それは、人の正義ではあっても、プラテアードの正義ではない。
ネイチェルは、ソフィアの盾になって撃たれた。
それは、ジェードの正義ではないだろう。
(正義って・・・、何?国によって違う正義って、何?正義は人の価値観ではなく、人にとって普遍的なものであるべきではないのだろうか。)
プラテアードにいる間は、決して疑わなかった自分の信念。ジェードに来なければ気付かなかった事が、あまりにも多すぎる。自国にだけ留まっていれば、自国で教えられた思想だけしか知らないから、疑うこともなかったろう。国を統率するには都合がいいが、広い視野で俯瞰すれば、それはとても危険なことではないのか。
アドルフォの言っていた事は、何一つ疑いたくない。
アドルフォを盲信していた自分に、仲間に、疑問を感じたくない。
この病院の人達は、リディのことも、ソフィアのことも、プラテアード人だと差別せず大切に扱ってくれた。そのことを偽善だと笑い飛ばせたら、どんなに楽だろう。
相変わらず閉ざされたままの扉の色が、ソフィアには、唯一境界の無い色に見えた。