第147話 リディの闘い -その7-
厚い雲に覆われた夜空では、月明かりの兆しさえ掴めない。
セラーノスは、農家で借りたランタンの灯りを頼りに、馬を走らせていた。
天然のウェーブがかった茶色の髪が、頬を切るような風になびく。
一秒でも早く、アンドリューへ報告せねば。
リディを救い出すには、仲間の協力が必要だ。
その気持ちが、必要以上に上半身を前のめりにさせ、手綱を短く握らせた。
――― 昨日の午後。
王立病院の正門を、狂ったように通り抜ける二頭立ての馬車を見たセラーノスは、思わず馬車後方のランブルシートに飛び乗っていた。
貴族仕様の黒に金縁の箱型ボディだが、紋章は描かれていない。
窓はすべて黒のカーテンで覆われている。
これだけの大きさであるにも関わらず、本来従僕が立つはずのランブルシートが空というのは不自然だ。
セラーノスが身を屈めて耳を澄ませるとと、ほどなく中から声が聞こえてきた。
――― どこへ向かっている?
――― 皇太后の召喚とは嘘だったのか?
くぐもってはいるが、間違いなくリディの声だ。
危険を察知して人集めに奔走していたセラーノスは、病院で何が起こっていたか知らない。
王宮の敷地内に点在する仲間へ声をかけ戻ってきたところ、この異常な馬車を目にした。
自分の直感が正しかったことと同時に「最悪の事態」に陥っていることも悟る。
誰が迎えに来ようと、誰の命令であろうと、決してリディを引き渡してはならないと言われていた。
病院職員もネイチェルもソフィアも、皆その指示通りに動いていたはずなのに、リディは今、ここにいる。
馬車が向かう先の見当もつかず、セラーノスはとにかく自分の存在が敵に気付かれないよう徹した。
馬の交換時は素早く飛び降りて近くの茂みに身を隠す。
そしてまた、馬車が出発したところを追いかけ、飛び乗る。
長い時間を経て、夜になってようやく馬車が辿り着いた場所がわかると、セラーノスは息を呑んだ。
王家に仕える者として、当然コン・クエバ監獄の存在も、位置も知っている。
そして、馬車からリディを突き落とし奴隷の様に扱う男が、「荒くれ隊長」として名高いバジーリャ少佐であることにも驚いた。
リディが潜んでいたヴェルデ市内の薬局を監視し建物を荒らしたバジーリャ少佐は、新国王アンドリューの命令で、遥か遠い国境の警備隊へ飛ばされた。二度と首都ヴェルデに足を踏み入れられない様にするための但し書きも付されていたはずだ。
それがなぜ、ここに?
セラーノスは息を詰めて、背後からリディを救出するチャンスを待った。
しかし、リディの背中には常に銃が押し付けられている。
二人の大男が両脇をかため、逃げる隙を与えない体制も手慣れている。
セラーノスは身の軽さにも武術にも自信があったが、二人一度に仕留められなければ、リディの命が保障できない。
リディは小屋のような建物の中に入れられ、数分後に出てくるや否や外で待ち構えていた4名の看守に囲まれ、監獄の内部へと姿を消した。さすがに、蟻一匹中に入れない厳重な警備が成されている監獄に忍び込むことはできない。セラーノスは王宮に戻る前にバジーリャ少佐の動きを見届けて置きたいと考え、再び馬車のランブルシートに身を埋めた。
ほどなく小屋の中から現れた少佐がエスコートしたのは、一人の女だった。
女は頭部を黒いショールですっぽりと覆い、黒いドレスを身に付けている。
女は自らドレスのドレープを束ねると、素早く馬車に乗り込み、少佐も後に続いた。
馬車が走り出し、セラーノスは息を凝らして馬車の中の音を必死で拾った。
何やら会話をしている様子だが、車輪の音にかき消され、内容は全くわからない。
夜道を照らすランプの灯りだけでは、景色を掴むことができない。
30分程後に馬車が停まり、セラーノスが目にしたのは、鈍色の大きな門だった。
番兵が御者に身分を訪ねると、馬車の中のバジーリャ少佐が大声をあげた。
「皇太后陛下のお出ましだ!早々に門を開けられよ!!」
馬車が再び走り出す瞬間に、セラーノスは静かに飛び降り、樹木の陰に身を隠した。
番兵に見つからない内にその場から離れ、改めて門扉の方向を見た時、馬車に乗っていた女が間違いなく皇太后か、もしくは皇太后に近しい女であることを確信した。
この時間ではシルエットしかわからないが、ここは確かに皇太后のお気に入りの別荘、離宮モラガス城。皇太后の許可した者しか出入りを許されない、まさに「皇太后の庭」である。
アンドリューの思惑どおりにリディを帰国などさせないという、皇太后の執念か。
皇太后にとってアンドリューは、今なお、マリティムから王位を奪った憎い次男なのか。
王位継承を巡る骨肉の争いなど、実際には生ずる気配すら無かったというのに。
農村の朝は早い。
黒い丘の上にオレンジの灯りを見つけると、セラーノスは金貨を渡して馬を借り、王宮までの帰路を急いだ。
東の空の藍色を緋色が押し上げ始めた頃、セラーノスはヴェルデの市街地を抜け、王宮に向かう丘を駆け上がっていた。
徹夜で散々暗闇を凝視し続けた目に、朝を告げる光は眩しすぎる。
思わず反対方向へ視線を反らすと、林の奥に王宮の病院が見えた。
リディが連れ去られた後、ネイチェルやソフィアがどうしているのか。
思わず少し速度を緩めたその時だった。
「セラーノス!」
咄嗟に振り返ると、そこには庭師の恰好をした老齢のフェルナンドがいた。
茂みの陰にいたフェルナンドは、馬から降りたセラーノスを押し倒さんばかりの勢いで飛びついた。
「心配しとったぞ!」
フェルナンドの皺だらけの目が、赤い。
セラーノスは、フェルナンドを安心させるように小さな肩を支えた。
「ごめん、フェルナンド。実は―――」
全て答える前に、フェルナンドは素早く視線を左右へ走らせた。
「ああ、今は何も言わんでいい。とにかく陛下のところへ急ごう。」
「フェルナンド、今、一体何がどうなっているの?」
しかし、フェルナンドは乾いた唇を引き締めたまま、何も言わなかった。
その様子は、セラーノスの不安を最大まで煽った。
リディが取れ去られたことは勿論重大事態だが、それ以外にも良くない事が起こっているのではないか。
想像するだけで、背筋が凍る。
国王の公の執務室に繋がる待合室に通されると、そこにはハロルド伯爵とアランが待機していた。
プライベートの執務室にいることが多いアンドリューがこちらにいるということは、仲間内で動くだけでは事足りない事態である証拠だ。
「セラーノス!」
アランが足を引きずりながら近寄ってきたため、セラーノスはすぐに自ら近づき、抱きとめた。
「心配かけたね?アラン。」
アランの絹糸のような金髪を撫でながら、セラーノスはハロルド伯爵へと視線を上げた。
「陛下へ伝えてください、リディは、コン・クエバ監獄にいます。」
「!!」
アランが、セラーノスの腕の中から顔を上げて唇を震わせた。
「コン・クエバ・・・?」
伯爵も、疲れて小さくなっていた目を大きく見開く。
「とんでもないことです!リディ様はまだ安静が必要なお身体です。とても監獄のような環境に耐えられる状態ではありません。」
セラーノスは頷く様にして、続けた。
「この件の首謀者は皇太后とバジーリャ少佐で間違いないと思います。慎重に動く必要が、」
「―――それは、本当か?」
突然、執務室から白いシャツ姿のアンドリューが現れた。
疲れた額にかかる銀髪の奥で、蒼い瞳だけが爛々としている。
セラーノスはアランを優しく解放すると、アンドリューの前に跪き、深く頭を下げた。
「リディ様をお守りできず、申し開きの仕様もございません。」
「詫びなど要らぬ。それより、報告を。」
セラーノスは、昨日の午後から今朝までに見たもの、聞いたものを手短に伝えた。
話を聞き終わると、ハロルド伯爵は苦い表情で言った。
「バジーリャ少佐は、二度とヴェルデに戻れぬ様、国王の名で通達してあります。」
「皇太后の力は国王より強いという証明だ。俺の・・・力不足だな。」
肩を落とすアンドリューに、いつもの覇気は見られない。
どんなに困難な状況に陥っても、それに立ち向かう姿勢を貫いていたアンドリューが、ここまで弱気な表情を見せるのは珍しい。
セラーノス達は、こんな時こそ自分達の力を結集してアンドリューの役に立たねばと強く思った。
いつもは周囲に支えられる側にあるアランが、暗い雰囲気を壊すように真っ先に声を上げる。
「コン・クエバの資料は、王宮の図書室で見ました。見取り図も載っていたはずです。リディを助け出す計画をたてましょう。」
伯爵も、それに相槌を打つ。
「すぐに資料を集めてきます。それから、数名を偵察へ行かせるよう、手配します。」
それを聞いたフェルナンドが、前のめりになった。
「じゃあ、わしが2、3人集めて―――」
「いえ、それは待ってください!」
アランが、腕を伸ばして制した。
「こちらの動きは、決して相手に知られてはいけません。コン・クエバが『地獄に最も近い場所』と怖れられる理由の一つは、すべての牢に専任の兵士がついていて、奪還される気配が少しでもあれば囚人を撃ち殺してよいことになっているからです。」
眉根を硬くするアンドリューを見たセラーノスは、立ち上がった。
「とにかく、作戦会議が必要ですね。フェルナンドと一緒に皆を呼んできます。」
アンドリューと足の不自由なアランを残して部屋を出たところで、不意に伯爵がセラーノスの肩を掴んだ。
「一つ、お願いが。」
「何でしょう?」
伯爵の表情は固く、嫌な予感が背筋を走る。
「病院の様子を見てきていただきたいのです。」
「・・・わかりました。ネイチェルもまだ病院にいるのであれば、呼んできましょう。」
それを聞いた伯爵の視線が、下を向く。
見れば、フェルナンドも背を向けて項垂れていた。
セラーノスの胸中に、不安よりも強い焦りが生じた。
「・・・何が起きているのか、教えてください。」
伯爵は、灰色の眉を顰めたまま、重い口を開いた。
「ネイチェル殿は・・・、危篤なのです。」
「え?」
思いがけない単語に、セラーノスの呼吸が止まった。
伯爵の顔を凝視しているつもりだが、何を見ているのか脳が捉えられていない。
「リディ様を連れ去ったのが、バジーリャ少佐とおっしゃいましたね?奴は仲間と共に病院を荒らし、ネイチェル殿を撃ったのです。」
「そんな・・・!」
ネイチェルが危篤。
リディも連れ去られた。
いつも強気なアンドリューが弱音を吐くのも、無理はない。
ネイチェルと軽口を叩き合っていた平穏な日々が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
駄目だ。
もしネイチェルとセラーノスの役割が逆だったら、セラーノスが撃たれていた。
こんなところでネイチェルに何かあったら、側近の誰もが己を責めることになるだろう。異国へ発ったレオンだって、そうだ。
セラーノスは、自らを奮い立たせるように顔を上げた。
「すぐ病院へ行ってきます。病院から何も知らせが来ていないということは、ネイチェルは大丈夫だということですよ。それを、確認してきます!」
胸元で握った拳の震えを振り切る様に、セラーノスは走り出していた。