第143話:リディの闘い -その3-
リディは後ろ手に縛られ、こめかみに銃を押し当てられたまま、病院の裏口を出た。
そこには貴族用の馬車が停まっていて、有無を言わさず押し込まれる。
「!」
突如、目の前が暗くなった。
布で目隠しをされたのだ。
バシッ
何かを強く打つ音と同時に、馬車が猛スピードで走り出した。
身体が大きく揺れ、椅子の上に横倒しになる。
小刻みな振動が、耳から脳の髄を揺らす。
視界を失ったリディは、深く呼吸をしながら耳を澄ませた。
車輪が小石を弾く音。
狂ったように地を踏み叩く蹄の音。
身体が左右へ揺さぶられる度に、カーブを曲がったのだとわかる。
さらに、下方向へ身体をもっていかれそうになり、思わず下肢に力を入れた。
(!?)
想定外の成り行きに、喉がクッと鳴る。
(・・・坂―――、下ってる?)
皇太后がいる宮殿へ向かうなら、緩やかな坂を上らねばならない。
しかし今、この馬車は明らかに坂を下っている。
リディは、顎を上げた。
「一体、どこへ向かっているのだ!?」
返事は、ない。
荒くれ隊長のむせかえる様な体臭も熱量も、確かに馬車の中に存在している。
リディはもう一度、言った。
「この馬車は坂を下っている。方向が真逆ではないか?皇太后陛下の召喚とは嘘だったのか!?」
すると、隊長が鼻先で小さく笑う息遣いが聞こえた。
リディは奥歯を噛みしめ、もう一度言った。
「この馬車は、どこへ向かっている!?」
「・・・我は嘘などついていない。この馬車は、皇太后の下へ向かっている。」
リディの焦燥感に反比例するような落ち着いた低い声。
何の問題もないという態度。
リディは、見えない景色を必死に感じ取ろうと、横倒しになったまま、首を上へ伸ばした。
冷たい風が、額をなでる。
ガタガタと大きく揺れるのは、ヴェルデ市街の石畳を走っているからか。
だが、街が最も活気づく夕刻の時間帯だというのに、人々の喧騒は耳に届かない。
かと思うと、突如、車輪の回転が滑らかになった。
舗装された道。
国家の資金を投じて整備された道は、速やかに人や物を移動させるためのルートだ。
リディが知るヴェルデ近郊のルートは3つ。
一つは、物流の要所である運河へ向かう道。
もう一つは、国境へ向かう道。
そしてもう一つは―――
馬は、止まることを忘れたかのように地面を蹴り続けている。
蒸れた草の青い臭いがする。
頬に当たる風が冷たく感じるのは、近くに川が流れているからか。
馬の体力から、途中で馬を代えない限り、国外へ出るとは考えにくい。
しかし。
どんなに外の空気を嗅いでも、どんなに耳を澄ましても、リディの知っている「ヴェルデ」の記憶にはたどり着かない。
新聞記者だったレオンの小間使いとして、朝から晩まで飛び回ったどの町でもない。
行方不明になったアンドリューを捜索するために駆け回った、どの森でもない。
濡れた土の臭い。
何かを警告するかのように囀る鳥の声。
風の通り道ができる時の、草原の唸り。
木の葉が擦れ合うさざめきが、徐々に大きくなる。
――― 知らない。
知らない・・・
こんな道を、私は知らない・・・!
薔薇翡翠で飾られた扉の奥では、要人が集まって国王即位に伴う恩赦について話し合いが行われていた。
会議が長引いている理由は、プラテアードの人質であるリディの無条件解放である。
アンドリューは、プラテアードにおけるリディの求心力はもはやゼロに近く、人質としての価値はないから「無条件」での解放を求めた。それに対し、古参の大臣達は反対し、相応の見返りを求めるべきと主張して譲らないのである。
こうなることを当然予測して事前に根回しをしていたはずだが、大勢が集まると互いの顔色を窺って、首を縦に振らない。次期国王の座を狙う遠縁のウイリアム卿の一派に期待はしないが、それ以外の連中は、この場に同席する資格さえない皇太后の御機嫌を未だに気にしているのか。イサベルとの婚約解消は、官僚や王立軍幹部の同意を得て帰国まで漕ぎつけたが、「イサベルを確実に帰国させるため皇太后には事後報告」という約束には不満を持っていた者もいただろう。
アンドリューは歯痒い思いを噛みしめながら、再度、無条件の解放を求めた。
と、その時。
固く閉じた頑丈な扉が、連続で5回、叩かれた。
この回数は、火急の用件を知らせるためのものだ。
室内に緊張が走り、全員の視線が扉に注がれる。
入り口脇に控えていたアランが、アンドリューの瞬きを視認して、扉を開けた。
外にいたのは、息も切れ切れに走ってきたと思われる若い士官だった。
少尉の肩章を身に付けた青年は二、三度咳き込んだが、自分の役割を果たすべく姿勢を立て直してアランへ長めの耳打ちした。
長年マリティムの影武者を務めてきたアランは、このような場での振る舞いを心得ているはずだが、その眉間には知らずと深い皺が刻まれていた。
その変化に、真っ先に反応したのはアンドリューである。
「構わぬ、アラン。少尉、その場で全て報告せよ!」
若い少尉は、弾かれたように踵を鳴らして敬礼した。
「申し上げます!先刻、皇太后の使いを名乗る男3名が院長を訪問する名目で王立病院に入り込み、院長他数名を襲い、重症者が出ております!襲った3名の男のうち2名は負傷し動けなくなっているところを捕らえましたが、首謀者と思われる男1名は逃亡中です!」
ざわめく会議室の一番奥にいたアンドリューは、低い声で言った。
「他には?」
「・・・は?」
「他に、異常は!?」
国王の血走った目を見た少尉は、恐怖で首を縮めた。
「――― 私が上官から命じられた報告事項は、以上であります。」
アンドリューは腕を大きく振りかざした。
「会議は一時中断する!国王の執務室を本部とし、各自速やかに本件に関する情報を収集して報告せよ!ハロルド伯爵は本部で指揮をとれ!アランは詳細に記録をとり、時系列でまとめておけ!」
急ぎ足で出て行く大臣達に続くようにアンドリューも会議室から出ようとすると、背後からウィリアム卿の声が飛んだ。
「どちらへ、陛下!?」
アンドリューは、肩越しに振り向いた。
「病院へ状況を確認しに行く。」
「陛下自らですか?」
「そうだ。」
すると、ウィリアム卿は隣に座っていた大公と顔を見合わせて失笑した。
アンドリューの命令に従って動く気のない人間が、5~6名残っている。
「部下に情報収集させるのですから、陛下はいつでも会議を再開できるよう、待機されるのが普通では?」
「それまでに小一時間はかかる。病院への往復と状況の確認には十分な時間だ。」
「首謀者は逃亡中なのですよ?その辺に潜伏してるやもしれません。まさかジェード国王ともあろう方が、その程度の危機管理もできぬとは思いませぬが?」
アンドリューは、唇の端を歪めた。
「少尉の報告では、肝心なことが何もわからない。護衛は十分につける。」
「その『肝心なこと』を確認するよう指示なさったのでしょう?後は待てばよろしいのです。それとも―――」
「こうしている間にも!次の犠牲が出るかもしれない。それを防ぐために最善を尽くしたい。会議は3時間後に再開。それまではどうぞ御自由に!!」
腹立たしい気持ちと焦りで音を立てて扉を閉めると、アンドリューは足早に目的の方向へ歩き出した。
脳の一部が麻痺した様に、思考がとまっている。
心臓は大きく脈打ち、非常事態を本能へ訴えかけているというのに、何故こんなに冷静に足を動かしていられるのだろう?
予測していたことだ。
恐れていたことだ。
だからネイチェルとセラーノスに警告した。
それが現実になったのだ。
驚くことはない。
・・・そう、驚いてはいない。
しかし、想定以上の状況になっている様子なのに、その実態がわからないことへの苛立ちが全身の動きを鈍くしている。
気付くと、国王のプライベートルームに戻っていた。
部屋の前には、番兵と共に、平民の身なりをした男が立っていた。それは側近の一人、フェルナンドだった。初老のフェルナンドは普段庭師として、王宮の敷地内で情報収集したり、急ぎの報告を伝達する繋ぎ役として活動している。爵位を名乗って表舞台に出た側近達とは逆に、今でも裏方に徹している側近の一人だ。だから、フェルナンドが王宮内で直接アンドリューの前に現れるなど、原則あり得ないことだった。番兵は、フェルナンドが国王の側近である証拠の「薔薇翡翠のクレスト」を持っていたことから、部屋の外で一緒にアンドリューの到着を待っていたのである。
フェルナンドは庭師用のベージュのキャスケットを胸元に抱えて、アンドリューに深く礼をした。
「申し訳ございません、陛下。私なんぞがここへ出張ってはならんのは百も承知ですが―――」
アンドリューは番兵に「俺の側近だ、大丈夫。」と言うと、フェルナンドの腕をとって部屋の中に入れるや否や、
「何が起こっている?」
と、フェルナンドを壁に追い込み、日焼けした顔を覗き込んだ。
「言ってくれ、早く!」
フェルナンドは一瞬眉を顰めたが、自分の役割を果たすべく、口を開いた。
「いつもどおり庭の手入れをしていたところ、セラーノスが現れ、側近達を集めて病院へ来るよう言われました。かねて決めていた伝達網で連絡をとり、私は3名の側近と病院へ行きました。病院の外にはハロルド伯爵夫人がいらして、その話によると―――」
アンドリューは、覚悟を決める様に息を呑んだ。
「皇太后の使いを名乗る男3名が病院内へ入り込み、リディ様の引き渡しを求めました。それに応じなかった案内役の青年と院長が刺され、重症です。そこへ応戦したソフィア殿も足の腱を切られ、ネイチェルは銃で撃たれ・・・、危篤状態です。」
「!・・・ネイチェルが・・・?」
それだけでも衝撃だったというのに、更にフェルナンドの報告は続いた。
「これ以上犠牲は出せないと、リディ様は男の要求に従い、連れ去られた様でございます・・・!」
アンドリューは、震える唇で尋ねた。
「セラーノスは・・・?セラーノスは今、どこにいる?」
「実は、セラーノスの行方もわからないのです。リディ様を追っていると信じたいのですが・・・。」
アンドリューはフェルナンドから手を離すと、知らずに窓の外を見ていた。
瞳が、現実逃避している。
「ネイチェルは今、どういう状態なのだ?」
「医師達が懸命に治療しておりますが、何せ他にも重傷者がおり、輸血も多量に必要になっておりまして、とにかく病院内は大変なことになっております。」
アンドリューは、グッと顎を上げた。
色々思うところはあるが、今はただ、行動するしかない。
「御苦労だった、フェルナンド。何が何でも、ネイチェルを助けねばならない。そのためにできることは、全てやる。---その前に、一つだけ確認しておかねばならないことがある。それが終わったらすぐに病院へ向かうから、エントランスに馬を用意して待っていてくれ。」