第141話:リディの闘い -その1-
アンドリューが急き立てる様にレオンとイサベルをヴェルデから出したのには訳がある。
この婚約解消の一件すべて、アルティス皇太后に無断で進めてきた。
アルティスに知られたら最後、明日にでも強引に結婚式を挙行してしまうだろう。
いかにカタラネスの一行が肩身の狭い思いで密やかに帰国の準備をしていたとしても、館から王宮の門を出るまでの時間は、兼ねてより怪しんで見張っていた連中にとっては事態を把握するに十分すぎる。
道中、有事に備え、できるだけ小回りが利くよう、イサベルが嫁入り道具に持ち込んだ可愛らしい家具や百着以上のドレスは「後日落ち着いたら送り届ける」ことにして、すべて館に置いて行かせた。警護に付けた小隊は近衛隊の中でも精鋭揃いで、小隊長はアンドリューの側近の一人である。国境の警備強化も万全で、考え得る限りの対策をして送り出したつもりだが――― 。
王宮から目的の国境を越えるまで、休憩を節約してどんなに急いだとしても1日近くかかる。
幸いアルティスは朝が弱く、緊急時であっても起こしたら最後、手が付けられない程癇癪を起すため、家臣達は何があってもアルティスが自ら起きるまで待たねばならないと聞いている。無論、起きた後に報告すれば「もっと早く報告しろ」と、怒鳴りつけられるのも必至なのだが――― 。
(とにかく国境さえ越えてしまえば、アルティスの権力外だ。ジェード国王の代理である証書を持つレオンに、他国の者が手出しはできまい―――。)
アンドリューは自室から東の空が薄い緋色に染まりかけた様を見届けて、祈る様にカーテンを閉めた。
病院の控室で仮眠をとっていたセラーノスが飛び起きたのは、窓ガラスの微かな振動に気付いたからだった。
掛け時計が示す時刻は午後2時。
2階のカーテンの隙間から注意深く外の様子を窺えば、いつもと変わらぬ病院の裏手の景色。敷地を取り囲むように植えられた木々と芝生だけで人影は無い。が、ここからでは正面玄関の様子はわからない。
(先程の振動は確かに複数の馬が土を蹴る時のもの。病院を訪れる患者の馬車とは違う。)
セラーノスは滑る様に階段を下り、廊下で見張りをしているネイチェルに状況を伝えた。
「俺は裏口から出て外の様子を見てくる。もし何もなかったとしても、暫く外で見張ろうと思う。今、ハロルド伯爵は?」
「伯爵は今、アンドリューが王宮で大臣達を集めて会議をしているから、その付き添いだ。」
「伯爵夫人は?」
「さっきリネンを取り替えると言ってリディ様の部屋へ入った。」
二人は目尻を吊り上げ、緊張で頬を強張らせた。
「念のため最悪の事態に備えよう。場合によっては王宮へ遣いを走らせた方がいいかもしれない。」
「そうだな。とにかく外を見て来る。」
リディがエストレイに凌辱された時の事を、アンドリューの側近達は決して忘れない。リディに何かあるとアンドリューがどれ程傷つくか、骨の髄まで身に染みたからだ。もう二度とあんな思いをさせまい――― その戒めを抱いて、皆、任務にあたっている。
リディが療養している特別室は、病院の最も奥まった場所にあり、周辺エリアは病院関係者の中でも限られた者しか踏み入ることはできない。ネイチェル達が見張りに立っている狭い廊下は特別室のためだけのもので、廊下の突き当りは壁にしか見えないが、実は隠し扉になっている。扉を開けて左手に階段があり、上るとネイチェル達が使用している控室、下ればワイン貯蔵庫に見せかけた隠し部屋がある。右手にはソフィアが寝食に使用している使用人用の居室があり、その奥が「特別室」となっている。
ネイチェルは用心深く、狭い廊下の陰から広い廊下の様子を窺った。
広い廊下も、院長室と看護師長室、事務官長室に面しているため、一般職員の立ち入りは禁じられている。
人影のないことを確認したネイチェルは、いったん引き返して特別室の扉をノックした。
ノックの音は、暗号代わりに回数とリズムを打ち合わせてある。
部外者でないことを確認したソフィアが、扉の隙間から顔だけ出した。が、ネイチェルの目の色と表情を見るや否や廊下に滑り出た。
「何かあったのですか?」
「今は何ともいえないが、いつでも逃げだせる用意を。外に出られなければ地下へ避難してくれ。」
ソフィアは唇を引き締め、扉の奥に消えた。
ネイチェルは広い廊下の明かりが射すギリギリの位置まで戻り、壁にぴったりと背をつけ、どんな小さな物音も聞き漏らすまいと全神経を研ぎ澄ました。
――― 静かだ。
セラーノスが感じた騎馬の振動は、病院を通り過ぎて別の場所へ行く途中のものだったのではないか。
暫くの静寂の後に多少の安堵が心の隅に湧き上がり、それを確信に変えようと角から顔半分覗かせた、その瞬間。
突如遠くに表れた人影に、素早く身を翻す。
驚きで心臓の鼓動が喉にまで響く。
足音は――― 4人。
重い革靴――― 男だ。
会話はなく、黙ってこちらに向かってくる。
時折、院長の客人が、複数の供を連れて来る時の気配に似ている。
病院内の案内は、近衛兵見習の若い青年が担当しており、その案内無くしてここまでやってくることはできない。
ネイチェルは足音の正体を確認すべく、慎重に壁の角から瞳半分覗かせた。
――― 先頭には、案内係の紺色の制服を着た青年
――― その後ろに背の高い、深緑の豪華なフロックコートを着た男・・・青年の頭で顔は見えない。
――― さらに後ろを歩く黒い服の二人は御付きだろうか。
(やはり、院長の客・・・?)
微かに息を吐いた、その時。
バタン!という大きな音が轟き、床を振動させた。
ネイチェルの目に映ったのは、案内係の青年が床にうつぶせに倒れ、その背にナイフが深々と突き刺さった様だった。
紺色の背中の中央に、黒い染みが広がっていく。
深緑のフロックコートの男は、黒い顎髭を生やし、眉間に深い皺のある粗暴な顔立ちをしていた。肩幅の広さや厚い胸板から、普通の貴族とは思えない。
息を呑む音さえ、この男なら勘付いてしまうかもしれない。そう思ったネイチェルは慎重に後退ろうとした ―――― が。
シュッ
空を切る、鋭い音。
刹那、ネイチェルが額を覗かせていた壁の角に、小型ナイフが突き刺さった。
「隠れても無駄だ!そこで見ていたのはわかっている!」
大きな低い声。
非常事態は既に始まっている。
ソフィア達はもう、特別室を出ただろうか。
外に出るか、地下室に隠れただろうか。
リディはまだ安静の必要な病人で、素早く動けるわけではない。
彼女達の安全を確保するために、あと数分は時間を稼いでおきたい。
ネイチェルは男の声に反応することなく、壁の陰で身を硬くした。
すると。
パンッ
壁に突き刺さったナイフに銃弾が命中し、銀の刃が砕けて宙に舞う。
流石のネイチェルも、固唾を呑んだ。
(この男は只者ではない。一体、どういう素性の持ち主なのだ?)
単にネイチェルを不審者と思って狙っているはずがない。
案内役の青年は、近衛兵見習とはいえ、武術はもちろん偽造文書を見破るための厳しい教育も受けている。その青年が大人しくここまで連れてきてしまった男の目的は、一つしかありえない。
男は苛立ったように、叫んだ。
「我は皇太后陛下の使いだ!」
(・・・皇太后?)
「皇太后陛下の命令で、プラテアードの王女を迎えに来た!見張りの者、すぐに王女を連れて参れ!」
リディが病院の特別室にいることは、限られた人間しか知らない。万一リディを訪ねて来た人間がいたら、例え大臣だろうと皇太后の使いだろうと断るよう、アンドリューは病院の幹部へ命じている。
ところが、この男が持っていたのは「院長への面会」を許可する皇太后の紹介状だった。紹介状は紛れもなく本物で、青年は男を院長室へ案内し、あと少しというところで背中にナイフを突き立てられ、「特別室はどこか」と聞かれた。青年は脅しに屈することなく「それはお答えできません。」と答えた。男はナイフを背中に数ミリ差し込み、「言え!」と再度脅したが、青年は怯まず口を閉ざした。その結果、止めを刺されてしまったのである。
ネイチェルは、隠し扉の奥へ退散しようかと考えた。この扉さえ破られなければ、リディに危害が加えられることはない。
今出て行ったところで、三人同時に仕留めることは不可能だ。青年を抱えて救い出す勝算も全くない。
ゆっくりと一歩、後退さった時だった。
パンッ パンパンッ
複数の銃声、そして。
バンッ
続けて聞こえたのは、扉か壁を叩くような音。
さらに、バタバタという足音に、ガタガタという、物が動いたり倒れたりする音。
その異常さは、ネイチェルの足を止めるのに十分すぎた。
しかし、ここで広い廊下の様子を盗み見することは自殺行為だ。
それを見越したように、男が叫んだ。
「ここに院長を引きずり出してきた!すぐにでも銃で殺せる体制だ!皇太后陛下の命令に逆らう者は、誰であろうと殺していいと言われている!」
ネイチェルは、下唇を噛みしめた。
何という輩だ。
本当に皇太后の命令かわからないが、無抵抗の院長を銃で脅すとは!
「さあ、院長が殺されて困るというならさっさと王女を連れてこい!王女も、我の声が聞こえているなら大人しく出てこい!この優秀な医師が殺されてもいいのか!?」
リディ一人を連れていくために自国の人間を犠牲にするなんて、正気の沙汰ではない。
リディとアンドリューが、皇太后の余程の怒りを買ったということか。
アンドリューが警備を強化させた理由は、これだったのか。
ネイチェルは、奥歯を噛みしめて顎を引いた。
握りしめる拳が、何を決意すればいいか迷わせる。
「さあ、早くしろ!」
院長の声は聞こえない。
様子を見られない限り、本当に院長が銃を向けられているのかわからない。
巧妙な罠かもしれない。
もし院長が本当に銃を向けられていたとしても、実は院長もグルかもしれない。
「さっさとしろ!あと10数える間に出て来なければ、院長を殺す!」
この挑発にのっていいのか?
リディが心配だが、今や状況を確認する余裕もない。
院長が殺される可能性が1パーセントでもある以上、放ってもおけない。
ネイチェルは、覚悟を決めた。
リディは、絶対に渡さない。
だが、この男が狭い廊下にやってくるのは時間の問題で、それを追い払うことは必要だ。
ネイチェルは、わざと靴音を鳴らして広い廊下に出た。
そこには、粗暴な男が白衣を着た院長の背中を左足で踏みつけ、両脇から黒い服の男が銃口を向ける光景が広がっていた。
ネイチェルは、一重の鋭い眼光で彼らを睨みつけた。
「皇太后陛下の使いとは俄かに信じがたい、横暴なやり口だ。」
男は、フッと口元を緩めた。
「相手は革命を企む危険人物だ。用心して当然であろう?」
「私が出て来たのだから、さっさと院長から離れてもらおう。そなたも、自国の人間を傷つけることなぞ好まないだろう?」
「ふんっ、甘い考えだ。・・・プラテアードの王女はどこか?急ぎ皇太后陛下のところへ連れていかねばならない。」
「国王陛下の許可がない限り、プラテアード王女の身は、如何ともできない。」
「国王の許可より、皇太后陛下の命令が上だ。」
「ジェード国民にとって、国王陛下の命令は絶対だ。プラテアード王女の身は、相手が誰であろうと決して引き渡してはならないと言われている。」
「それは、プラテアードの王女がアンドリュー国王の愛人だからか?」
「何という下衆な憶測を口にするのか?無礼にもほどがある!」
「そんな口をきいている暇はないぞ!皇太后陛下はすこぶる機嫌が悪いのでな。さっさと王女を出してもらおう!」
そのやり取りを、ソフィアは隠し扉の裏で聞いていた。
ネイチェルに言われてカーテンの下から外を覗くと見知らぬ男がうろついており、セラーノスの姿は見えなかった。急いでリディと伯爵夫人を地下室へ押し込め、自分は状況を把握するため一階に残っていたのだ。
広い廊下の音は、天井裏の金属パイプを伝って特別室前の廊下へ届けられる。
院長は本当に撃たれてしまうような危機的状況なのだろうか?
ネイチェルは、どう乗り切るつもりなのだろう?
ネイチェルだって銃ぐらい持っているはずだが、抜く余裕もないのだろうか。
そんな疑問を吹き飛ばすように、再び銃声が聞こえた。
―--二発。
誰が撃った?
何を撃った?
誰を撃った!?
焦燥感ばかりが心中を巡る。
ソフィアは、常に身に付けているサーベルを腰から取り出した。
柄に青い獅子の紋章が刻まれた、両親の形見。兄キールとお揃いの、お守りのような存在。
握りしめた手の平が、汗ばんでいる。
上に向けた銀の切っ先に、緊迫した空気が映りこんだ。
ここで潜んで待つべきか、それとも出て行って戦うべきか。
正しいかどうかで決められない、正解の無い選択が、ソフィアを容赦なく追い詰めた。