第139話:アンドリューとイサベル
朝だというのに、その日は曇天ですべての景色が蒼く見えた。
イサベル達が滞在する館のアプローチには、カタラネス国の使用人全員が直立不動で並んでいる。
そして、誰が乗るかわからない騎馬でも黒い点が見え始めた時から、使用人たちは腰を直角に折り曲げ、身じろぎもせずジェード国王を出迎えるべく構えた。中でも侍従長と女官長は、顔面を強張らせ、瞬きもせずにひれ伏している。
昨夜遅く、アンドリューが館を訪れるという知らせを受けた瞬間、二人は自分達の運命が奈落の底に落ちていく音を聞いていた。
(いよいよ、ジェード国王は婚約破棄の通告に来るのだ。)
(国へ強制送還された挙句、カタラネス国王による制裁を受けねばならないのだ。)
少し前から覚悟していたこととはいえ、未来の絶望が確定したことに、使用人一同は監獄送りの前夜のような雰囲気を醸し出していた。
アンドリューは張り詰めた空気を感じながら、ハロルド伯爵と共にイサベルの部屋の前までたどり着くと、侍従長に言った。
「王女と二人だけにしてもらえるか?体調のこともあるので、できるだけ短時間で済ませる。」
国王が何を言っているのか聞こえていても、気の毒な侍従長の脳は動かない。ただ、言われるままに白い手袋をした手で王女の部屋の扉を開けた。
中ではイサベルが身支度を整え、部屋の中央に両膝をつき両手を胸の前で合わせて待機していた。
扉が閉まるのを確認すると、イサベルは言った。
「私は、一国の王女としてあるまじき不貞を犯しました。弁解の余地もございません。私は如何様の仕置きを甘んじて受けますが、どうか―――どうか、家臣にはお咎めのないよう、お願い申し上げます。」
本当に、常に王女の見本のような言動をとる。心から感心しながら、アンドリューは静かに言った。
「あなたは、不貞など犯していません。・・・まずは、椅子に座ってください。その恰好は、まるで処刑を待つ罪人だ。」
「え・・・?」
イサベルは、アンドリューにどれだけ罵られても、暴力を振るわれても、首を撥ねられても仕方がないとさえ覚悟していたのだ。ところが、アンドリューの声は予想外に穏やかで、イサベルは思わず声を漏らした。
窓際のテーブルで、二人は向かい合った。
プラチナブロンドの奥の蒼い瞳が、イサベルに無言で問いかける。
それに応えるべく、イサベルは重い口を開いた。
「陛下は、私の手紙をお読みになったのでしょう?」
「勿論。ソフィア殿とヴィエルタ子爵からも、話を聞いています。」
「でしたら、」
「あなたとレオンの間には、不貞といえるような事実があったのですか?」
イサベルは、思わず唇を引き締めた。
「いえ・・・。私が一方的に侯爵を想っているだけです。侯爵は私を陛下の婚約者という存在としか考えておりませんし、そのように接していただけです。」
「想いを寄せただけで、不貞を犯したと?」
「想うだけに留められず、侯爵へ告白してしまいました。」
「それに対し、レオンは?」
イサベルの青い瞳が、銀色に揺れた。
「聞かなかったことにする・・・、と。考えなくてもわかることでしたのに、私は・・・。」
ここで泣いてはならないと、イサベルは懸命に唇を噛む。
アンドリューは、軽く息を吐いた。
「あなたに会う前にレオンの気持ちを確認しておきたかったが、結局わからないままです。遣いにやったヴィエルタ子爵は、夕べから戻ってきません。」
「・・・どういうことですの?」
「迎えに行かせた伯爵の話では、子爵は、レオンの身を案じて傍を離れられないと言っているそうです。」
イサベルは、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を、さらに大きく見開いた。
「身を案じてって・・・?」
「詳しくはわかりませんが。」
すると、弱々しかったイサベルの表情が、急に引き締まった。
「陛下。今回の事は、すべて私一人の責任でございます。侯爵は、決して陛下を裏切る様なことはなさっておりません。私が勘違いをしてしまうような振る舞いをなさったわけでもありません。侯爵は、侯爵のお仕事を誠実に務めていただけです。」
アンドリューは、イサベルの勢いに少々気圧されながらも、静かに頷いた。
「わかっています。」
「どうか、・・・どうか侯爵が責任を感じることのないよう、お取り計らいくださいませんでしょうか?このようなお願いを私がすること自体おこがましいとわかっておりますが、どうか。」
「勿論、そのつもりです。レオンを責めるつもりもないし、同様にあなたを責めるつもりもありません。」
「・・・え・・・?」
「あなたは、レオンへ一方的に想いを寄せて告白したことを『不貞』と捉えているようだが、そうであれば、先に不貞を犯したのは―――俺の方です。」
イサベルは、ハッとしてアンドリューの方を見た。
アンドリューは、真っ直ぐにイサベルに向き合った。
「あなたが最初から気付いていたとおり、リディは・・・プラテアードの王女は、俺にとって掛け替えのない存在です。」
イサベルは、思っていた通りというように黙って頷いた。
「―――だが、御承知のとおり両国は敵対していて、一生結ばれることはないとお互いにわかっている。だからこの婚約も国益のためと自分に言い聞かせ、結婚してしまえばリディも未練を残さず吹っ切れるだろうと考えることにしました。」
その思考は、イサベルと同じだ。
息を詰めて、次の言葉を待つ。
「だが、やはりそれはできないと思い知らされる出来事が続き、婚約解消を決めました。あなたが嵐の夜に館を飛び出すよりも前のことです。つまり今回の婚約破棄は、ジェード側から申し出たことになる。」
イサベルは、思いもかけなかったアンドリューの言葉に戸惑った。
自分が撒いた種とはいえ、婚約解消を申し出ることでどれだけカタラネス国の立場を悪くすることになるか、想像しては震えていた。しかし、今のアンドリューの言い方であれば、その責めを負わずに済むということになる。―ーーいや、これは、イサベルの立場が悪くならない様にするため、また、レオンが責任を感じない様にするための、アンドリューの綿密な筋書きだろう。カタラネスの使用人達は、誰もイサベルの体調不良の理由に気付いていない。しかし、自分のせいで仕置きを受けることになるのであれば真実を伝えざるを得ないと覚悟していたが、その必要もなくなるだろうか。
イサベルは、アンドリューの配慮に甘えることが卑怯な気もしたが、力のない自分の立場を思うと、有り難く頭を下げるしかないと判断した。
アンドリューは、婚約の儀で署名した書類を取り出した。
「婚約の破棄など想定されていないらしく、儀式の手順は事細かく決まっているというのに、破棄の方法はいくら調べても、神使に確認してもわかりませんでした。ですから、」
アンドリューは誓約書をイサベルの前に突き出すなり、それを縦にビリビリと引き裂くと、暖炉の火の中に投げ込んだ。
厚みのある紙が瞬く間に黒く燃え尽きたのを確認すると、イサベルは少し安心したかのような、しかしまだ不安の残る表情を浮かべた。
婚約指輪の返却後、アンドリューは言った。
「教えてください。あなたのレオンに対する思いは、一生をかけて誓う程のものですか?」
すると、イサベルはしっかりと答えた。
「私は、すべてを捨てる覚悟で侯爵に告白しました。陛下へ、婚約の破棄を申し出ました。私の未来すべてと引き換えにしてもいいと思った恋です。それでも、一生をかけて誓う程のものかとお疑いですか?」
「年月を経るごとに、年齢の差が顕著になる。あなたはこれから20年間ますます美しく成長し、一方レオンは老いの一途をたどるのです。それでもあなたは、レオンを愛し続けられるのですか?」
イサベルは、僅かに眉根を寄せた。
「私は確かにまだ世間知らずで思慮が足らないところがあるかもしれません。年齢の差は、思いもよらないところで障害になることがあるかもしれません。ですが、」
イサベルは、テーブルの上にのせた拳をギュッと握った。
「私の心は、生涯、侯爵以外の男性を求めることはないと思います。帰国して時間が経てば諦められるかもしれませんが、だからといって、他の方を愛することは無い気がします。18歳で生意気な、と思われるかもしれませんが・・・もう、一生分の恋愛をしたと思う程、心も身体も限界ですもの。」
アンドリューは、疲れた嘲笑を浮かべるイサベルを見て、決心を固めた。
「レオンは、俺にとって肉親同然です。跡目争いを恐れた両親に王室を追い出された俺のために、一生を捧げてくれた男です。決して裏切らないと信じ切ることができる、側近中の側近です。」
「わかっております。そのような方に告白をして困らせてしまったことは、申し訳なく思っております。でも、」
「そういう男だとわかっているから、惹かれたとも言えますね?」
ストレートな言い方をされて、イサベルは少しはにかんで俯いた。その様子はまさに恋する乙女そのもので、王女の嘘偽りない心を表しているようだった。
「俺はあなたを責めたり、からかってこのような話をしているのではありません。あなたがレオンに対し永遠の愛を誓うと約束できるなら、後はレオンの意思に委ねようと思います。」
「え・・・?」
アンドリューが何を言おうとしているのか、イサベルには理解できない。
「レオンの気持ちがわからない以上、あまり期待しないでほしいのだが・・・。」
「基より私は、何も期待しておりません。」
「あなたの帰国には、ジェード国王の使者としてレオンを付き添わせます。そこでレオンがジェードに戻るよりあなたと一緒にいたいと願うなら、・・・言い方が適切ではないかもしれないが、俺のレオンを、あなたに差し上げる。」
イサベルは、驚きで声が出なかった。
しかし、すぐにきっぱりと首を振った。
「侯爵が陛下より私を選ぶなど、あり得ない事です。」
「お互いにレオンの本心がわからない以上、どちらとも決めつけられない。ただ、レオンの幸せを願う気持ちは、俺もあなたも同じだと思います。レオンが自分の心に素直に向き合って、幸せになれる方を選ぶというなら、どちらを選んでもいいと思いませんか?」
「それは・・・そう、ですが・・・。」
「では、決まりです。明日の夜半にはジェードの国境を越えられるように出発してください。館の片付けは不要です。後始末はこちらに任せて、御自分達の荷物だけまとめてください。」
イサベルは、部屋を去ろうとするアンドリューに言った。
「陛下には、どれ程感謝申し上げればよいか・・・。」
「それは無用な気遣いです。婚約破棄したかったのは俺の方で、むしろ都合がよかったと思っているぐらいですから。」
視線が重なった二人の頬は、緊張が解けて柔らかくなっていた。
イサベルは、カタラネスに帰国するなり王室を追い出され、厳しい現実に直面することを覚悟している。だが、それでも今、アンドリューと本音で語らい、穏やかな気持ちで別れられることに救われる思いがした。
「陛下。・・・最後に一つ、よろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「私は、本気でソフィアさんを侍女にしたいと望んでいました。叶うなら、カタラネスへ連れていきたいぐらいです。でも、それはできませんね?」
「・・・ええ。」
「ソフィアさんは既に、どなたか身分の高い方にお仕えする身ではありませんか?」
「・・・そう、思いますか?」
「彼女がただの看護師であるはずがありません。彼女の御主人は幸せな方です。その御主人が、ソフィアさんを大切に思っていないなら、私が貰い受けますが?」
アンドリューは、フッと小さく笑った。
「その言葉を聞いたら、ソフィア殿もその御主人も、喜びます。」
「それならばいいのです。私の入り込む余地など、ないということですから。」
そう言ったイサベルは、今まで見た中で、最も美しい微笑みを浮かべていた。
館を出たアンドリューは、すぐに次の行動へ移るべく、駿馬の鐙を蹴った。