第136話:王女の恋 -その4-
カタラネスの一行が滞在する館は、真夜中とは思えない程、すべての窓のカーテンから灯りが漏れていた。
レオンが薬を届けると、侍従長が出てきて、困惑の表情を浮かべながら小声で尋ねた。
「国王陛下は、その・・・何とおっしゃっておられましたか?」
できるだけ早くこの場から立ち去りたいレオンは、「自分が報告したわけではないのでわからない」とそっけなく答えた。しかし、できるだけ情報を得たい侍従長は食い下がった。
「イサベル様が館を飛び出したのは、単なる気まぐれです。いつものわがままにすぎません。決して国王陛下への嫌がらせでも、婚儀への反抗でもございません。どうか、そのところを陛下に御理解いただきますよう、お口添え願えませんでしょうか。」
何度も何度も頭を下げる年配の侍従長を見下ろし、レオンは言った。
「それは、王女様ご自身のお言葉ですか?」
「えっ?え・・・いえ、そうではございませんが、そうでなくては困るのです。少なくとも、イサベル様はこの縁談には当初から前向きでした。王妃として、ジェードに骨を埋めるのだと繰り返しおっしゃっておいででした。その王女様が、今になって御結婚を拒否される理由など、あるはずがないのでございます。心当りがあるとすれば―――、」
そこで口ごもった侍従長に、レオンの心臓が喉奥を打った。思わず、髭に隠れた口元を凝視してしまう。
「・・・皇太后陛下とのこと・・・ぐらいでしょうか。」
レオンは思わず安堵の息を吐きそうになるのをぐっと堪えた。
本当は「侍従長の言う通り今になって結婚を拒否する理由などあるはずがない」と声を大にして言いたい。だが、今、それは流石にできなかった。
「皇太后陛下は心の御病気ですから、どのような振る舞いも決して悪気があってのことではないのです。」
「ええ。それは私共も王女様も十分承知しておるのですが・・・とにかく他に、思い当たることがないのです。今日も、私達にはただ『一人になりたい』としかおっしゃってくださいませんし、王女様の悩みを聞いておられる唯一のソフィア嬢に尋ねても、『それは秘密です』という答えしかいただけません。王女様がどうすれば以前のようなお姿になっていただけるのか、もう私達ではお手上げなのです。」
さっき抱き上げたイサベルの身体は、確かに以前よりも細く、軽かった。
ソフィアから「食べられず眠れない」と聞いたが、それが演技ではなく事実なのだろうとは思う。
しかし、考えれば考える程、疑いの気持ちも沸いてくる。
先程のイサベルの告白も、実はレオンを困らせて試すための演技だったのではないか。
そして、まともに受け止めて悩み、答えを告げた時に「見事に騙された、私がお前を好きになるなんてあり得ないのに!」と手を叩いて笑い飛ばすのではないか。
いや。
それは、戯れにしてはあまりにも悪趣味でリスクが高すぎる。
――― 許されないことを承知で、心底、真剣です ―――
ソフィアの言葉が、耳の奥で何度も木霊する。
――― 今まで散々周りを試すために我儘を言ってきました、でもこれは違うのです!―――
イサベルのあの否定の言葉が演技であると疑うことすら、罪のように思えてきた。
黙り込んだレオンの様子をみて、侍従長は観念した様子で言った。
「先程、ヴィエルタ子爵からも言われましたが、今は王女様に元気になっていただくことが最優先だと思っております。何に心を痛めておられるのか原因がわからない以上、回復の見込みがないのであれば・・・我々は王女様を連れて帰国することもやむを得ないと考えております。」
「!・・・それは・・・。」
「御結婚とは別で、一度帰国し、御健康になられたら再びジェードへと思いますが、このように心身の弱い王女ではジェード王妃に相応しくないと御判断されたなら、それも仕方のないこと。御結婚が破断になり、我々は母国でどのような仕置きに合うかわかりませぬが、王女様の御身体には代えられません。」
レオンは、首を振った。
「アンドリュー陛下は、そのような無情な事はおっしゃらないと思います。」
「いえ、これは国家間の契約ですから、いかにアンドリュー陛下が『構わない』とおっしゃってくださっても、周囲が許さないと思います。我々が逆の立場で、もし陛下が王女様との婚約以降、悩みを抱えて健康を崩されたり、嵐の夜に行方不明になられるようなことがあれば、『そのような不安定なお相手とは結婚させられない』と考えますから。」
思わずビクリと動いた自分の唇は、一体何を考えたからなのか―――レオンはその疑問を封じ込めるように、下唇を上唇で抑え込んだ。
侍従長は、泣いたような、笑ったような、自分でもわけがわからなくなっているのであろう表情を浮かべ、「大変、無念です。」と呟いた。
一方、病院の控室に残った二人は、長時間風雨にさらされた疲れで、気力を失って壁にもたれていた。
しかし、乱れた髪の下で項垂れているソフィアが、未だドレスだけでなく重い宝飾品や髪飾りを身に付けていることに気付いたネイチェルは、着替えを手伝うと声をかけた。
いつも通り背中の小さなくるみボタンを外してもらいながら、ソフィアは言った。
「このドレス、着たまま乾かしたら皺だらけになってしまって・・・。もう、元通りにならないかもしれません。」
「・・・何度も着た服ですから、早晩処分するつもりでした。気にしないでください。」
それを聞いたソフィアは、思わず小さく苦笑した。
「さすが、お金持ちの国は違うわね。」
ポツリと言ったその言葉に、深い意味はなかった。
思わず口をついて出てしまったのだが、ソフィアの身体から外し終えた装飾品を黙々と磨いてドレッサーに仕舞っているネイチェルの背中を見ていると、なぜか喉元が苦しくなった。
沈黙が続き、そして。
「30分後に戻りますから、それまでに着替え終えてください。鍵は空いたままで大丈夫ですから、私を待たずに自室に戻って構いません。」
そう言って振り向く素振りもなく出ていった扉を凝視しながら、ソフィアは皺で模様が崩れたドレスの裾をギュッと握りしめた。
翌朝は、昨夜の嵐が嘘の様に穏やかな青空だった。
ただ時折吹く風の冷たさが、激しかった風雨の余韻を残している。
午前8時。控室のソファで僅かな睡眠をとったネイチェルがセラーノスと交替しようと定位置に到着すると、そこにはハロルド伯爵とソフィアが待ち構えていた。
ハロルドはネイチェルを近くへ呼び寄せると、抑えた声で言った。
「今、セラーノス殿に見張りの延長をお願いしていたところです。・・・陛下がお呼びです。早速ですが、ソフィア殿と一緒に王宮へ向かってください。」
ハロルドは昨夜何があったか、アンドリューと共にネイチェルの報告を聞いている。
既に身支度を整えたソフィアの唇は、ある種の覚悟を決めた意思を秘めていた。
ネイチェルは、ハロルドの背に手をまわした。
「陛下の用件はわかっています。私一人で十分です。」
出口に向かおうとしているネイチェルに、ハロルドは戸惑った。
「いえ、陛下はお二人から話を聞きたいと。」
「陛下には私が説明をします。・・・さあ、行きましょう。」
肩透かしを食らったソフィアは、踵を返したネイチェルの腕を掴んだ。
「なぜです?どうぞ私も連れて行ってください。」
「あなたが赴くまでもないことです。陛下が何を聞きたいか、想像はつくでしょう?」
「ええ、だからこそ私が・・・。私にしかお話しできないことがあります。」
ソフィアは、一晩中、アンドリューに何を伝えるべきか考えに考え抜き、覚悟を決めていた。だからハロルドに呼ばれた時は「待ってました」とばかりに出掛ける準備をしたのだ。
「あなたは、あなたの任務をもう少し自覚した方がいい。」
「十分自覚しています!だからこそ、ここは私がお話ししないと!」
その時、ソフィアは間近で見つめたネイチェルの瞳に、自分が映っていないことに気付いた。
思わずネイチェルの腕から手を離す。宙に浮いた戸惑いを、胸元に引き寄せた。
「あの方の気持ちは、私にしか語ることができません。」
ネイチェルは、一層厳しい眼差しをソフィアに向けた。
「もっと、はっきり言わねばわかりませんか?」
「!どういう・・・ことです?私は常に自分の立場をわきまえて行動しています。」
「・・・ならば、ここに残るべきだとわかるはずです。」
ネイチェルは躊躇うハロルドを促し、足早に病院から出て行った。
病院から王宮へ馬を飛ばすネイチェルを、ハロルド伯爵は懸命に追いかけた。
そこまで火急の用向きではないというのに、これでは逃げているようだ。
ネイチェルの方が先に到着し、王宮の裏手の厩舎に馬を繋いでいるところへ、軽く息を切らしたハロルドが額に汗を浮かべて現れた。
ネイチェルは黙ってハロルドから手綱を預かり、自分の馬の隣に繋いだ。
「そんなにお急ぎにならずとも、よろしかったのですよ。」
「・・・すぐに王宮へ向かうようおっしゃったではありませんか。それに、そうでなかったとしても、国王を待たせてはならないでしょう。」
そう言ってネイチェルは先に歩き出し、またしてもハロルドは後を小走りで追いかけねばならなくなった。いつもと違う態度に、ハロルドは懸命にネイチェルの隣に並び、言った。
「何か、あったのですか?」
「・・・なぜ、そのようなことを?」
「余裕がない御様子は、ネイチェル殿らしくありません。」
「そうですか?いつもと変わらないと思いますが。」
「私はともかく、陛下はすぐ気づかれると思いますよ。」
ネイチェルは少し、歩みを緩めた。
「伯爵。何がおっしゃりたいのです?」
「先程のソフィア殿へのおっしゃり様は、かなり辛辣でした。いつものネイチェル殿であれば、もう少し言葉を選ばれたのでは?」
ネイチェルは、少しだけ伯爵の方を見ようとして、しかし、すぐに視線を前へ戻した。
「あれでも随分配慮したのですよ。」
「ソフィア殿がイサベル様の相談役を務めていらしたのは、陛下から聞いております。陛下が本当に話をしたいのは、むしろソフィア殿だったはずです。」
「・・・そうでしょうね。」
「では、なぜです?あのように落胆されたソフィア殿のお顔を、初めて見ました。」
「・・・。」
薄い唇を少し引き締めたネイチェルの横顔に、伯爵はそっと言った。
「ネイチェル殿の御心配も、わからなくはございませんが。」
そのまま二人は言葉を交わさないまま、国王の謁見の間に繋がる待機室の前へやってきた。
アンドリューは早朝から複数の大使や貴族の相手をこなしており、その多忙な合間を縫って時間を無理矢理つくったのだとわかる。
待機室の中ではアランが案内役を務めていた。待機室から謁見の間に続く入口と、謁見の間から廊下へ出る口は異なっており、謁見に訪れた者同士が顔を合わせない造りになっている。
ネイチェルが一人待機室に入ると、アランは椅子から立ち上がった。
「あれ・・・、ソフィアさんは?」
「私一人です。理由は私から陛下に説明します。アランはそのまま座っていてください。」
ネイチェルは首元のクラバットを締め直すと、怪訝そうなアランを後目に、謁見の間に入った。
玉座に深く腰かけていたアンドリューは、ネイチェルの姿を見るなり前のめりになった。
すぐさま緋色の絨毯に跪き頭を下げたネイチェルを見て、アンドリューはゆっくり呼吸を整えてから、近くの椅子に腰かけるよう指示した。
「今朝、ハロルドにイサベル王女の状況を確認してもらった。カタラネスの医師と共に診察したところ、軽い肺炎を患っているそうだ。入院させることも検討したが、移動に体力を奪われることを考慮し、館で療養することになった。容態が安定するまで毎日ハロルドを遣いにやるつもりだ。」
アンドリューは玉座から立つと、小さな椅子を自ら運び、ネイチェルの向かい側に置いて座った。
「では、順番に質問をしよう。ソフィアはどうした?」
「陛下の質問には、私一人で答えられます。」
「ネイチェルは、ソフィアからイサベル王女の悩みについて話を聞いているのか?」
「いいえ。」
「それでは、俺の質問に答えられないと思うが?」
ネイチェルは、とても近くにある国王の蒼い瞳を見つめた。
「――― 陛下は、ソフィア殿とどのような契約を交わしたのですか?そしてソフィア殿は、イサベル様とどのような約束をしているのですか?」
「・・・相談の内容を、俺に報告する必要はないと言ってあった。イサベル王女からも口留めされていたと思う。」
「それなのに、ソフィア殿に何をどこまで話させるつもりだったのです?その瞬間、イサベル様にとってソフィア殿は裏切り者になるのですよ?イサベル様だって、唯一心を許した相手が、例え緊急事態だったとしても約束を破ったと知れば、どれ程傷つかれることか。」
「それで、連れて来なかったのか。」
「そうです。」
受け身で動くことが多いネイチェルにしては、とても珍しい。そんなアンドリューの思いを打ち消すように、ネイチェルは続けた。
「昨夜、私は王女の悩みについてレオンから聞くことができました。」
「レオンから?」
アンドリューは、レオンが原因などと夢にも思っていないのだろう。
その準備のない心に核心をついた話をするのは、些か勇気がいる。
ネイチェルは、膝の上に置いた拳に力を込めた。
「イサベル王女の心身不調の原因は恋煩いです。その相手が、レオンなのです。」
アンドリューが静かに目を見開き、深く息を呑む音が聞こえる。
二人はしばらく唇を引き締めたまま呼吸を整えることに努めた。
ネイチェルはアンドリューの表情を見ることができず、伏目がちのまま続けた。
「レオンが突然世話役を降りた時には、二人の間に何か感じるところがあったのだと思っております。しかし、確信を持てぬ内に陛下にお伝えすることは憚られた故、御報告が遅くなりました。そのことは謝罪いたします。」
アンドリューへ、何度となくイサベル王女を気遣うよう忠告していたレオン。
イサベル王女が素晴らしい女性であることを説いていたレオン。
そして、王女も。
――― 侯爵は常に私の味方をしてくださいます。それはひとえに・・・最も大切に思う国王陛下の妻になる存在だからにすぎません。―――
あのセリフの裏に、レオンに対する複雑な思いが秘められていたということか。
最後にイサベル王女を見た時婚約指輪をしていなかったのも、病気のせいではなかったのだ。
「昨夜の王女様は、苦しい思いを抱えきれずに雨に打たれていたようですが、そこで迎えに来たレオンに対し、思いを打ち明けた様です。そのことで、今度はレオンが苦しんでいました。」
「イサベル王女は、婚約を解消したいと考えているのだろうか?」
「それができないとわかっているから、誰にも言えず病気になる程苦しんでいたのではないでしょうか。」
「ソフィアは、イサベル王女と話をした後、どんな様子だった?」
「私が声をかけても『心ここにあらず』といった様子でした。彼女自身、話を聞く以外何もできないことも、解決策がないこともわかっていたのだと思います。イサベル王女と悩みを共有して過ごしていたと推察されます。」
アンドリューは、唇に指の関節をあてた。
「レオンは、イサベル王女をどう思っているのだろう?」
「昨夜はかなり取り乱していました。ですが、アンドリュー様への裏切りとなることはわかっていますから、例え思いがあったとしても、死んでも口にしないと思います。」
「・・・そうだな。レオンは、そういう男だ。」
ネイチェルは、アンドリューを正面から見つめた。
「私では・・・何のお役に立てるとも思いませんが、どのようにでもお遣いください。」
プラチナブロンドの前髪の奥に見えた瞳が、優しく細められる。
「きっと、これから無茶なお願いをすると思う。それでも引き受けてくれるか?」
低く柔らかな響きを纏った国王の声に、ネイチェルは深く頭を垂れた。
一筋縄ではいかないこの問題を乗り越えるために、レオンが動けない今、アンドリューが望むのであればどのような泥でも被る覚悟はできている。
「陛下のお望みのままに。いつ何時でも、何なりとお申し付けください。」