第135話:王女の恋 -その3-
金の雷が宙を切り裂く音は、天の怒りだろうか。
しかし、雷鳴が轟く度に怯えてしがみつく行為は、決して意図的ではない。
王女の後頭部を守るためレオンの腕に力が入ることも、自然なことだ。
二人はただ、息遣いの音さえ躊躇われる緊張に耐えていた。
イサベルは、自分の指先が震えている理由を寒さのせいだとは思っていない。
今のこの状況に、心の髄が打ち震えているのだ。
濡れたレオンのシャツに押し付けた頬が熱く、溶けてしまいそうで、眩暈さえする。
いっそこうして密着したまま身体が溶けて、レオンの身体の一部になってしまいたい。二人だけでいられる時間が永遠に続くのなら、このまま雷に撃たれて死んでしまっても構わない。
脳の血管が麻痺している。
レオンの鼓動が心なしか早くなっていると思うだけで、意識が遠のきそうだ。
イサベルの拙くも真剣な思いは、限界領域を遥かに越えていた。
どれぐらいの時間が経ったのか。
少しだけ雨の勢いが緩み、雷が遠のいたことを確認して、レオンはゆっくりとイサベルの上体を起こした。
しかし、イサベルは告白した恥ずかしさで顔をあげることができない。
すると、頭の上から低い声がした。
「先程、おっしゃっていたことですが――― 」
イサベルの呼吸が、とまる。
「――― 聞かなかったことにしますから、御安心ください。」
「え・・・?」
思わず漏れた声が、虚しく風にかき消された。
瞬きを忘れた瞳には、何が映っているのかわからない。
レオンはイサベルを見ることなく、細い身体を横抱きにしたまま素早く立ち上がると、館に向かって歩き出した。
規則的な揺れの中、イサベルは両腕を胸の上に縮めた。
今、レオンは一体どんな表情をしているのだろう?
怒っているのだろうか。
呆れているのだろうか。
この上なく迷惑な事だと思っていて、しかしそれを直接言葉にできないから、あのようなセリフを言ったのだろうか。
もはや閉じる事さえできない瞼の内側から、再び涙が溢れ出した。
イサベルは、すべてを捨てる覚悟を持って思いを伝えた。決して、勢いで告白したわけではない。
それなのに、それを「聞かなかったことにする」とは、どういうことなのか。
(私の覚悟は―――)
なぜだろう。柔らかな臓器を、小さなナイフでスッと切られた気がする。
もはや吹き出す勢いさえ持たない血は、少しずつ、少しずつ雫の玉になる。
――― 聞かなかったことにしますから ―――
そうか。
自分と同じ覚悟を、レオンに求めてはいけなかったのだ。
アンドリューの忠臣であるレオンが、例え気の迷いでさえ主人を裏切るなどありえない。
だからレオンの言葉は「最も無難な答え」というより、「それ以外ありえない答え」なのだ。
イサベルは、改めて思い知らされた現実に、睫毛を震わせた。
叶うはずのない、叶ってはいけない、諦めるしかない恋とわかっていたはずなのに。
だからこそ、こうして苦しみを抱えてきたのに。
ほどなく、暗闇の奥に小さな灯りが見えた。
館が近い証拠だ。
しかし、レオンは二度と口を開かず、イサベルも溜息ひとつ吐けなかった。
館の外では、ずぶ濡れになりながらネイチェルとソフィアが待ち構えていて、二人の影を確認するなり執事へ取り次いだ。
レオンが玄関先でイサベルを侍従に引き渡すなり、それを取り囲むようにして女官長と侍女達が階段を駆け上がっていった。
ネイチェルは執事へ「もし医療や薬を御所望でしたら、病院へ使いをやってください。すぐに対応するよう手配済みです。」と伝えた。すると、後ろで控えていた侍従長が苦い顔をした。
「あの、このことは、陛下には・・・。」
「御報告させていただきます。とにかく、今はイサベル様の御身体が心配です。弱っておられるところへ雨に打たれて、肺炎にでもなっていなければよいが。」
侍従長は、諦められない様子で訴えた。
「どうか、ここはひとつ穏便に願えませんでしょうか。イサベル様が御婚儀から逃げ出したなどと思われては、我々は命が幾つあっても足りません。」
ネイチェルは、少しだけ目の奥に力を込めた。
「アンドリュー陛下は、イサベル様のお立場を悪くするような事はなさらないと思います。とにかく、今はイサベル様の体調が優先です。よろしいですね?」
侍従長は渋々深く頭を下げ、玄関の扉を閉じた。
ネイチェルが後ろを振り返ると、そこには雨に打たれたままのレオンが棒の様に立っていた。
「・・・レオン。」
ネイチェルが声をかけても、レオンは返事をしなかった。
「私はアンドリュー陛下に報告してくるから、ソフィア殿を病院へ送り届けてくれないか?二人で院内の控室で待っていてくれ。」
レオンは返事もせず、動こうともしない。
ネイチェルはソフィアと視線を合わせ、黙って頷くと、馬に飛び乗り走り去った。
どこを見ているともわからないレオンに対し、ソフィアは「私が御者席に座って、あなたを王宮へ送り届けた方がよろしいかしら?」と声をかけた。
するとようやく、「いや・・・。」とレオンが反応し、二人は馬車に乗り込んだ。
病院の裏手に馬車をつけ、ソフィアはレオンと共に控室へ直行した。
部屋の中は真っ暗で冷え切っており、相変わらず呆然として身体が動かないレオンを後目に、ソフィアはてきぱきと暖炉に火をつけ、箪笥の中からタオルを出してレオンに渡した。
レオンには着替えがなく、ソフィアはネイチェルの助けなくしてドレスを脱ぐことができない。
濡れた衣服を着たまま乾かすため、二人は暖炉の前に椅子を置いて座った。
パチパチという薪が燃える音を聞き、オレンジの炎が秒ごとに形を変える様を、ぼんやりと眺める。
ソフィアがそっと左へ視線を向けると、そこには思いつめた表情をして、唇を引き締めたレオンの横顔があった。以前より少し伸びた髪は、濡れて色濃く額や首筋にはりつき、青白い頬とのコントラストがドキリとするほど艶めかしくみえる。
壁時計が時を刻む音が、これほど鮮明に聞こえた事があったろうか。
ソフィアは長い沈黙に耐えられず、いや、それよりも、レオンがこんなにも大人しいことに落ち着かなかった。これまでのレオンであれば、プラテアードの首長の側近の女などと、絶対に二人きりにはならない。ソフィアがアンドリューへの謁見に無理矢理同行しようとしたときの、レオンの拒絶の視線は嫌悪に満ちていた。
そんな男が今、かつてエンバハダハウスに住み「大学進学と共に上京してきた新聞記者」を演じていた頃の飾り気のない面影を、目元から零している。
ソフィアは軽く深呼吸して、口火を切った。
「なぜ私がドレスなんか着てイサベル様の傍にいたのか、理由をお話ししましょうか?」
レオンは、微動だにせず視線を下に向けている。
ソフィアは構わず続けた。
「ここ数週間、イサベル様は食欲がなく眠れず、お辛い思いをされていました。でも近しい者達へ相談することができず、イサベル様は、病院でお世話させていただいた御縁で私を・・・話し相手に。」
レオンの呼吸さえ聞こえない中、ソフィアは心を決めて本題に入った。
「イサベル様と、お話しされました?」
ほんの少し、空気が張り詰めたことがわかる。
嵐の中、レオンとイサベルを二人きりにしたのは、ネイチェルの画策だ。ああでもしなければ、二人きりで話をするチャンスなど、次はいつになるかわからない。
レオンは下唇を千切れるくらい強く噛んだ後、鉛の様に重くなった口を開いた。
「アンドリューは・・・知っているのか?」
ソフィアは、静かに首を振る。
「いいえ。イサベル様の悩みを聞くようにおっしゃったのは陛下ですが、その内容については報告する必要はないと。無論、そうでなくともこれは私などが関わってはならない事ですから、口にはしません。」
レオンは宙を睨みながら言った。
「だがリディには、報告したのだろう?」
「まさか。私がイサベル様の話し相手になっていること自体、秘密にしているのに。」
「・・・プラテアードの幹部は、簡単に主人を裏切るのだな。」
「これを裏切りと言うなんて、ずいぶん安い忠誠心の持ち主なのね。」
「リディには朗報だろう?アンドリューの結婚が・・・流れるかもしれないのだから。」
ソフィアは、濃い血の色をした唇を歪めた。
「見くびらないで。」
その低い声に、レオンの視線が少しだけソフィアに注がれた。
「私はプラテアードの幹部として、ジェード国王と取引をしたのです。私情で約束を破ることなどしません。」
レオンは返す言葉に詰まると、苦しい息を吐いて、髪をむしるように頭を抱えた。
その心中は察するにあまりない。
ソフィアには、レオンがイサベルをどう思っているか皆目見当もつかないが、イサベルが惹かれてしまうだけの何かはあったのだと確信している。だからこそ、迂闊な事は言えない。
膝の上で組んだ指に、自然と力がこもる。
二人にとって何かいい言葉をかけてあげたいと思いながら、そんなものは髪の毛一本程も思い浮かばない自分が情けない。
窓の外は、相変わらず激しい雨が降り続いている。
肌にはりついて重くなっていた服が、濡れた肌と共に乾き始めた頃、ようやくネイチェルが戻ってきた。
ネイチェルは、濡れた上着を脱いで衝立に掛けると、レオンの傍に立った。
レオンは、ネイチェルの顔を見ることができない。
アンドリューは、この出来事を聞いて何と言っていたのか。その前に、ネイチェルは何をどこまでアンドリューに報告したというのか。
怖くて、顔を上げることもできない。
「――― レオン。」
名前を呼ばれただけで、肩が勝手に跳ねた。
まるで悪事がばれるのが怖くて震えている子供のようだ。
ネイチェルは、余計な前置きは一切なしに言った。
「陛下からの伝言だ。明日から5日間、休暇をやるからゆっくり休むように、と。その間何をしてもよいが、陛下の部屋を訪れることは禁ずる―――、とのことだ。」
レオンは思わずネイチェルの腕をわしづかみにした。
「それは―――、それは俺に蟄居せよという意味か?」
ネイチェルは、レオンの手を振りほどいた。
「違う。単に、国外を飛び回っていたお前への陛下の気遣いだ。」
「嘘だ!」
レオンが立ちあがり、自分より10cm以上背の低いネイチェルを見下ろした。
「アンドリューはイサベル王女のことを、どこまでわかっている?」
「『どこまで』とは―――、」
「王女が悩み苦しんでいた理由を、知っているのか!?」
ネイチェルは、厳しい目つきで毅然と否定した。
「陛下は知らない。それを王女から直接聞いているのはソフィア殿だけだ。そしてソフィア殿は、その内容を陛下に報告したことはない。」
レオンは、イサベルに、例え一瞬でも恋心を抱かせてしまった自分が許せなかった。その怒りの矛先は、自分に向けるだけで到底足りるものではない。落ち着かない心を静めることができず、レオンは苛立ちながら窓辺へと足を進めた。病院らしい清潔な白いカーテンを握りしめ、ガラスを打ち付ける雨粒を睨みつける。
完全に乾ききっていない白シャツが貼りつく背中の筋肉から、レオンの苦悩が伝わってくる。
ネイチェルはその姿を暫く黙って見守っていたが、やがて、言った。
「ここへ戻った時、イサベル王女の主治医から病院に処方箋が届けられた。そろそろ薬が出来ているはずだ。王女の館へ届けて、そのまま休みに入ってはどうだ?」
レオンは、声にならない息を吐き捨てた。
自分の心がこんなにも煮え立っているのに、他人事のように冷静なネイチェルに腹が立つ。
「この俺に、どの面下げてあの館へ行けというのだ?」
「イサベル王女の体調不良の原因がお前だなんて、館の人間は誰も知らない。」
「なぜ、そう言い切れる!?大体、ネイチェルこそ何をどこまで知っているんだ?俺をなぜ、王女のところへ連れて行った?なぜ、王女のことを俺に任せるなどと言った!?何もかも知っているから、あんなことをしたんだろう!?」
レオンは、少し離れた場所に立つソフィアを指さした。
「お前に話したのは、あの女ではないのか?『私情で約束を破ることはしない』などと偉そうなことを言っておきながら、とんだお笑い草だ!」
「それは違う!」
ネイチェルは、これまでと明らかに違う声色で否定した。
「私は、レオンがイサベル王女の世話役を降りた時から、そして王女が代わりの世話役になった私を受け入れなかった時から、二人の間に何かあったのだろうと推察していた。レオンを王女と二人きりにさせて、話をする機会を設けたのは、すべて私の勝手な判断だ。」
レオンは、木製の窓枠を力任せに拳で殴りつけた。
ガラスが、今にも割れそうな音をたてて、揺れる。
「勝手な妄想だ!俺とイサベル王女の間に、『何か』などあるはずがないだろう!?俺は、未来の王妃のために働いた。アンドリューの立場が悪くならない様、王女に尽くした。アンドリューが婚約者を放っておかない様、忠告していた!二人が一日も早く仲睦まじくなるよう心を配っていた!それが、なぜ!?」
レオンは、奥歯を喰いしばり、声を絞り出した。
「それがなぜ・・・!なぜ、こんなことになるのだ・・・!?」
震える肩先を見つめていると、ソフィアの脳裏にイサベルの顔が思い浮かんだ。イサベルの表情は、レオンへの想いを語るときは切なさを堪えるように、レオンがどんな男であるか語るときは夢見る乙女のように輝きを放っていた。その純粋な思いを、レオンはどう受け止めているのだろう?
ネイチェルも、レオンがこれほど苦悩する様子を目にしたのは初めてだった。アンドリューに常に寄り添い、本当の肉親同様に生活を共にし、臣下としては辣腕を揮ってきたレオンは、ありえないミスを犯したとでも思って自分を責めているのだろうか。
しかし、このまま時間が経つのを待っていても仕方がないと、ネイチェルはまだ殆ど乾いていない上着を再び手にとった。
「薬は私が届ける。レオンは王宮に戻って休め。・・・ただ、」
言葉の間が、二人の視線を重ねさせる。
「逃げて逃げ切れる問題ではないことは、忘れるな。」
「・・・!」
ネイチェルの言葉に、レオンは弾かれた。
「それはどういう意味だ、ネイチェル?」
「言葉のままだ。王女の気持ちを聞いてしまったのであれば、何らかの答えを出さねばならないだろう?聞かなかったことにも、なかったことにもできない。」
レオンは一瞬、言葉に詰まった。
しかし。
「答えなど、出すまでもなく決まっている。」
「それは、王女の気持ちを真正面から受け止めた結論なのか?」
「結論?そうではない。これは、真正面から受け止めたら破滅するんだ!王女は若い。長い人生のほんの一時の気の迷いで、一生を棒に振らせることはできない!!」
「お前がそう考えることがわかっているからこそ、王女は苦しんでいるのではないか?その上でお前に想いを打ち明けたのだから、その覚悟に応えるべきだ。」
「本当の恋愛をしたことのないお前に、何がわかる!?簡単に物を言わないでくれ!」
ネイチェルが、微かに眉を顰めて口を噤んだ。
気まずい雰囲気を感じながら、ソフィアは一歩前に出た。
「イサベル様は、賢く思慮深い方です。現実的な結論が一つしかないこともわかっておられます。ですが、あなたへの想いは、決して一時の気の迷いなどではありません。許されない事を承知の上で、心底、真剣です。」
「・・・っ、」
レオンはもはや、自分がどうすればいいのか皆目見当がつかなかった。
いっそアンドリューに銃で撃たれてしまった方がどれ程楽か―――、そんな風にさえ思ってしまう。
レオンはこれ以上二人に責められるのが嫌で、ギュッと拳を握ると、背を向けた。
「薬は俺が・・・館へ届ける。」
パタンと閉まる扉の音が極めて寂しくて、残された二人は暫くその方向を見つめ続けていた。