第134話:王女の恋 -その2-
その日、ネイチェルは早朝にレオンが帰国したことを知らされていた。だから、ソフィアにイサベル王女を見守るよう伝えた後、すぐに向かった先は王宮だった。自室で休んでいたレオンを、ネイチェルは理由も言わず強引に外へ連れ出した。そしてイサベルのいるところまで来た時「この事態をどうにかできるのはレオンだけだ。」と言った。レオンは何が起こっているのか全くわかっていなかったが、ネイチェルはそれ以上何も言おうとせず、ソフィアと共にその場から去って行った。
額から流れ落ちる雨の雫は、どれ程拭ってもきりがない。
荒れ狂う風は、イサベルが座る大木さえ縦横無尽に揺さぶり出す。
イサベルは両手で幹に捕まっているが、いつ落ちても不思議ではない。
突然二人きりにされて戸惑いはありながらも、とにかくイサベルを連れて館に戻るという使命に変わりはない。ネイチェルが「どうにかできるのはレオンだけ」と言ったのも、イサベルがいつもの様に我儘を言って周囲を困らせているから、元々世話役だったレオンが何とかしろという意味なのだと解釈した。
冷たい雨粒を顔の正面から受けながら、レオンは叫んだ。
「お迎えにあがりました、イサベル様!一緒に館へ戻りましょう!」
イサベルは、思いがけず現れたレオンの姿に胸が一杯だった。
久々の再開に嬉しくて、でも切なくて、だからといってどうすればいいのかわからない。
それに暗くて表情はよく見えないが、レオンは相当怒っているのではないか。
何ら反応しないイサベルに、レオンは雨音に負けない様声を張り上げた。
「まさか木の上で夜を過ごすおつもりですか!?それとも、木に登ったものの、降り方がわからないのですか!?」
イサベルが我儘を言ったとき、いつもこうしてレオンは小さな嫌味を言う。それに対してイサベルは更にひねりを効かせた嫌味で言い返していたが、今日はレオンの嫌味が直に胸に突き刺さって痛いだけだった。眉の付け根が震え、瞳の前に涙が滲んで景色が膨らむ。
今までと明らかに違うイサベルの様子に、レオンは戸惑った。
レオンには、イサベルがこのような奇行に及ぶ意図が、まったくわからない。
レオンはイサベルの表情がよく確認できる、木の下まで近付いた。
自分の頭より上にあるイサベルの足は裸足で青白く、濡れた水色の服が貼りついて見るからに寒そうだ。更に上を見上げれば、イサベルの肩が小刻みに震えているのもわかる。
「何が―――、お望みですか?」
「・・・。」
イサベルの視線とレオンの視線が重なった。
「このような行為をして、女官長や侍従を困らせたいのですか?でしたらもう、十分でしょう?」
イサベルは唇を噛みしめる。
――― そんなんじゃない。
「これ以上ここにいても、何もなりません。それぐらいわかっているのでしょう?」
――― 違う。
そうではないのに。
そんなイサベルの心情など想像さえしていないように、レオンは、我儘はたいがいにしろ、というようなことを諭し始めた。
久しぶりに聞く愛しい人の声だというのに、その一言一言がイサベルを苦しめ傷つける。
唇を噛みしめて耐えていたが、もう、その心は張り裂ける限界だった。
「・・・違う。」
「え?」
「違う、・・・違うのです!」
イサベルの、今まで聞いたことのないような悲痛な叫びに、レオンは息を呑んだ。
目を見開いてイサベルの青い瞳を凝視すると、そこから涙が溢れて止まらない様子が見てとれた。
「確かに私は、今まで散々周りを試すために我儘を言ってきました、でもこれは違います!」
堪えていた感情を吐き出したため、声が擦れて息ばかりが漏れる。
「私だって人間です。一人になりたいこともあります、一人で雨に打たれたいことだってあります!王女である私は、それさえ我儘だと責められなければならないのですか!?それ程までに、私は許されないことをしているのですか!?」
これ程、いや、少しでも感情的になったイサベルを初めて見たレオンは驚きを隠せなかった。
一体、どうしてしまったというのだろう?
いつだって余裕の笑みを湛え、この世に恐れるものなど何もないような自信に満ち溢れていた美しい王女が、見る影もない程乱れている。
イサベルは、長い睫毛を伏せた。
「私は今、自分が許せないのです。努力してもどうにもできない自分自身を鍛えるために、雨でも雷にでも打たれたい気持ちなのです。ですからもう少し放っておいてください・・・!」
幾筋もの涙が頬を滑り落ちる。
レオンは、何が王女をこれ程苦しめているのか考えを巡らせた。
アンドリューと何かあったのだろうか。
再び皇太后と関わって、また嫌な目に遭ったのだろうか。
カタラネス国から、何か悪い知らせでも届いたのだろうか。
それとも、何故この場にいたのかわからなかったソフィアから、リディの身に起こった事を何もかも聞いてしまったのだろうか。
そこへ。
一瞬、夜空が金色に光ったかのように見えた。
そして数秒後に、ドー・・ンという地響きが聞こえた。
そう遠くないところに雷が落ちた証拠だ。
イサベルの言う「もう少し」がどれぐらいかわからないが、それを待つ余裕はない。
レオンはコートを脱ぎ捨て身軽になると、木に足をかけて登り始めた。そう高い位置ではないため、イサベルの座る枝に手をかけるまではあっという間だった。
レオンはイサベルに向かって腕を伸ばした。
「さあ!お掴まりください。ここにいては危険です!」
だが、イサベルは首を振った。
「侯爵は先にお帰りください。・・・私は一人で帰れますから。」
「いい加減にしてください!王女様を一人置いていくわけにはいかない、以前もそうお伝えしたはずです!ご自分の立場をお忘れになったわけではないでしょう!?」
イサベルは、もう、限界だと思った。
レオンは、イサベルの思いなど少しもわかっていないのだろう。
いや。わかっていて、敢えてわからないようにふるまっているのか。
すぐにでも掴んで頬を寄せたいレオンの手を必死の思いで振り切り、イサベルは声を振り絞った。
「私はもう、王女でいる資格がないのです。」
「資格がない?」
「そうです。」
「どういう・・ことですか?」
イサベルは、枝を掴む手に力を込めた。
その刹那、これまでより強く、金の光がカッと夜空を照らした。
レオンはとっさにイサベルの手を掴んだ。
そしてそのまま強く引き寄せると、イサベルの身体を抱えるようにして木から滑り落ちた。
完全にイサベルの下敷きになる形で、レオンは腰や背中を強く地面に打ち付けたが、幸い芝生のクッションが衝撃を和らげてくれた。
どこかに落ちた雷の音が、地の底から大きく響いてくる。
レオンは思わず、仰向けに倒れたままイサベルの後頭部を守る様に強く抱き締めた。
イサベルは突然のことで何が起こったのか理解するまでに少し時間がかかったが、レオンの上に乗っている状態であることに気付くと、慌てて身を引こうとした。しかしレオンはイサベルを抱く腕に一層力を込め、引き留めた。
「いきなり立ち上がってはいけません。・・・雷の標的になります。」
「でも、侯爵の身体が・・・。」
レオンとしては、雨をたっぷり含んだ芝生の上に、王女の身体のどこをも触れさせることはできないと考えていた。だから、イサベルを抱いた腕とは逆の片肘を付き、少しだけ上半身を起こした。
「私は、このとおり大丈夫ですから。」
レオンの胸元に押し付けられる形になったイサベルの耳に、レオンの鼓動が聞こえた。
少し早い、しかし、力強い音。
まるで、ずっと待ち望んでいたかのような命の音に、心の髄が震える。
もう、堪えられない。
溢れる思いはもう、死をもってしても止めることなどできない。
イサベルは、レオンの服をギュッと握った。
「――― 好きです・・。」
激しい雨音の中だというのに、レオンは、時が止まったのかと思う程の静寂を感じた。
唇を閉じたまま、呼吸を忘れて目を見開く。
今、二人には、激しい雨も、風も、雷の音さえも聞こえなかった。
「私はもう、どうしようもない程に、侯爵のことが好きなのです・・・!」