第132話:靴擦れ
王宮へ戻る馬車の中で、ソフィアは一点を見つめながら考え込んでいた。
イサベルのような若い乙女の悩みなどある程度想像はついていたが、これは町娘のマリッジブルーとは桁が違う。カタラネスもジェードも、当人を取り巻く大勢の要人が動いてここまでこぎつけたのだから、イサベルの「やっぱり嫌」の一言で無かったことになどできるはずもない。だが、イサベルの心身はアンドリューの言う通り限界に来ている。一刻も早く対処が必要だと思うが、イサベルの恋の病に効く薬はおそらくレオンの存在だけであって、所詮医師が処方する栄養剤や睡眠薬は気休めにしかならないだろう。
「――― ・・・ア殿。
・・・・フィア殿。
――― ・・ソフィア!」
ハッと我にかえると、馬車の扉を開けて待つネイチェルの姿があった。
「王宮に着いた。」
「・・・ああ、ごめんなさい。」
ソフィアは慌ててドレスのドレープに手を差し込んで腰を持ち上げ、馬車の足踏みに爪先を差し出した。
と。
「ちょっと待ってくれ。」
ネイチェルが、まさに扉から身体を出そうとしたソフィアを静止した。
「・・・どうかして?」
「痛まないのか?」
「痛む?・・・何が?」
意味が全くわからないといった表情のソフィアを、ネイチェルは自分も馬車の中に入る形で座席に戻した。
向かいの席に座ったネイチェルは、「失礼する。」と言うなりソフィアの左足首を掴んで持ち上げた。
「!!」
何事かとひどく驚くと同時に、
「っ!」
全身を貫く鋭い痛みが、ソフィアの首を竦ませた。
ソフィアは、金糸やダイヤモンドが縫い付けられた豪華かつ高いヒールの靴を履いていた。ネイチェルが慎重にその靴を脱がせると、足の爪先、くるぶしから踵の上にかけて、白い絹の靴下に血が滲んでいる。
「靴が合わなかったのか・・。こんなになるまで我慢せずとも言ってくれればよかったのに。」
確かに靴が足の色々な部位を不自然に擦っていたが、数時間ぐらい何とかなると思って不自然な歩き方をしていた。だが、予想外に服の重みや宝石の重みは爪先へダメージを与えていたようだ。それにしても言われるまで痛みに気付かなかったとは、想像以上に緊張や考え事が深かったといえる。
「ごめんなさい。でも私には、靴も靴下も弁償するお金は無いんです。」
「そんな事より自分の足を気にすべきだ。爪も割れている様だし、着替えの部屋まで歩くのは辛いだろう。」
「御心配なく。私は骨折しても戦い続けたことがあるのだから、これしきのこと。」
「では、あなたの足より、王宮の床が血で汚れることを心配するとしよう。」
そう言うなりネイチェルは素早く馬車を降りると扉を閉め、再び馬車を走らせた。
どういうことかわからないが、気付いてしまった痛みは、気付く前の分までズキズキと神経の髄を突いてくる。しかし今できることは、馬車の中やドレスに血が付かないよう気を付けることだけだ。
馬車が止まったのは、病院の裏口だった。
ソフィアがゆっくりと立ち上がって、開いた扉から身体を外に出そうとした途端。
「!!」
一瞬、身体が宙に浮いて勝手に方向転換したのかと思った。
だが、その理由は空を切る自分の足を見てわかった。
ネイチェルはソフィアの身体を横抱きにして言った。
「こんな格好で病院内をのんびり歩いて人目についたら面倒な事になる。私の控室まで走るから、しっかり捕まっていてくれ。」
「どこに捕まったらいいの?」
思わず出たセリフに、何と間の抜けた質問をしてしまったのだろうとソフィアは恥ずかしくなった。脳は「自分で歩けるから降ろして」と声を発するよう命じたはずなのだが、口から出たのは全く違う言葉だった。想像を超える事象の連続に、相当動揺しているらしい。
だが、一方のネイチェルは冷静そのものだった。
「嫌でなければ両手を首に。それから顔はできるだけ私の身体の方へ向けた方がいい。その美しい顔も目立つ元だからな。」
言われたとおりに掴んだ首は、女性のように細いのにしっかりしている。顔を向けた間近に迫った白いシャツから覗く滑らかな肌からは、まったく匂いがしない。いつも男達の体臭にむせかえっていたソフィアには、意外で新鮮すぎる。
宣言どおり、ネイチェルは病院内を足音を立てずに走った。
勿論ソフィアを抱えている分遅くはなるが、歩いたら数分はかかる部屋まで到着するのに、1分程しかかからなかったと思う。
ネイチェルは長椅子にソフィアをそっと降ろすと、その流れで金盥にぬるま湯を汲んできた。
「傷口を洗っていてくれ。できるだけ早く戻る。」
ソフィアが何を言う隙もないまま、ネイチェルは部屋から出て行った。
あまりに思いがけない出来事が突風の様に吹き抜けていったかの感覚に、ソフィアは呆然としてしまった。気付けば、さっきまで脳内を100パーセント占領していたイサベルの悩みが吹っ飛んでいる。
ぬるま湯を用意してくれたネイチェルの思いやりに感謝しつつ、ドレスの裾をたくし上げ、皮膚に血ではりついた薄い靴下を脱ごうとすると、また新たな痛みが襲ってきた。
いかに10年ぶりのヒールだったとはいえ、これは失態だ。スパイ活動中だったら足を血だらけにしても任務を全うしなければならないところだった。
自己嫌悪に陥りながら、そっと足を湯につける。
傷口のかたまった血をほぐすように、指先で皮膚を擦った。
赤い血が湯の中を漂い透明な水に溶け込んでいく様を眺めていると、再びイサベルのことが思い出された。
これからどうしたらいいのかいくら考えても、ソフィアにできることは所詮「話を聞く」ことだけだ。このままではイサベルが達観しているとおりの未来しかない気がする。事実、イサベルはソフィアに何か提案してもらおうなどと考えていない。国家の契約の話に一介の看護師が何を言えるはずもなく、だからこそイサベルが話し相手に選んだのだから当然だ。だが、この状況を知ったらアンドリューはどうするだろう?そしてレオンは何と言うだろう?それを無しに、結論を出すのは早い気もする。
ふと我に返って顔を上げると、既にネイチェルが戻ってきていて、別の盥に新しい湯を入れているところだった。
「そこまで深く考え込むとは、余程の悩みだったとみえる。」
床に跪いて盥を入れ替えながら、ネイチェルが言った。
ソフィアは再び、澄んだ湯に足をつけた。
「解決策が無い悩みだったのよ。そしてそれを一番よくわかっているのがイサベル王女様だということが、切ないだけ。」
ネイチェルはソフィアの両足の血がきれいに洗われたことを確認すると、湯の代わりにふかふかのタオルで両足を包み込んだ。
「手当てをするから、ドレスの裾が邪魔にならないよう、しっかり持っていてくれ。」
「そんな、これぐらいの手当てなら自分でできるわ。」
「着飾った女が足を振り上げて包帯を巻く様など、みっともなくて見ていられない。」
「みっともないって・・・!」
「いいから、大人しくしていてくれ。セラーノスとの番兵交替の時間も迫っているんだ。」
ソフィアの白く細い足先は、傷だけでなく赤い腫れも伴っていた。それを労わる様に、ネイチェルは慎重に、丁寧に扱ってくれた。その優しい指先は、これまで見てきたどの男のものとも違う。自分の足元に跪いて行われる一連の所作に見入っていると、あっという間に包帯を巻かれるところまで終わっていた。
「着替えはその包みの中、靴は院内ならスリッパでいいから負担もないだろう。」
ネイチェルはそういうと、今度はソフィアの後ろに回って、何の断りもなくドレスの背中のくるみボタンを外していった。
「!」
いくら何でも事前に一言言ってくれないと、心臓が止まりそうなほど驚いてしまう。しかし、当のネイチェルはやはり全くの平静で、何の問題も感じていないらしかった。だからそのまま部屋を出ていこうとしたところを引き留めるタイミングも、扉が閉じる寸でのところだった。
「待って!私、王女様から手紙を預かっているの!」
うっかり、自分に与えられた唯一の役目を忘れるところだった。
ソフィアはネイチェルが馬車から運んできてくれた荷物の中から白い封筒を探し出し、手渡した。
「陛下へお渡しください。それから・・・レオンがいつ王宮へ戻るか知ってます?」
「あと一週間ほどと聞いているが?」
「そう。」
「イサベル王女がレオンに会いたいと言っているのか?」
「!!」
ソフィアは慌てて、首を振る。
「・・・いえ!いえ、そうではないのだけれど・・・。」
「だが、王女の悩みというのは、おおかたその辺りのことなのだろう?」
ソフィアが大きく目を見開いたのが、答えになってしまっている。
「なぜ・・・!?」
ネイチェルは、軽く息を吐きながら言った。
「レオンが自ら王女の世話役を降りたいと言い、その後を継いだ私を王女が一切受け付けなかった様子から何となく想像はしていた。」
「そのこと・・・、あなた以外に気付いている人は・・・?」
「それはわからない。」
「レオンは?レオンは、王女の気持ちを知っているの?」
「そういう気配を感じたから、役目を降りたのかもしれないとは思っている。」
「陛下は・・・?」
「どうだろう?だが・・・イサベル王女は、まさに八方塞がりだな。」
「ええ。レオン以外の男性を受け入れられないと言って泣いて・・・、でも、努力して受け入れられるようになると言うの。それしか解決法はないと言って・・・。でも、努力の前に心も身体も限界を迎えてしまうわ。それを治す薬はレオンの存在だけなのよ。だけど、それを頼ることは現実的には許されないでしょう?」
項垂れるソフィアに、ネイチェルは言った。
「このことを、陛下に報告するか?」
「いいえ・・・!それは、イサベル様との約束を破ることになるわ。現に今、あなたに気付かれただけでも私は相談役失格だというのに。」
「私は自分の考えを独り言で呟いただけだ。あなたが私へ何か言ったわけではない。」
ソフィアが返事をする前に、ネイチェルは部屋を出た。
ネイチェルは、イサベルの悩みが自分の想像通りだったことに、思わず眉根を寄せた。
この想像が杞憂であってくれたらと常に願っていたため、良くないことと思いながらソフィアに口を割らせるよう仕掛けた。だが、真実を知ったからといって、ネイチェルとて何ができるわけでもない。
そんな複雑な心情を必死に押さえつけ、王宮にいるアンドリューの元へ王女の手紙を届けた。
「すぐに読むから、ネイチェルはそのまま待っていてくれ。」
アンドリューは素早く文面に目を走らせると、すぐに視線を上げた。
「三日後に、ソフィアを再びイサベル王女のところへやってくれ。」
「・・・わかりました。」
「彼女は王女のことを、何か言っていたか?」
「王女の心身が弱っているのは確かだが、自分には何もできないと言っていました。」
「そうか。だが、ソフィアと話をすることは王女の慰めになるようだ。報酬を上乗せするから協力するよう伝えてくれ。それから、マチオに頼んで滋養がつく薬草を煎じてもらうことにした。3日後にはそれも見舞いの品に入れてくれ。それから――― 」
アンドリューは立ち上がり、言った。
「病院へ戻ったら、リディに伝えてほしい。プラテアードへ帰国させる日が決まった。本日から30日後、恩赦の発表と共に国境を越えさせる。」