第131話:気まぐれな魔法
召使がつい先ほど淹れたばかりであろう紅茶が、花柄のカップの中で芳香を漂わせている。
イサベル王女に手を引かれ、水色のクッションの置かれた椅子に浅く腰かけたソフィアは、さり気なく、そして素早く部屋の中を探った。
この部屋は、角部屋で二方向に窓がある。まだ太陽が昇っている時間にもかかわらず厚いカーテンで覆われているから、外から監視されていることはないだろう。そして、入り口の扉。鍵穴はそれなりの大きさだが、ネイチェルが外で見張っている限り誰かが覗くことはない。問題は、もう一つの壁に設けられた扉だ。侍女が待機する部屋なのか洗面室なのかわからないが、あそこだけは何かされても避けようがない。
向かい側に座ったイサベルは、テーブル一杯に並べられたケーキや小さな焼き菓子を一つ一つソフィアに勧めながら微笑みを絶やさなかった。だが、目元や頬は落ちくぼみ、瞼は腫れて目は赤く充血している。ソフィアは勧められるままにお茶を飲んだりサクランボの砂糖漬けを摘まんだりしたが、イサベル自身は全く何も口にしない。
「王女様は、お召し上がりにならないのですか?」
イサベルは、笑顔に戸惑いを混ぜた表情を浮かべた。
「胸がいっぱいで、喉をとおりませんの。」
「食欲もなく、眠ることもできないと伺いました。以前お会いしてから半月程ですが、お痩せになりましたね?顔色もよくありません。・・・本当に、苦しんでいらっしゃるのですね?」
イサベルがちょっと唇を震わせたかと思うと、丸い涙の粒が紅潮した頬の上を滑り落ちた。
ソフィアは小さなバッグの中からレースのハンカチを取り出し、王女の隣に屈みこんで手渡した。
「お優しい王女様をこんなにも苦しませるなんて、どれ程のお悩みでしょう?」
両手でハンカチを目頭に押し当てながら、イサベルは肩を小刻みに震わせる。
ソフィアは小さな椅子を運んできて、イサベルの隣に座った。
「王女様。どうぞ、そのお辛い気持ちを何でも私にお話しください。私など何を解決する力もございませんが、王女様のお気が済むまでお話を聞くことはできます。」
しかし、イサベルの涙はなかなか止まらず、話ができる状態にならない。
ここまで誰にも話せずに来たため、いざとなるとどこから切り出していいのかわからなくなっているのかもしれない。
ソフィアはイサベルの手を取り、優しく語りかけた。
「ずいぶん昔の話になりますが、私も王女様のように何も喉を通らず、何もせずとも涙が溢れてしまう日々がございました。」
イサベルが、濡れた睫毛を持ち上げる。
「王女様より少し大人の年齢でしたが、やはり誰に何を打ち明けることもできず、自分の中でその思いをどのように消化すればよいかもわからず、大変苦しい思いをしました。」
すると、イサベルは興味深く身を乗り出した。
「ソフィアさんも、私と同じように苦しんだことがありますの?」
「ええ。人は誰でも、一度はそのような思いをしたことがあるのではないでしょうか?」
「あの女官長も?私の召使いたちも?」
「そうですね。人知れず、悩んでいらっしゃったことがあるのかもしれません。」
「そう・・。全然気付きませんでしたわ。」
「理由はそれぞれと思いますが・・・私の場合は、恋わずらいでした。」
「こい・・わずらい?」
イサベルは、その言葉の意味がすぐには理解できない様に小首をかしげた。
そのあどけない仕草を見たソフィアは、微かに苦笑した。
「完璧な片思いで、何をしていても涙が零れる日が続きました。・・・柄にもないと思われるでしょうが。」
すると、イサベルは大きく首を振った。
「いいえ、そんなこと・・!でも、ソフィアさんのような綺麗な方が片思いなんて・・。」
「それは恋愛では関係のないことです。きっと、20歳も年上だった彼には、私のような小娘を女性としてみることはできなかったのでしょう。」
それを聞いたイサベルの表情が一瞬固まったことを、ソフィアは見逃さなかった。だが、それに気づかないふりをして話を続けた。
「彼は御自分の使命に一生を捧げていましたから、そもそも恋愛など煩わしいと思われたのかもしれません。」
イサベルは、遠慮がちに尋ねた。
「・・・お相手の方は今、どうされてますの?」
「10年以上前に、亡くなりました。」
「えっ・・!?」
「戦地に赴いて、敵の銃弾で・・・。」
軽く唇を噛んだソフィアは、死に際のアドルフォの顔を思い出し、眉根を寄せた。
そんなソフィアの辛そうな表情を見て、イサベルはソフィアの手を握り返した。
「愛する方が、そのような亡くなり方をされるなんて・・・。想像するだけでも胸が潰れそうですわ。ソフィアさんはずっと、その苦しい思いを抱えて生きてこられたのですね。」
イサベルは、海の様な青い透き通った瞳でソフィアを見つめた。
ソフィアは、その真剣なまなざしを見て、イサベルがここへ自分を呼んだ理由を疑うのをやめようと思った。すると、不思議なほど素直な気持ちを吐露することができた。
「今でも、一日として彼を思い出さない日はありません。もし彼があのまま生きていたとしてもこの思いは決して叶わなかったと思いますが・・・亡くなってしまったことで、かえって忘れることができなくなりました。」
「お亡くなりになったとはいえ、一生報われない思いを抱いて生きていくのは辛くありませんか?その方を忘れたいと思ったことはないのですか?」
「忘れるも何も、私にとってあの方以上の男性はこの世に存在しないのです。思いは叶いませんでしたが、人生でこれ以上ない最高の男性と関わることができたのですから、私は幸せ者です。」
「では、この先、どなたとも結婚されることはないと・・・?」
「あえて結婚を拒むというより、私の心が動かない以上、結婚はありません。」
「心が・・・動かない?」
「ええ。私は心からお慕いする男性以外と生きていくことはできません。あの方以外の男性をお慕いするような心の動きは、もう、生涯ないと思いますので。」
イサベルは、伏目がちに俯いた。
「人の・・・他人の心は、動かそうと思って動くものではないとわかっています。でも私は、自分の心は自分で動かせると思って生きてきたのです。」
「それができる、意思の強い方はいらっしゃると思います。ですが私にとってそれは、自分を偽って生きることに他なりません。」
「自分を、偽る――― 」
「そうです。それが悪い事とは申しません。人には、それぞれの生き方がありますから。ただ、私にはそのような生き方ができないというだけです。」
「・・・。」
イサベルはソフィアの言葉に、再び唇を震わせて泣き出した。
ソフィアは自分の手を握っているイサベルの手を優しく握り返し、言った。
「差し出がましい事を申し上げるようですが・・・、もしや、イサベル様にもお慕いする方がいらっしゃるのではありませんか?」
イサベルは返事の代わりに、ギュッと強く瞼を瞑った。
ソフィアは軽く頷きながら、柔らかく問いかける。
「そのお相手の事は、誰に気付かれることもゆるされないのですね?それで、このように苦しんでおられるのですね?」
自分の抑え込んだ本心を見抜かれたことで、イサベルを縛り付けていた鎖が一気に弾けた。
「私・・・でも私は、あの方の心が欲しいなどとは思っていないのです。あの方の優しさはお仕事の上でのこととわかっていますし、私など恋愛対象にはなり得ないとわかっているのです。」
「王女様・・・。」
「ですから、あの方をどれ程お慕いしていても、その思いは綺麗に断ち切って、陛下と結婚できると思っていました。王家に生まれた者にとって、恋愛と結婚は別だと物心ついた時から教えられてきました。だから陛下が私以外の方を見ていても何とも思いませんでしたし、私の方も別に思う方がいても結婚には何ら支障がないと思って生きてきたのです。なのに・・・!」
イサベルは、堪らないというように顔を両手で覆った。
「なのに、駄目なのです・・・!」
「駄目・・・?何が駄目なのです?」
「以前は全く問題なかったのです。陛下は素敵な方です。ダンスをして手を握られても、全然嫌ではありませんでした。それなのに、今は駄目なのです。あの方以外の男性に身体を触られることが耐えられなくなってしまったのです・・!」
ソフィアは、イサベルの「王家に生まれた者は恋愛と結婚は別」という達観したセリフをリディに聞かせてやりたいと思いながらも、本当の恋を知ったためにその信念が崩れてしまったことで動揺する若い乙女心が痛い程理解できた。
イサベルは、肩を震わせて一層激しく泣きじゃくっている。
迂闊な慰めの言葉をかけるわけにもいかないが、ソフィアは自分が乞われて参上したからには、少しでも事態が好転する糸口を見つけてやりたいと思った。
「そのお相手の方は、イサベル様の想いに気付いてらっしゃるのですか?」
イサベルは、顔を覆ったまま激しく首を振った。
「私、我儘ばかり言って困らせて、あの方を試すようなことをしていました。表面上は許してくださいましたが、本当は怒っていたのだと思います。ですから、私の世話役を降りてしまったのでしょう・・!」
そうか。
献血の時に王女からレオンとの関係を尋ねられた時から疑ってはいたが、やはりそうだったのか。
王女がレオンの何を気に入ったのかソフィアには皆目見当もつかないが、異国で寂しい思いをしている時に常に付き従ってくれた男に特別な思いを抱くなど、よくある話だ。しかも王女は、アンドリューが他の女に心を寄せていることにも気付いている。その鋭さは同時に、心の繊細さに繋がっている。だからこれ程に思い悩んで、アンドリューを受け入れられない自分を責めているのだろう。
「思い切って、そのお相手の方に告白して相談されてはいかがですか?もしかしたら―――」
「そんなこと、絶対駄目!!」
イサベルの顔が真っ赤になっているのは、涙のせいだけではないだろう。
それ程にレオンのことが好きなのか。
だが、もしレオンも王女を好いていたとしても、絶対に口にしないだろう。仕える主人の婚約者に対してそんな思いを抱くなど禁忌そのものだ。いや、それどころか相手は未来の王妃。国王への反逆罪で打ち首という可能性だってある。
ソフィアはイサベルの小さな肩をさすりながら、複雑な感情に駆られた。
苦しんでいる王女には申し訳ないが、この状況はアンドリューとリディにとっては朗報ではないのか。アンドリューは渡りに船とばかりに「王女が横恋慕した」とカタラネスに告げて婚約解消すればいいのだ。しかもイサベルの方が裏切ったのだから慰謝料まで取れる。
一方でイサベルには浮気者というレッテルが貼られ母国に戻ることもできず、レオンは国王の婚約者に手を出した裏切り者として打ち首を逃れたとしても国外追放は免れないだろう。それより何より、外交問題に発展してしまう。何もかもわかっているから、イサベルは許されざる恋に苦しんでいるのだ。
だが、王室の事情など知らない平民の看護師を装っている以上、ソフィアが言えることにも限界がある。
「王女様のお辛い気持ちは私にもわかりますが、私には何もして差し上げられないようです。お力になれず、申し訳ございません。」
すると、イサベルはゆっくり深呼吸をして顔を上げた。
「誰にも言えなかったことを思いきり打ち明けることができて、少し心が軽くなりましたわ。」
「ですが、王女様の悩みは少しも解消されておりません。」
「解決策が一つしかないのは、わかっているのです。私、努力します。今まで努力してできなかったことはありませんでした。あの方のことはきっぱり忘れて、陛下に触られても大丈夫になるよう頑張ります。」
「お心の在り様は、努力で変えられるものではありませんよ?」
「では、他にどうすれば?」
「それは・・・。」
「やるしかないのです。それ以外の答えはないのです。わかってはいるのです。」
何と強い、健気な決意だろう?
やはりイサベルはリディとは比べ物にならない本物の王女様だ。アンドリューだって一緒に年月を過ごせばきっと好きになる。それなのに、運命は気まぐれな魔法を降り注いだ。思わず同情するような眼差しを向けると、イサベルは言った。
「ソフィアさん。また、私と話をしに来てくださいませんか?」
「え・・・?」
「お仕事でお忙しいとは伺ってますわ。3日後ではいかがです?看護師のお給金の10倍はお支払いしますから。」
「王女様。私は既に陛下から相応の謝礼をいただいています。王女様からは、何もいただくわけにはまいりません。」
すると、イサベルは少しだけ眉を吊り上げた。
「その謝礼には、陛下への報告費が含まれているのではなくて?」
「いいえ。陛下は私に、何一つ報告する必要はないとおっしゃいました。すべては王女様に元気を取り戻していただくためであって、話の内容は関係ないのだと。」
イサベルは、下唇を噛んだ。
そして思いつめたように宙を凝視していたが、やがて。
「陛下に手紙を書きます。ちょっと待っててくださる?」
イサベルは白い机に向かって素早くペンを走らせてあっという間に書簡を完成させると、テーブルの上のお菓子や果物を籐のバスケットに詰め込んで一緒にソフィアへ手渡した。
「手紙を、必ず陛下へ。陛下のお許しがでたら、どうかお断りにならないで。」
こんな真剣な眼差しで縋られては、断るという選択肢が消し去られてしまいそうだ。
ソフィアは曖昧に微笑み、深いお辞儀をして部屋を出た。
それが、今のソフィアにできる限界だった。