第130話:くるみボタンの記憶
アンドリューは、北の塔の一室に来ていた。
王宮の端にあるこの塔に足を踏み入れるたび、マリティムが殺された時のことをまざまざと思い出す。
あの忌まわしい部屋は、中を完全に片付けた後、鍵を閉め、その鍵を捨てて永久に開かずの間とした。
今いる部屋は、最上階にある、壊れた家具が雑然と並んだ物置部屋だ。
軽く腕組みをして、汚れた窓ガラス越しに外の景色を眺めながら、アンドリューは意識を泳がせた。
国王に即位して、側近の中で一番態度が変わったのはネイチェルだ。
プラテアードの第四総督府にいた頃は、もっと砕けた態度や口調だった。
それが、いつの間にか自分を「私」と呼び、常にアンドリューを「陛下」と呼び、敬語を崩さないようになった。他の側近達は、少なくとも二人きりの時には互いを呼び捨てにする。だが、ネイチェルは違う。この間も「光栄です」などと言っていたが、あんなセリフ、以前だったら考えられなかったことだ。
そして、それに伴うように表情も硬くなった。
確かに、変装が多かったネイチェルの素の顔をどれだけ知っているのかと問われれば自信はない。元々、喜怒哀楽がはっきりしない男だった気はする。しかし、こと王宮に来てから、ネイチェルの感情を見た記憶が殆どない。
どれぐらい時間が経ったか。
静かに扉をノックする音がして、アンドリューは腕を解いた。
「失礼いたします。」
現れたのは、ネイチェルと、そしてソフィアだった。
ソフィアは、一人でジェードの王宮に呼ばれるなど想像だにしていなかったため、緊張で喉が渇ききっていた。しかも、リディが眠っている隙を狙ってこっそりと連れ出されたのだから、全身が警戒心で固まっている。
病院から王宮までネイチェルが一頭立ての馬車で送り届けてくれたが、馬車は正面の華やかなアプローチを通り過ぎ、裏手で日陰になっている廃墟の様な塔の前で停まった。壊れて使い物にならないと思われる様な錆びた扉から中に入り、蝋燭の灯りだけで照らされた暗く狭い廊下に通される。灰色の埃の塊が時折天井から降ってくるのは、もはや愛嬌だろう。
迷路のように何度も角を曲がり、方向もわからなければ目印になるような物もない。絶対一人で出口にはたどり着けないということは、逃げるという選択肢は無いということだ。
言われるままについてきた自分が軽率過ぎただろうか。
早鐘のように暴れだす心臓を宥めながら、ソフィアはひたすらネイチェルの背を追いかけ、ようやくたどり着いた部屋には予告通りアンドリューが待っていて、少し安堵した。
ソフィアが膝を深く折り曲げて挨拶をすると、アンドリューは部屋の中央へ来るよう招いた。一方、ネイチェルは扉の前から動かず、完璧な「軟禁状態」が出来上がる。
アンドリューは、ソフィアの真正面に立った。
「こんな場所に呼び出して申し訳なかったが、折り入ってお願いしたいことがあります。」
「お願い?」
思いがけない話に、ソフィアは顔を上げた。
「リディ様のことで、何か?」
「いや。・・・ソフィア殿は、イサベル王女のことを覚えていますか?」
「勿論です。病院でお世話させていただいて、素晴らしい王女様だったと記憶しております。」
「素晴らしい?」
「ええ。どこをとっても非の打ちどころがない王女様でした。」
「実は、イサベル王女はあれ以来食事も睡眠も十分にとらず、非常に弱っています。医者の診察も断っていて、何が原因かわからないのです。」
「それは、御心配なことですね。」
「イサベル王女は、ソフィア殿になら心の内を話してもよいと、面会を切望しています。」
ソフィアは、驚いて目を見開いた。
「なぜ、私など・・・?」
「実は、この要望は随分前からあったのですが、ずっと断ってきました。しかし、昨日王女に会って本当に心身が限界と感じ、背に腹は代えられぬと、お願いした次第です。」
「イサベル王女様は、私がプラテアードの人間ということを御存知ありませんよね?」
「勿論です。あなたのことは、ヴェルデ市内の病院に勤める平民の看護師ということにしてあります。」
「平民の女に、未来の王妃様が心の内を話してもよいとおっしゃるのですか?」
「イサベル王女は、ソフィア殿を心から信頼しているようだ。それに、近しい者でない、いわゆる王女の私生活に無関係な立場の者が望ましいらしい。」
「にわかに信じ難い話です。」
「俺もそう思った。もしかしたら、カタラネスがあなたの素性を探ろうとしているのかもしれないと疑った。だが、王女の弱り様は決して演技とは思えない。」
ソフィアは、僅かに目を細めた。
「私も王女様のことを好ましく思っていますから、純粋な気持ちの上ではお役に立ちたいとは思いますが・・・。」
「リスクのある役目だ。それをリディの許可なく遂行するのが問題だというのであれば、俺からリディに直接説明します。」
ソフィアは、少し皮肉めいた口調で尋ねた。
「リディ様に秘密で私を呼び出したのにはそれなりの理由があるでしょうに、そのおっしゃり様は狡くありませんか?」
「どう受け取られても構わないが、リディの許可なくあなたに動いてもらう以上、すべての責任はジェードが負う。それに、この依頼、あなたの好意に縋ろうとは思っていない。れっきとした取引をしましょう。余人に代えられないのだから相応の礼をする。ソフィア殿の身辺はネイチェルがお守りする。危険を感じたら逃げて構わないし、王女が何を話したかについても、俺に報告する義務はない。」
ソフィアは驚いた。
「王女から何を聞いたか、知りたくないのですか?」
「重要なのは話の内容ではなく、王女の気持ちが軽くなり健康を取り戻すことです。そもそも、ソフィア殿に話した内容を問いただすなと、イサベル王女から釘を刺されている。」
「それを間に受けるとは、御結婚前から随分と王女様の尻に敷かれているのですね。」
アンドリューは、僅かに眉を顰めて口を噤んだ。
何ら言葉を返さないアンドリューに、ソフィアは、頬の内側に煮え切らない思いを滾らせた。
皮肉めいた事を言って、うっかりリディへの想いを口走らないかと期待したが、駄目だった。イサベル王女が苦しんでいるのも事実だろうが、それ以上に気遣うべき相手がいるのではないか?当のリディは、シンシアやソフィアの前では何もなかったかのように装っているが、そんなに簡単に傷が癒えるはずもない。リディは体力が回復次第プラテアードに帰国できると言っていたが、全然嬉しそうではない。むしろ、日に日に瞳の生気がなくなっていく。
――― 嫌。
アンドリューは、何一つ間違っていない。
植民地の首長より婚約者の身を案じる、当然の事だ。だが、それがどうしようもなく腹立たしい。
そして、それを腹立たしく思う自分も、やはり腹立たしい。
ソフィアは、アンドリューを睨み上げて言った。
「私を動かすのであれば―――、安くはありませんわよ?」
「わかっている。とりあえず手付は、消失したアドルフォ城の再建でどうだろう?」
「!?・・・それは・・・。」
「不服ですか?」
「いえ、そんなことは・・・。」
「王女との面会が一度で終わるかどうかわかりませんし、後の展開によっては、報酬を上乗せしましょう。」
「随分と気前がよいのですね。・・・可愛い婚約者のためなら金など惜しまない、ということでしょうか?」
ソフィアが、嫌味ではなく真剣な表情をしたため、アンドリューはそれに応えた。
「婚約した以上、責任がありますから。では、商談成立ということで、すぐにイサベル王女の館へ行ってもらえますか?」
突然の展開に、ソフィアは戸惑いつつも頷くしかなかった。
ネイチェルに促されるように部屋を出る間際、アンドリューは言った。
「ジェードの平民ということにはなっているが、一応、国王の特使という役目が与えられたことになります。王女の謁見に相応しい身形を整えてください。すべてはネイチェルに任せます。」
一時間後。
ソフィアは、生まれて初めて貴族の正装に身を包んでいた。
今まで見たこともなかった絹のエメラルドグリーンのドレスは、幅広の細長い布で肩を覆うシックなデザインで、無地に見える生地には細かな透かし模様が施されていた。本物の金と真珠の装飾品を身に付ければ、初めて経験する重さに、世の貴婦人達の贅沢な苦労を知った気がする。極秘の任務だからシンシアの手を借りられなかったとはいえ、ドレスを身に付けるところから、髪を結い上げて化粧をするところまで手掛けたのは、男であるネイチェルだった。女装のプロであるから慣れているのは当然なのだが、男に身支度を任せた経験など皆無だったソフィアには、初め、強い戸惑いがあった。だが、ネイチェルがソフィアを異性として意識する素振りは全くなく、何もかもビジネスライクに徹していたため、ソフィアも次第に意識する方がおかしいと割り切ることができた。
化粧を施してもらうために瞼を伏せて顔を預けていると、不思議な感覚に包まれる。
ネイチェルは、男でも女でもない、中性的な存在といえるだろうか。
かなりの時間が経ったとはいえ、強姦された過去の記憶が、男との身体接触を避ける様、長い間ソフィアの本能に働きかけてきた。革命家の仲間は男だらけだったが、彼らを異性として意識しないように接してきた。ジェードに潜入してクラブで歌っていた時は、酔った男の手を避けきれない事が多かったが、その度にスカートのポケットに忍ばせたアドルフォの形見のくるみボタンを握り締めて耐えた。常に兄のキールの傍にいて、少しでも女としての自分に興味を持ちそうな男が近づいてきたら、「声をかけるな」という警戒心を剥き出しにしてバリアをはって逃げてきた。そんな自分が、ドレスの背中のくるみボタンを男に留めさせる日が来るなど思いもしていなかったが、ネイチェルの特性が幸いしたのか、嫌悪は全く感じずに済んだ。
イサベル王女が住まう館の前に立つと、ネイチェルが、いつも通り館の呼び鈴を鳴らした。
すると、いつも通り侍従が扉を開け、その奥から女官長が顔を出した。
そして、ネイチェルの顔を見るなり、この世で一番醜いものを見たかのような表情で横を向いた。
「また、あなたですの?子爵は私共の言っている事がわからない頭の持ち主なのでしょうか?陛下は、カタラネス国王の書簡を随分と軽んじていらっしゃるのですね!?」
ネイチェルは、深く頭を下げた。
「本日は、イサベル王女様の御要望どおり、陛下の命により看護師のソフィア嬢をお連れいたしました。」
ソフィアも、腕を広げてドレスの襞を持ち上げ、深々と頭を下げた。
すると、女官長は甲高い声を響かせた。
「まーあ!やっとですか!?たかが平民の女性一人よこすのに、随分と勿体付けたものですわねぇ!」
ソフィアは、なぜこの女性に嫌味を言われなければならないのか?と奥歯を噛みしめた。
女官長は、続けた。
「ソフィア嬢は、どうぞ中へ。王女様がお待ちかねですからね。子爵には用はございませんからお引き取りいただいて結構です。私共は、あなたの仮面のように表情のない顔を見ていると、気分が悪くなりますの。」
ソフィアは、思わず顔を上げた。
この女は、何と心無い言葉を口にするのだろう?
ネイチェルは、これまでもずっとこんな侮辱を受け続けてきたのだろうか?
顔を上げることなく、ネイチェルは冷静に話を続けた。
「恐れ入りますが、私は陛下より、イサベル王女様の部屋の外までソフィア嬢に付き従うよう仰せつかっております。このことは、王女様も了承済みと伺っております。」
「知ったことですか!?子爵を館に招き入れるなど、考えただけでもゾッとしますわ。」
それでも頭を下げ続けるネイチェルを見て、ソフィアは堪らず上体を起こし、女官長の前に進み出た。
「私はアンドリュー陛下より、ヴィエルタ子爵と共に王女様に謁見するよう言われて参りました。その子爵と一緒に行動できないというのであれば、陛下の命を全うすることができませんので、残念ですがこれで失礼させていただきます。」
「えっ!?」
女官長は、ギョッとして言葉を失った。
ここでソフィアに帰られては、イサベル王女に言い訳がたたない。王女は部屋の窓から馬車の到着を見ているのだから、もはや誤魔化し様がない。
女官長は物凄く不本意だという感情を露わにしつつも、二人を館に入れるしかなかった。
そこから先は、侍従長を名乗る紳士が現れ、二階にある王女の部屋まで誘導してくれた。
イサベル王女は、侍従長が扉を開けるなり、部屋の入口まで走ってきた。
「やっと・・!やっと来て下さったのね。お待ちしていましたわ!」
ソフィアに抱き着いて泣いているイサベルを見て、ソフィアもネイチェルも、王女が本当に精神が衰弱しているのだと実感した。
「大変遅くなり、申し訳ございませんでした。」
ソフィアが優しく王女の肩に手を置くと、イサベルは無遠慮に涙を手の甲で拭い、にっこりと笑った。
そして。
「ヴィエルタ子爵、陛下とのお約束ですから、ソフィアさんと二人きりにしてください。くれぐれも、立ち聞きはなさらないでくださいね?」




