第129話:安息の合間に
三国で交わした覚書が破棄されたにも関わらずアンテケルエラがプラテアードに攻め入ったことは、ジェードへの宣戦布告を意味している。だが、アンテケルエラ軍がプラテアード領地に留まって制圧を主張していないことからも、領土剥奪を目的としていないことは明白だった。
アンドリューはプラテアードとアンテケルエラの国境へ、特使を派遣した。
もはやリディの存在を欲していないエストレイに、この先ジェードと全面戦争をしてまで得たい物などないはずだ。プラテアードの痩せた土地に興味がないこともわかっている。にも拘わらずジェード側へ喧嘩を売ってきたのだから、次はジェードがアンテケルエラを攻撃して当然。アドルフォ城を犠牲にさせたことで、ジェードはアンテケルエラに対し、今後の流れについて主導権を握ることができたのである。
アンテケルエラの国王は病床に臥していたが、感情に任せた息子の采配に激怒し、エストレイを交渉の席に着かせないだけでなく、国家運営における権限を当分の間剥奪することにした。
二国間の交渉の場にはアンテケルエラ国王直下の家臣数名が現れ、ジェードの「全面戦争を避けたければ、相応の賠償金を支払うこと」との提示を、ほぼそのまま了承して片がついた。
交渉成立の知らせを聞いたアンドリューは、思わず天を仰いだ。
戦争を避けるためにリディが自らに課した犠牲が、これで無駄にならずに済んだのだ。
アンテケルエラ国王も、流石に息子の暴君を嘆いていたというから、目の黒い内は勝手な真似をさせないだろう。
そして、リディが二度と子を産めない身体になったことは、既に大陸全土の王族に周知されている。王家存続に関わる「紋章の有無」が真しやかに知れ渡るのと同じ、裏のネットワークを利用した結果だ。これでカタラネスの王子も、二度とリディに近づこうなどと考えないはずである。
アンドリューは、一連の事態が収束したことをリディに伝えた。
リディは、ジェードがいかに最小限の犠牲で事を治めたのか、感服せざるを得なかった。
感謝・・・すべきなのだろう。
だが、それを言葉にすることはできない。
最善の策だったとはいえ、アドルフォ城が焼失したのだ。その事が胸の奥を燻って、何をどう表現すればいいのかわからない。
沈黙が続いたため、アンドリューはリディに背を向け、退室しようとした。
「――― 、あの!」
このままではいけない。
あまりに無力で、情けない自分。
そんな今の自分にできる唯一つのことを伝えるために、リディは必死に声を振り絞った。
アンドリューが、肩越しに振り返る。
リディは上半身を前のめりにして、言った。
「一つ、お願いがあります。」
「・・・。」
「暗号を・・・、洞窟の暗号解読の続きをすすめたいのです。」
アンドリューは、眉を顰めた。
「ここで作業を進めるためには、国王の日記などの書物を外へ持ち出すことになる。あれは国家の最重要機密だ。それはできない。」
「・・・ですが、あと少しでまとめられるところまで来ているのです。」
「そうかもしれないが、無理なものは無理だ。」
「では、解読は・・・?」
「残りは時間ができたら再開する。この先は、俺一人で行うつもりだ。二度と、国王の寝室にリディを入れることはできないからな。」
「・・・!」
息が詰まる。
『国王の寝室に入れることはできない』
そのセリフが意味するのは、何か。
アンドリューの結婚が近いということではないのか。
しかも、二人を繋いでいた―――、いや、未来へ繋がれると思っていた唯一の絆を断たれた。
もはやアンドリューにとって、暗号の読解などどうでもいいのかもしれない。
ジェードは、無理に峡谷の発掘などしなくても十分裕福だ。プラテアードとしては例えジェードに7割とられても残り3割が欲しいぐらい飢えているが、本来、ジェードにとったらどうでもいい話だったのだろう。
リディは、アンドリューが部屋を出たのも気付かない程に打ちひしがれた。
少し前まで噛み合っていたアンドリューとの歯車が、ずれていくのを感じる。
(違う・・・。噛み合っていると思っていたのは私だけで、実際は違ったのだ。)
アンドリューが優しいと感じたのも、同情される要因が重なったに過ぎない。
都合のいい妄想から、いい加減目を覚まさなければならない。
体力が回復したら、ジェード国王即位の恩赦という名目で、リディは帰国する。それは、アンドリューの恩情などではない。アンドリューははっきり言ったではないか。リディの事を「人質にする価値はない」と。
リディは口を押えて嗚咽を堪えた。
自分は何をしにジェードに来たのだろう?
何をどこから、どう間違えたのだろう?
こんなつもりで国を後にしたわけではなかった。
国に残っていれば、アドルフォ城が犠牲になることなどなかったのかもしれない。
フィゲラスと共にプラテアードを出たあの日に、キールの説得に応じて留まればよかったのかもしれない。
しかし、この時のリディに渦巻いたのは、『後悔』では片づけられない、複雑すぎる感情だった。
一週間が過ぎた。
アンテケルエラの新たな動きは見られず、アンドリューは少しだけ一息つくことを自分に許した。
香り高いお茶で久々に寛いでいると、それを見つめているハロルド伯爵の何か言いたげな様子に気付いた。
「どうした?何かあるなら言ってくれ。」
ハロルドは申し訳なさそうに頭を下げ、銀の盆に乗った封書を差し出した。
「実は、カタラネス王国より文が届いております。」
白い封筒は、既に封が切られている。
「僭越ながら、先に内容を確認させていただきました。イサベル様付きの女官長が色々と母国へ告げ口しているようでして、カタラネス国王陛下より、苦言が呈されております。」
アンドリューは素早く文面に目を通した。
「アンテケルエラとの事を隠しておいたことを快く思っていないようだな。あとはネイチェルの事を相当悪く書いてあるが、奴は何か気に障るような事をしたのか?」
「この文を読んだ後ネイチェル殿に確認したのですが、実はいつも門前払いで、館で王女様と顔を会わせた事はないそうです。」
「一度もか?レオンと交替してから、かなり時間が経っているぞ。」
「ええ。ネイチェル殿は何もおっしゃいませんが、どうやら女官長がネイチェル殿を嫌っている様です。ソフィア殿を王女様に会わせられないことについても、繰り返し説明に上がる度、女官長からかなり辛辣に人格を否定するような言葉を投げつけられた様です。」
ネイチェルが浮かない顔をしていた理由は判明したが、この女官長は非常に質が悪いようだ。「婚約者である我が娘を大切にしていない」とカタラネス国王の叱責に繋がるよう、身に覚えのないような濡れ衣が手紙には連なっている。これは女官長が「あることないこと吹き込んだ」結果なのだろう。
しかし、イサベルを放置していたのは事実だ。
手紙に書いてある通り、イサベルがベッドから出られず臥せっているというなら、心配だ。
アンドリューは、イサベルに会いに行くことにした。
落ち着いたらきちんと話をしようと考えていたが、それとは別に、最早に様子を確認する必要がある。それに、この女官長を大人しくさせるためにも、ネイチェルがこれ以上嫌な思いをしないためにも、直接会いに行くのが一番だろう。
アンドリューは伯爵に命じて、その日の夕刻にイサベルを訪ねる手はずを整えた。
館では、侍従や女官長だけでなく、すべての使用人がアプローチに出て、アンドリューとハロルド伯爵を出迎えた。全員が腰を折って丁重に二人をもてなす。
これ以上ない満面の笑みを浮かべた女官長は、気味が悪い程の猫なで声でアンドリューをイサベルの部屋に通した。
「王女様。陛下がお見えですよ。」
アンドリューは始め、薄暗い部屋の中に人の気配を感じることができなかった。
部屋の窓は、すべて厚いカーテンで覆われている。
「どうぞお二人でごゆっくり。」
そう言われて中に入り、数回ゆっくりと瞬いて、窓際の椅子から立ち上がったイサベルに気付いた。
ランプの灯りに照らされた華奢な身体は、宙に浮いているかのように儚く見えた。
イサベルはアンドリューに向かって、ドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
「陛下・・・、お忙しいところわざわざお越しいただいて恐縮です。」
ところが、お辞儀をした頭の重さに耐えかねた、と思うように体がゆらりと崩れた。
アンドリューが驚いて駆け寄り、イサベルの身体を支えた。
イサベルは床に手をつき「醜態をさらし、申し訳ございません。」と力なく謝罪すると、アンドリューの手から逃れるようにスッと身体を離した。
瞼が赤く腫れているのは、毎日泣き暮らしているというのが事実だからだろう。
青白い顔に、やや落ちくぼんだ頬、浮き出た鎖骨。アンドリューが最後に見たのは、リディに血を提供した時。あの時は決してこんな風ではなかった。確かに最後は泣いていたが、あれは非日常への感情の高ぶりによるものだと思っていた。この半月程度で、何がどうしたというのだろう?
「部屋から出ていないそうですね。食事も睡眠もとれていないと聞いています。カタラネスから同行させた医師には診察させないとのことですが、このままでは本当に病気になります。いえ、もう身体を壊してしまっているかもしれません。どうか理由を話してくださいませんか?」
アンドリューの言葉を聞くなり、イサベルの瞳が膨らんで涙が頬を伝った。
イサベル自身もそれを不味いと思っているらしく唇を一生懸命噛みしめるが、震えるだけで涙は止まらない。
「では、質問をしますから、頷くか首を振るかで答えてください。・・・国が恋しいのですか?」
イサベルは、激しく首を横に振る。
「皇太后とのことですか?やはり、相当心を痛められたのでしょう?」
イサベルは、やはり首を振る。
「誰かに、何か嫌な事を言われましたか?嫌がらせを受けたとか?」
それにも首を振り続ける。
アンドリューは最後の質問をした。
「結婚が、嫌になりましたか?」
その質問に、イサベルの身体が一瞬硬直した、と見えた。
だが、次の瞬間には、きっぱりと否定するように首を振った。
そして。
「陛下・・・、お願いがございます。」
「何でしょう?」
「ソフィアさんと話をさせてください。」
「・・・ヴィエルタ子爵が御説明したと思いますが、彼女は――― 」
「元の病院にお戻りになったことは聞いています。でも、お休みの日に来ていただくことも駄目なのですか?彼女のお屋敷まで迎えをやりますし、決して負担になるようなことはいたしません。お給金が必要でしたら、相応の御礼をいたします。」
「なぜ、そこまで彼女をお望みですか?看護師なら、他にも優秀な者は大勢おります。」
「私、看護師を呼びたいのではありません。ソフィアさんと話がしたいのです。」
「彼女は平民です。病院では緊急事態でしたのであなたのお世話をお願いしましたが、話し相手として相応しい身分ではありません。」
イサベルは、悲し気に眉をひそめた。
「・・・私には、思い悩むことがございます。でもそれは、父の息がかかっている私の家臣には話したくないのです。ソフィアさんとは一晩だけのお付き合いでしたが、本当に真心こめてお世話してくださいました。今の私には、口が堅く誠実で、いい意味で利害関係がない他人の女性が必要なのです。ですから、身分は関係ありません。」
「ソフィア殿を、そこまで信用していいのですか?」
「疑い深い私が、ほんの数時間で心を許した初めての女性です。私は、私の直感を信じています。その先何があろうと、すべての責任は私にあります。決して陛下に御迷惑はおかけしません。」
「・・・。」
「私には、気持ちを吐露できる相手が必要なのです。自分ではどうしようもないこの気持ちを整えるために、どうかお願いでございます。」
神に祈る様に胸元で両手を合わせ、イサベルは頭を下げた。
イサベルの心身が弱っているのは確かだ。もはや限界かもしれない。そこまで王女を追い詰める悩みを聞くことが叶うのがソフィアだけだと言い張られては、他に手立てはない。王女の我儘と言って放置はできる段階は、とうに超えている。
アンドリューは、頷いた。
「ソフィア殿に聞いてみましょう。ただし、平民の女性を一人で王女に会わせることはできません。私の信頼のおけるヴィエルタ子爵を付けること、それが条件ですがどうでしょう?」
死んだようになっていたイサベルの瞳に、パッと光が宿った。
「部屋の外までなら子爵も御一緒で構いませんわ。その代わり、私が話した内容を、ソフィアさんに問い詰める様な事はなさらないでくださいね?」
「ええ、勿論です。」
嬉々とした様子のイサベルを見つめるアンドリューの視線が不意に捉えたのは、婚約指輪をしていない、イサベルの細い指だった。