第128話:アドルフォ城、陥落
その日の空の色を、誰も覚えていない。
プラテアード、未明。
群青に金の光を放った明けの明星を、紅蓮の炎が縦柱となって貫いた。
石造の小さなアドルフォ城は、旧ジェード第三総督府の領地と共に、丸3日間をかけて燃え尽きた。
プラテアードの国境近くに位置するアンテケルエラ王国エシャンプラ城の窓から、エストレイ王子は深紅に染め上がる空を眺めて、一人、高笑いを轟かせた。
病室のベッドで天井を眺めるしかないリディの下をアンドリューが訪れたのは、深夜のことだった。
ハロルド伯爵を伴い、見張りをしていたネイチェルに抑えた声で伝えた。
「シンシアとソフィアを部屋の外へ出す。シンシアは伯爵が王宮へ連れ帰るが、ソフィアはネイチェルがここへ留め置け。その間に、ソフィアへ例の事を話しておくんだ。くれぐれも俺がいいというまで、中には入らせるな。」
ネイチェルは、深く息を吸って頷いた。
リディだけでなくソフィアにとっても、重く、辛い現実を、これから突きつけねばならない。
ノックの応答を待たずに入ってきたアンドリューに、リディは何事かと枕から頭を持ち上げようとした。ソフィアとシンシアは、ハロルド伯爵の手招きで、素早く部屋から出ていく。
「休んだままでいい、聞いてくれ。」
リディはアンドリューの蒼い瞳の尋常ならぬ色を見て、固唾を呑んだ。
悪い知らせなのはわかる。問題は、それがどの程度悪いか、だ。
逸る胸を押さえて、心の準備を急ぐ。
「アドルフォ城が、アンテケルエラによって全焼した。」
「え・・・。」
リディは、何が起こったのか理解していない、不思議そうな表情を浮かべた。
アドルフォ城?
それは、プラテアードがジェードとの死闘で勝ち取った革命の象徴で、プラテアード国民の心の拠り所としていた、あのアドルフォ城のことか?
ゼンショウ・・・それは、どういう意味の単語だったか?
頭が、事実を理解するのを拒絶するかのように動かない。
反応を示さないリディに、アンドリューは話を続けた。
「アンテケルエラの軍勢がプラテアードの国境を突破して、旧第三総督府の城壁外を囲み、火を放った。総督府内の建物も、橋も・・・そして、アドルフォ城も、焼け落ちた。」
リディは、左肘をついて上半身をもたげた。
独りでにざわめく胸に追いつくように、思考が徐々に覚醒していく。
「なぜ?だって国境はプラテアードだけでなく、ジェード軍も守りに入っていると聞きました。プラテアードはともかく、ジェード軍もアンテケルエラに屈したということですか?」
アンドリューは、瞼を伏せがちにした。
「屈したわけでは、ない。アンテケルエラに攻め込まれる前に、人も家畜も食料も、可能な限り第四総督府へ避難させておいた。キール達も、勿論無事だ。」
「そんな・・・。それではまるで、攻められるのを覚悟していた様ではありませんか?」
「そのとおりだ。」
アンドリューの冷静な声に反して、リディの瞳に、力がこもる。
「攻められるとわかっていて・・・いえ、わざと攻めさせたということですか?」
「そういうことになる・・な。」
リディは、首を振った。
「キールが、そんなことを認めるはずありません!」
「これはプラテアードの意志ではない。すべては俺が、命じたことだ。」
アンドリューは、兼ねてから準備していたリディへの『弁明』を口にした。
「アンテケルエラ軍は強い。ジェードがいくらプラテアードに加担しても、戦いが長期化するのは目に見えている。善戦してもその間の犠牲は計り知れない。今回の戦は、エストレイの怒りが原因だ。その矛先をどこへおさめさせるか考え、可能な限り早期の収束に向けて計画的に動く必要があった。」
「その計画で、アドルフォ城をエストレイに差し出したと・・?」
「そうだ。」
「――― ひどい・・・!」
思わず口を突いて出た言葉に、リディもアンドリューも苦悶の表情を隠せなかった。
しかし、アンドリューは追い打ちをかけるように続けた。
「プラテアードはジェードの植民地だ。そもそもアドルフォ城はジェードの持ち物だ。それをどう扱おうと、プラテアードに口を挟む余地などない。」
「・・・!」
「それに、アンテケルエラを十分に満足させるための手段として、アドルフォ城ほど最適な物はないことはわかるだろう?実際、アドルフォ城が焼け落ちるのを確認してアンテケルエラ軍は引き上げた。エストレイの復讐欲が、ある程度満たされた証拠だ。」
「ジェードが何と言おうと、・・・あの城は、私達プラテアードの心の拠り所だったのです。」
「わかっている。だが、他に方法があったか?アドルフォ城を守るために、プラテアード軍を最後まで戦わせて全滅させたかったか?」
リディは、震える手で羽根布団を握り、大きく何度も冠りを振った。
理解はできる。
アンドリューは、最善の策をとった。ジェードの最高指揮官として、最適な判断を下したに過ぎない。
しかし、近年弱まりつつあった独立に向かう国民の意志を辛うじて奮い立たせていた象徴が無くなった消失感は、未だ実感さえ頼りない。
アンドリューはリディに背を向けて立ち去ろうとした。
と。
ドサッ、と後ろで大きな物音がして、思わず振り返ると、そこにはベッドから転げ落ちるようにして床を這うリディの姿があった。
リディはベッドの縁を掴み立ち上がったが、数歩も歩けずに崩れ落ちた。
「無茶だ!」
アンドリューは思わずリディに駆け寄り、両肩を支えた。
「一体、何をしようと言うのだ?」
「プラテアードへ帰るのです。私は、こんなところで休んでいられない。」
「こんな身体で、できるわけがないだろう?」
「できるかどうかが問題ではないのです。私は―――、何があろうと私だけは、アドルフォ城を見捨ててはならない!」
「お前はジェードの人質だ、勝手な真似は許さない。第一、今さらアドルフォ城へ行ってどうする?」
「私は、国民が私の父を敬愛してその名を冠したあの城を何としても守らねばならなかった!すべての人間が城から逃げても、本来私だけは、城と共に心中しなければならなかったのです!」
「既に焼け野原になってしまった大地に立ち竦んでどうする!?」
「国民にお詫びを・・・!私のせいでこんな結果になってしまったことを詫びるために、せめて城跡に私の血を注ぐぐらいのことはせねば!」
「無駄な事だ。それで何が変わる?国は救われるのか?それで未来が開けるのか?国民が喜ぶのか!?」
「救われなくても、未来が開かれなくても、私は常にアドルフォ城と共にあったということを示す必要があるのです!私は今や革命家でも何者でもない。でも国民の志気を高めるために、私がアドルフォの娘として生き抜いたことを示すことはできる。それが私の責任です!」
「責任?死ぬことが責任か?違うだろう!わかっているはずだ、生きねば何も始まらないと!ここまで多くの人の手によって生かされてきた事を、忘れたなどとは言わせない!」
「忘れてはいません!でも、アドルフォ城を失った国民の気持ちを考えると、何もしないなんて許されない!」
「ならば、その気持ちを憎しみに変えて貯めておけ!アドルフォ城を差し出したのは、俺だ。プラテアード国民の心の拠り所と知って敢えて差し出した。今は何もかも、作戦のためなら人の心を犠牲にすることも厭わないジェード国王のせいにしてしまえ!」
「っ・・!」
アンドリューはリディから視線を反らして、距離をとった。
「ジェードはプラテアードを植民地にして以来、憎まれて当然なのだ。昔も今も、そして―ーーこれからも。」
リディの瞳が揺らめいた。
ジェードはプラテアードの独立など認める気はないのだ。
ジェードはあくまで支配する側で、プラテアードはそれに従うしかないのだ。
唇を噛み、柔らかな天鵞絨を指で掻きむしる。
立ち上がれないリディに手を貸すこともせず、アンドリューは言った。
「・・・ソフィアを呼ぶ。大人しく養生することだ。今のリディにできることは、それしかない。」
アンドリューとリディが言い合いをしている間に、ソフィアはネイチェルから、アドルフォ城の陥落を告げられた。
話を聞いている途中から、持っていたガラスの水差しを握る両手が震えだし、話が終わると同時に、
パリン!と、ガラスがソフィアの手の中で弾けた。
ネイチェルがハッとして音の正体を確認すると、ソフィアの両手から赤い血が滴っていた。
割れたガラスを、ソフィアは握りしめたまま離そうとしない。
「手を!」
ネイチェルが慌ててソフィアの手首を掴み、ガラスを掴む指をはがそうとした。
が。
「離して!」
ソフィアが、鋭い声で叫んだ。
「放っておいて下さい!」
「放っておけないだろう!指をもぎ取る気か!?」
「あなたには関係がないことだわ!ジェードの人間に助けられるなんて、恥ずべきことよ!」
金色の前髪を振り乱して、ソフィアはネイチェルの掴んだ手を振りほどこうと身体を揺すった。しかし、想像以上にネイチェルの力は強かった。自分の両手首を掴む手は、まったく緩む気配がない。
ソフィアは、目前にあるネイチェルの顔を凝視した。
女のドレスを着こなす華奢な身体のどこから、こんなに強い力が湧いてくるのだろう?
だが、ソフィアは怯まず更に両腕に力を込めて抵抗した。
「アドルフォ城を失ったプラテアード人の気持ちなんて、ジェードの人間には決してわからないでしょう!?」
「そのとおりだ、わかるはずがない!だが、こんな手をリディ様に見せる気か?家臣として、主人に余計な気遣いをさせるべきではない。それは国が違っても変わらないだろう!?」
奥歯を喰いしばって抵抗するソフィアに対しても、ネイチェルの手は微動だにしなかった。しかも、表情は相変わらず涼し気で、憤りを抱えきれないソフィアの感情は激しく煽られた。ジェードの人間に、この悲しみや痛みを少しでもわからせたい、そんな思いで、ソフィアはフッと腕の力を抜いた。
案の定、抵抗を諦めたと判断したネイチェルが、ソフィアの手首を離した。
その刹那。
「・・・くっ!」
自由になった手の中で握っていたガラスを、ソフィアはネイチェルに向かって投げつけたのである。
ガラスの破片は思ったより大きく、そして鋭かった。
ネイチェルの下瞼の数ミリ下に、数cmの赤い筋がついていた。その筋から、ツーっと雫が頬を伝う。反射的に避けていなければ、眼球を直撃していたかもしれない。
それを見たソフィアは、息を呑んで立ち竦んだ。
だが、ネイチェルは自分の傷など意に介さない様に、スッと踵を返してその場からいなくなった。
怒ったのだろうか?
そんな憶測を巡らせる間もなく、すぐにネイチェルは小さな薬箱を抱えて戻ってきた。
そして、長い指をした手を差し出した。
「陛下が話を終えるまで時間がない。早く。」
「・・・え?」
「指の手当てをするから、早く。」
ソフィアは、思わず「結構よ。」と言って横を向いた。
「その血だらけの指でリディ様の世話をするつもりか?時間がないと言っただろう、早くしてくれ。」
渋々両方の手のひらを差し出すと、まだガラスの小さな欠片が刺さっていることがわかったため、ネイチェルはそれらをピンセットで抜く作業から始めねばならなかった。ソフィアが苦痛に眉を歪めても、唇を噛んでも、ネイチェルは静かに淡々と応急処置を進めた。最終的に、ソフィアの手の平も指も包帯だらけになり、どちらにしてもリディの心配は避けられそうになかった。
手当てが終わると、次の仕事は床の上に散らばったガラスの片付けだった。廊下の中央だけに敷かれた絨毯の奥に入り込んだ小さなガラスの粒は拾いきれないが、残すと怪我の元になってしまう。二人は思わず夢中になって、床に顔を近づけて這い回った。気付かない内に距離が近づきすぎて、ソフィアが慌てて顔を上げると、目の前にネイチェルの赤い傷があった。
「それ・・、何とかした方がいいでしょう?」
「それ?」
「目の下。・・・さっき、私が投げたガラスで傷になってるのよ。気付いてなかった?」
「ああ・・・、何か頬が濡れた気がしていた。」
「主人に気を遣わせるなと言った張本人が、鈍すぎるわよ。」
ソフィアはそう言うと、薬箱から消毒液の染みたコットンをピンセットでつまんだ。
「薬が入るとまずいから、目を閉じて。」
ネイチェルは何も言わず、瞼を閉じた。
ソフィアは慎重に傷口をコットンで拭った。固まっていた血がコットンに吸い取られると、再び傷口から血が滲みだす。慌てて新しいコットンに変えて、傷口を抑える。
絶対痛みがあるはずなのに、ネイチェルは眉間一つ震わせることはしない。
一重瞼に、短いが毛並みのいい睫毛。美形というより、整った面立ちをしている。男としては白い肌と控えめな鼻が、女装するにはうってつけだったのだろうか。
「血がとまらないけど、ガーゼを当てるのは嫌でしょう?軟膏を塗りましょうか?」
「ああ。後は自分でやれる。」
ネイチェルは薬を塗り終わると、言った。
「言い訳にもならないが・・・、アドルフォ城を犠牲にすることを決断したのは陛下だが、一番最後まで反対していたのも陛下だった。」
ソフィアはネイチェルに背を向けたまま言った。
「・・・安心しました。」
「え?」
「下手な情などに流される方ではなかったことがわかりました。そうでなければ、強国の国王など務まりませんものね。」
アンドリューが部屋から出てきた時には、二人は何事もなかったかのように廊下に並んでいた。
「ソフィア殿。・・・ネイチェルから話は聞きましたね?」
「はい。」
「では、リディの事を頼みます。リディはアドルフォ城へ戻りたいと言ったが、それはできないし、俺が許さない。これまでどおり、大人しく養生させてくれ。」
「わかりました。」
アンドリューがふと下を見ると、ソフィアの手に巻かれた新しい包帯が目に入った。そして前を見れば、ネイチェルの頬にうっすらと赤い線が浮かんでいる。
アンドリューが部屋の中にいる間に、この二人の間にも何かあったとわかる。だが、二人が何事もなかったかのようにふるまっている以上、アンドリュー自身も何も見なかったことにした。
「ネイチェル、引き続き見張りを頼む。」
「はっ。」
病院の出口に向かいながら、アンドリューは脳裏に浮かんだリディの苦悶の表情を振り切る様に、首元のタイをむしり取った。