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第127話:温かな夜

 アンドリューは朝から夕方までは公務室で、夕食後は寝室隣の執務室で過ごしていた。

 ネイチェルは、アンドリューが執務室で一人きりになったところを狙って訪問した。

 白いシャツの襟元と同様に、緊張の糸を緩めたアンドリューは、疲れ切ったこめかみを片手で支えながら、書類に目を通している。

「お疲れのところ申し訳ございません。イサベル王女様の館へお使いに行ってまいりましたので、報告だけさせていただきます。」

 ネイチェルは女官長の伝言通り、「御礼」と、そして「ソフィアのこと」を伝えた。

「・・・ソフィアを?」

 アンドリューは思わず顔を上げた。

「何が狙いだ?」

「申し訳ございません。ただ『よこしてほしい』とのことだけでしたので。」

 アンドリューは睫毛を伏せて少し考え、

「・・・駄目だ。彼女はリディの家臣だ。先日は緊急事態だったから王女の世話をお願いしたが、本来、リディの許可なく指示を下すのは好ましいことではない。例え支配側の国王であってもだ。それに、ソフィアの素性をカタラネスが探らないとも限らない。危険すぎる。」

「イサベル王女様には、どのようにお伝えしますか?」

「あの日は臨時で手伝ってもらっていただけで、本来の職場であるヴェルデ市内の病院へ戻ったと伝えてくれ。看護師が必要なら、看護師長に行ってもらえばいい。」

 それをあの女官長に伝えたら、また「王女様の事を、何とお心得ですか!?」とヒステリックに叫ばれそうだ。思わず出そうになった溜息を、ネイチェルは寸でのところで抑えて頭を下げ、部屋から立ち去ろうと踵を返した。

 と。

「ネイチェル。」

 不意に呼び止められ、動きを止める。

「一休みしたい。お茶をいれてくれないか?」

「・・・はい。」

「今朝、薔薇の花びらの入った蜂蜜が届いた。一緒に味見をしてくれ。」

 驚いた。

 アンドリューと二人でお茶を飲むなど、今まで無かったことだ。

 エンバハダハウスに住んでいなかったネイチェルは、他の側近達よりアンドリューとの距離があることは否めない。だから、どういう風の吹き回しだろう?と疑問に思ってしまう。

 ティーポットもカップも温めてから、丁寧にお茶を淹れている間に、アンドリューは書類を整理し終え、執務机の上は綺麗に片付けられていた。

 ネイチェルがティーサーブを終えると、アンドリューはソファの向かい側に座るよう促した。

 ほんのりピンク色に透き通った蜂蜜を紅茶に溶かし、一口飲んで落ち着いたところで、アンドリューは口火を切った。

「何か心配事でもあるのか?」

「え?」

 顔にも声にも変化はなかったはずだ。それとも、抑えていたつもりの溜息に気付かれたか?

「いえ、何も・・・。」

「そうか?」

 アンドリューは、ネイチェルを軽く睨んだ。

「俺は生まれた時からネイチェルの世話になっている。何かあるなら、今度は俺の方が力になりたい。それとも、俺はそれ程に頼りにならないか?」

 ネイチェルは、震えそうになった唇を思わず噛みしめた。

 アンドリューの気遣いが、こんなにも嬉しい。

 だが、言えない。

 カタラネスの女官長に嫌われているとか、イサベル王女に未だ御目通りも叶っていないとか、本当はこの役目を降りるべきだと思っているとか、言ってはいけない。どれも子供の言い訳だ。国家の大事に寸暇を惜しんで働いているアンドリューに、つまらぬ心配をかけてはならない。自分の悩みなど、取るに足らないちっぽけなものだ。

「お心遣い痛み入ります。・・・私には、勿体ないほどです。」

「なぜ、そんな他人行儀な事を?今は二人きりでプライベートな時間だ。お互いの愚痴をこぼしても、つまらぬ悩みを打ち明け合ってもいいと思う。今は俺を国王扱いしなくていい。逆に、してほしくない。」

 その真摯な言葉に、女官長の言葉で突き刺さった棘が溶けて、傷口が癒えていくのがわかる。

 アンドリューは、臣下をよく見ている。そして、理解しようとしてくれる。だから皆、アンドリューがとても好きで、アンドリューのために命を捧げても惜しくないと思うのだ。

 ネイチェルは、伏目がちにして言った。

「このような贅沢な時間を過ごせたことで、力を得ました。また明日から、勤めに励みます。」

 口を噤んだアンドリューの表情を見て、ネイチェルは自分を厳しく諫めた。

 何も言わずとも自分を理解してくれる主人に、二度とこのような顔をさせてはならない。


 翌朝、ネイチェルは最早に館を訪問し、丁重にソフィアの件を断った。

 すると案の定、女官長から散々嫌味を言われ、罵倒された。

 ネイチェルはただひたすらに低頭し、長い時間を耐え忍んだ。

 すべてはアンドリューのため。

 正統な王家の血を継ぐ王子でありながら、大人の勝手な都合で影の身として扱われ続けた唯一無二の主人のため。

 それが、今のネイチェルの生きる支えのすべてだった。



 朝の柔らかな日差しに誘われるように、リディの瞼が半分だけ持ち上がった。

 リディが再手術を受けてから3日後のこと。

 ベッドの脇でひたすら見守り続けたシンシアとソフィアは、リディの意識が戻った事に手をとりあって喜んだ。

 シンシアはすぐに看護師長を呼びに行き、ソフィアはリディの意識を留めるように、白い手を強く握りしめた。

 リディは今の状況を理解しているのかどうかわからない虚ろな目のまま、再び瞼を閉じた。

 それでもソフィアは尚、リディの細い指を力一杯握りしめた。

 女性として、身体も心も傷ついたリディを思うと、胸が締め付けられる。

 昔、男達に凌辱されてベッドから出る事さえ出来ず夢でうなされていたソフィアの手を一晩中握っていてくれたのは、リディだ。優しい手に包まれて、心がほどけていくのを遠い意識の中で感じていた。だから今は、ソフィア自身がその役割を果たしたいと思う。

 リディは一日中、少しだけ目をあけたり眠ったりを繰り返していた。

 夜の色が濃くなると、シンシアは王宮内の居室に戻り、ソフィア一人が病室に残った。

 午前2時頃、さすがのソフィアもベッドに頬を埋めて微睡んでいると、不意に冷たい感触が額に走った。

 ハッして起き上がると、それは、目覚めたリディの指だった。

 リディはソフィアの額にかかる前髪を避けてあげようとそっと触れたつもりだったが、起こしてしまったことに困惑の表情を見せた。

「ここは・・・ジェードの病院?」

「そうです。傷口を再度縫合するための手術が行われて・・・、少なくとも一週間はベッドから出られませんからね。」

 ソフィアは喉の渇きを訴えたリディに「少しだけですよ。」と言って、水差しを唇にあてがった。そして、フィゲラスらがプラテアードへ帰国した事やアンテケルエラの報復に備えてジェードと共にプラテアードが動いていることを手短に説明した。

 リディは瞼を固く閉じて、苦い表情を見せた。

「私の不手際のために、このような・・・。」

「これは、リディ様のせいではありません。」

「いや。・・・私が強引にプラテアードを出たことが、すべての発端だ。」

 ソフィアは首を振った。

「違いますよ、リディ様。罪を犯したのはエストレイ王子です。」

「でも、プラテアードを離れなければ起こらなかったことだ。」

「そのことと、あの王子がやったことは別です。」

「避ける術はあったのだ。私に落ち度があったと責められても―――」

「いいえ!」

 ソフィアは、床に膝をつき、リディの目線に自らの瞳の位置を合わせた。

「例えどんな状況であろうと、男に犯された女が、自分に落ち度があったなどと考えてはなりません。この世に、男が女を犯していい理由など存在しないからです。」

 リディが何か言いかけたが、ソフィアの言葉の方が早かった。

「しかもエストレイ王子は、自分の望みが叶わなかった事を逆恨みして相手を攻撃するという、権力者として最低の行為に及ぼうとしているのです。決して許してはなりません!」

「ソフィア。それは正論だが、戦いが始まればそうも言っていられぬ。」

 リディはそう言って、灰色一色の天井を見上げた。

 血の色の薄い唇を真一文字に結んだ横顔を見て、ソフィアは言った。

「私は・・・リディ様が女性としてこれ以上ない程に傷ついてしまったことを憂いております。」

「うん・・・、わかっている。」

「堕胎の事はともかく、二度と子を授かることができないというのは・・・お辛いことですね。」

 リディは、一度口端を引き結ぶと、

「私の存在を二度と争いの種にしないためには必要不可欠な事だった。それに元々、プラテアード王家の血は私で完全に断つつもりだったしな。」

 これ以上詳しい事は、ソフィアには話せない。

 だからリディは、言った。

「私が自ら堕胎した時、二度と子を孕めぬようになるかどうかまで、確証はなかった。だからこの結果は、神の思し召しだと思っている。」

「神?」

「うん。神というか・・・この世が、未来に私の遺伝子は要らないと判断した結果だと思っている。」

 ソフィアは、思わず言葉を失った。

 それは、自分や兄、そして多くの仲間達にもあてはまる事だったからだ。

 震える唇が、その思いを声にした。

「それは、自ら意図しようとしまいと、結婚できなかったり子を授からないのは、神から淘汰すべき人種と判断された結果だということでしょうか?」

 その言葉を聞いて、リディはハッとした。

「すまない。・・・そういうことではないんだ。人間の優劣とかそういう意味ではなくて、輪廻というか、人の力ではどうにもならない運命のようなものというか・・・。すまなかった。このようなこと、自分以外に言ってはならぬことだった。」

 ソフィアの瞳から、自然と涙があふれていた。

 結婚せず、子を設けることのなかったアドルフォが、神から「不要な遺伝子」と判断されたのだとすれば、理不尽の極みだと思った。

 そして兄キールも、自分も。自ら選んだ道であっても、淘汰される遺伝子だと考えると切なかった。

 リディは、ソフィアの頬に指を伸ばして、その涙をすくった。

「すまない。・・・傷つけてしまったな。」

 その時、ソフィアの脳裏に、アドルフォの死に際が鮮やかに蘇った。

 銃弾に倒れ、仲間に囲まれたアドルフォは、傍らで泣いているソフィアに手を伸ばし、今のリディと同じように涙を指ですくってくれた。ソフィアの想いを知っているからこそ、悪戯に期待をもたせるような言動をとらないよう細心の注意を払っていたアドルフォ。そんな彼の、最初で最後の甘い優しさだった。それを思い出し、ソフィアの視界は更に涙で揺れた。

 美しい金色の髪の奥で濡れる睫毛を見つめながら、リディは何度も謝罪を述べた。

 病身のリディに、これ以上の負担をかけてはならない。

 ソフィアは喉の奥に力を入れて涙を懸命に堪えた。

 それを見たリディは、目を細めてソフィアの頬に触れながら言った。

「ジェードに残ってくれてありがとう、ソフィア。」

「・・・判断されたのは、アンドリュー様です。」

「うん・・・。だが、残ると決めたのはソフィアだろう?」

 ソフィアはリディの手をとり、改めて誓った。

 自分の役目は、昔も今も、リディを守ること。それがプラテアードの未来を創ることだと信じている。これからどうなるか全くわからないが、自分がすべきことを着実にこなしていけば進むべき道が示されるはずだ。

 リディと手を繋いだまま眠ったソフィアは、久しぶりにアドルフォの夢を見た。

 それはただただ、幸せな夢だった。


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