第126話:ネイチェルの顔
再び手術室に運ばれたリディには「絶対安静」が言い渡され、しばらくは王宮に戻ることも許されず、万全の看護ができる病院内で過ごすことになった。
翌日からは、強引に取らされていた「休暇」を終えた医師や看護師、研究員達が続々と戻ってくる。
リディの事を悟られないよう、王族専用の特別室は厳重に管理され、診察や世話をするのは、これまでの事情を知っている人間に限定した。
アンドリューは、側近達を再度招集し、今後のことを細かく指示をした後、軍の幹部や大臣達と会議に明け暮れた。エストレイが報復で何を仕掛けてくるかわからない以上、少しの安息も赦されない。プラテアードのキールへ、国境付近に待機しているジェード軍の幹部と打ち合わせをするよう電報を打ち終えると、ソフィアらプラテアードの人間を、国王の公務室に呼び出した。
重厚なマホガニーの扉の奥に広がる公務室には、ひっきりなしに国の要人が出入りしていて、控室ではアランが交通整理に明け暮れていた。ソファに案内されたソフィア、ミヒャエル卿、医師ジロルドは、部屋の調度品の絢爛豪華さや、出入りする人々の身に付けている物の質の良さに思わず感嘆の声をあげた。
峡谷一つ隔てただけで、何という格差だろうか?
ソフィアは膝の上で拳を握りしめ、眉を吊り上げた。
(これはすべて、植民地から搾り取った血税じゃないの。羨ましがるものではないわ。)
心の中で何度も頷き、自分の立場を思い返す。
10分程で公務室に通され、国王の執務机の向かい側に、三人並んで腰かけた。
アンドリューは机の引き出しから、金色のフリンジがついた小さな緋色の巾着袋を二つ取り出すと、口早に言った。
「表に馬車を待たせてあります。病院にいるフィゲラスと共に、すぐにプラテアードへ帰国してください。俺の側近のジャックを御者に付けます。キール殿には既に電報で連絡済みです。」
ソフィアは、身を乗り出した。
「今、どのようなことになっているのか、御説明いただけませんか?」
アンドリューは、立ち上がった。
「リディが流産したことで、三国間で交わした覚書は白紙になり、戦争に関する約束は破棄されたが、エストレイが報復のためにプラテアードへ攻め入る可能性は否めません。全面戦争とまではいかなくとも、総督府の一つや二つ襲うかもしれない。それに備えて、我が軍もプラテアード軍も既に動き出しています。ジャックには国王の命令書を託しました。国境でキール殿と打ち合わせをしている将軍は、最も優秀で信頼の篤い男です。ジャックも、ああ見えて軍の司令部の経験があり、参謀としても優秀です。しばらくプラテアードに滞在させますから、頼りにしてください。」
ジロルドは、厳しい表情で聞いた。
「リディ様は、どうなさるつもりじゃ?」
「少なくとも一か月は病室から出られません。アンテケルエラの動きにもよりますが、目途がたてば、必ずプラテアードへお返しします。」
「フィゲラスは、リディ様から離れないと思うがの?」
「リディのことは院長らが責任をもって治療にあたります。フィゲラスは抵抗するかもしれませんが、プラテアードには医師が少ない。有事に備えるという意味でも、フィゲラスは貴重な人材でしょう。」
ソフィアは、軽く顎を引いた。
つまり、リディを一人置いていくということだ。
まだ傷も癒えず意識もままならないリディを、一人残すのか。
リディは、ただ怪我をしたわけではない。女の尊厳を汚され、さらに女の機能を自ら壊したのだ。伯爵夫人が親身になって付き添っていることはわかっているが、それだけでいいのだろうか。
ソフィアは、思い切って言った。
「アンドリュー・・陛下。お願いがございます。リディ様の護衛兼小間使いとして、私だけここに残ることはできませんでしょうか?」
アンドリューは少し目を見開いた。
「ソフィア殿、あなたはプラテアードの幹部だ。皆、あなたの帰国を待ちわびているのではありませんか?」
「国には兄がおりますし、フレキシ派のメンバーも、ジェードからの援軍もいただいています。私は、リディ様がこれ以上危険な目に遭ったり、傷ついたりしないようお守りする使命があると考えています。今回の一連の出来事がジェードの責任とは言い切れないまでも、プラテアードの首長が傷つけられたのは事実です。やはり前線で盾になり、命を賭けてお守りするのはプラテアードの人間の務め。・・・私もリディ様も、所詮は植民地の人間ですから、立場はわきまえます。病院内の必要な場所以外は出歩きませんし、ジェードの方がいない所でリディ様と話をするようなことも致しません。」
アンドリューにとって、あれ程ジェードを敵視し、勿論今も敵視しているだろうソフィアが、そしてリディがアンドリューと関わることを誰よりも許さなかったソフィアが、このような申し出をするのは驚きだった。しかし同時に、その裏に陰謀があるかもしれないという疑念が沸く。
だが、そんなソフィアをジェードに招いたのは他でもないアンドリュー自身だ。
ソフィアが、自らの辛い体験を―――、おそらく当時の事を知っている人間以外には決して話したことのなかったろう屈辱の体験を晒してリディへの憂いを示した時に、その人間性を信じることにした。もはや何の因果もないイサベル王女の面倒まで見させて、今更信じる信じないもないだろうが。
アンドリューは少し口を噤んだが、短い時間で答えを出した。
「身分は、ヴェルデ市内の王立病院から派遣された看護師。リディの病室外では必ずネイチェルをつけさせてもらう。リディが入院している間は、寝食は隣の控室を使い、生活に必要な物は伯爵夫人に頼んでください。」
ソフィアは、安堵の息を吐きながら、感謝の意を述べた。
アンドリューは頷くと、机上に置いていた緋色の袋をジロルドに渡した。
記憶のある、ズシリという重み。
「俺が用意できるだけの金貨を入れてあります。」
ジロルドは、アンドリューを見上げた。
「この間も、血清と一緒に、大金を・・・。」
「国王とはいえ、大臣達にわからないように金を用意することはできないのです。これは、国王の執務室や寝室の調度品を、ハロルド伯爵に頼んで処分して工面したのですが・・・。大した金にはならず、申し訳ない。」
そう言ってアンドリューは少し苦笑した。
「ばれないように、売り払った調度品の代わりによくできた偽物を配しているのですが、そろそろ限界のようです。」
ソフィアは、複雑な思いに唇を噛んだ。
アンドリューは、一体何を考えているのだろう?
プラテアードを、本当はどうしようと考えているのだろう?
ジロルドとミヒャエル卿は何度も頭を下げ、そしてすぐにプラテアードへ向かって出発した。
リディから離れる事を渋ると思っていたフィゲラスは、何か言いたげな表情を抑えこんで、大人しく馬車に乗った。
病院に一人残ったソフィアは、リディの警護の命を受けているネイチェルの監視下に置かれることになった。玄関ホールに迎えに来たネイチェルと共にリディの病室へ向かう途中、看護師長とすれ違った。
看護師長は鼻眼鏡を銀の鎖で首にかけた、厳しい面持ちの女性だが、極めて優秀で信頼に値する女性だ。今も、院長らと共にリディの治療にあたっている。彼らはリディがプラテアード王女であることを百も承知しており、ソフィアのこともプラテアード人と勘付いているだろうが、決して口には出さない。
看護師長はネイチェル達とすれ違い様に、
「ヴィエルタ子爵。一時間後に院長が診察に伺うと、伯爵夫人に伝えておいてください。」
と言い、二人を一瞥することもなく脇をすり抜けていった。
ソフィアは、隣を歩くネイチェルを見ることはせず、ひとりごとの様に呟いた。
「子爵・・・、成程。」
「・・・。」
「エンバハダハウスでアンドリューを取り巻いていた連中は、やはり皆、只者ではなかったというわけね。」
ネイチェルも、ソフィアの方を見ることなく言った。
「あなたこそ、プラテアード王家取り潰し前は、名家の令嬢だったのでは?」
「そんな昔の事は覚えていないわ。今の私はただのソフィア。家柄など必要のない、革命家のね。」
リディが療養している特別室に繋がる廊下の曲がり角で、ネイチェルは立ち止まった。
この場所で、ネイチェルは警護に当たるのだ。
ソフィアは、自分と寸分変わらない背の高さで、男性としては驚く程腰の絞れたスタイルを思わず凝視してしまい、腰から上へ、鼻筋と額の輪郭を辿ったところで「あ」と声を上げた。
「どこかで見た顔だと思ってずっと気になっていたけど、あなた、プラテアード第四総督『プリフィカシオン公爵』として、アンドリューの身代わりに領土を回ったでしょう?」
「・・・。」
口元を引き締めるネイチェルを見て、ソフィアは続けた。
「もっと前の事を言えば、ヴェルデ市内でレオンとよくデートしてたわよね?なかなかの美女ぶりだったわ。・・・リディ様もだけど、私も始めは本気であなたがレオンの恋人だと思っていたもの。」
ネイチェルは返事に困ったが、ここは言い返すことにした。
「そういえばあなたは、夜のクラブで歌姫として舞台に立っていた。何度か潜入して聴かせてもらったが・・・いい声だった。だが、あれはスパイとしては目立ち過ぎだと思って、怪しむことを躊躇った時期もあった。」
ソフィアは軽く驚き、だがすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「お互い、プロのスパイということで共通点があって何よりだわ。」
「私があなたの監視役についたのも、すべて見越した陛下の策略ということだ。」
「結構な事だわ。でも安心して。今の私はリディ様を守る事だけにしか関心はないの。」
「その目的は私も同じだ。王宮にいながらリディ様を守れなかったことは、心から申し訳ないと思っている。」
ネイチェルの表情は、まったく変わらない。喋っている時は唇だけが上下に開いているだけで、その他の顔の筋肉が機能していないのかと思う程だ。
口先だけなのか、心底そう思っているのか、表向きは全くわからない。
「・・・信じないわ。植民地の人質なんて、どうでもよかったのではなくて?」
「信じてもらおうとは思わない。ただ、陛下の命令を抜きにしても、これ以上傷を負うようなことはさせてはならないと思って、ここにいる。」
ソフィアは、遠い目をして覚悟を語るネイチェルを正視し続けられず、目を背けて扉の向こうへ進んだ。
ジェードの人間を信じるつもりはない。
王国を滅ぼしたのはジェードだ。父と母を殺したのはジェードだ。プラテアードから人として生きる権利を奪って、プラテアード人が汗水流して働いた稼ぎを根こそぎ奪って贅沢しているのはジェードだ。そんな傍若無人な国家こそ、滅びてしまえばいいと思う。ありとあらゆる天災に見舞われ、苦しめばいいと思う。
だが、今、頼りにしているのはジェードの人間に他ならない。
リディの治療にあたっている院長や看護師長。ハロルド伯爵に伯爵夫人。アランにレオン、ネイチェル、そして、アンドリュー。信じられなければ、どんなことをしてでもリディを連れてプラテアードへ戻っていた。
なのに・・・。
複雑、などという言葉で語ることもできない感情に、ソフィアは眉間を固くした。
その日の夕刻。
ネイチェルと6時間ごとに警護を交替する要員として、アンドリューの側近の一人であるセラーノスが病院へやってきた。そして、アンドリューの指示と言って、イサベル王女へ届ける「献血の御礼の品」を、ネイチェルに託した。
剣の達人で陽気な性格のセラーノスは、「それ届けたら一休みしろよ。じゃ、6時間後にな!」とニコニコして手を振った。
ネイチェルは、心底(なぜ、セラーノスが届けるのでは駄目なのか?)と思ったが、言っても何も変わらないため、いつも通り腹の中に収めた。
高価でめずらしい異国の果物の詰まった大きな籠を抱えて、離れの館の玄関に立つと、ネイチェルは鼻先から大きく息を吸った。
これ程までに王女から拒絶されて、この役目は荷が重い。
これまで与えられたどんな危険な任務でさえ、こんな気持ちになったことはなかった。
暗たんたる気持ちで呼び鈴を鳴らすと、すぐに侍従が現れた。
アンドリューからの御礼の品だというと、侍従は籠だけ受け取るといったん扉を閉めて中に入り、5分後に女官長が現れた。明らかに「歓迎していない」視線をネイチェルに浴びせてくる。
「王女様はずっと臥せってベッドから出られない状態です。それなのに、陛下自らお出ましにならないというのは、一体どのような了見でしょうか?」
「陛下は、他国との争いを食い止めるべく奔走されております。ですが、イサベル王女様の事は常に気にかけておいでです。」
「まあ、どうでしょうねぇ?たかが30分、王女様のために時間をお作りになることが不可能とは思えませんわ。」
「事態が落ち着き次第、お伺いしたいと申しておりましたので。」
女官長は「フンッ」と鼻先で息を吐き、横を向いた。
「他国との争いなどとおっしゃいますが、我がカタラネスとの関係については、どれ程危機感を抱いていらっしゃるのやら。今回の事をカタラネス国王に御報告差し上げたところ、相当の剣幕でお怒りでしたわ。婚約を解消させるとおっしゃっていたのを、私が必死で止めておりますのよ。」
感謝しろとばかりの得意顔を眺めながら、ネイチェルは頭を下げるしかなかった。
「体調が優れないのでしたら、王家専属の医師をよこします。」
「結構ですわ!こちらにも、ちゃんと医師は連れてきておりますからね。」
そこへ、館の奥から侍従が戻ってきて、女官長に一言二言囁いた。女官長は大きく何度か頷くと、改めてネイチェルの方を向いた。
「王女様からの御伝言です。陛下への御礼と、それから、近々、病院で王女様のお世話をしたソフィアという看護師をよこしてほしいと。」
「え?」
驚いた。が、表情はそのままだ。
そのネイチェルの顔を見て、女官長は眉を顰めて呟いた。
「――― 何と気味の悪い。」
小声ではあったが、ネイチェルにははっきりと聞こえた。
女官長は一旦背中を向けたものの、わざわざ振り向いて、汚らわしいものを見るかのような視線を向けた。
「眉一つ動かさず、目の色も変えず、まるで仮面の様!何を考えていらっしゃるのか不気味でたまりませんわ。だから王女様がお相手になさらないというのが、わからないのでしょうかねぇ?」
それでも瞬き一つしないネイチェルに、女官長は追い打ちをかけた。
「もしやこれは、陛下の嫌がらせではないでしょうね?こんな薄気味の悪い方を我が王女の使いにするなど、侮辱にも程がありますよ。第一このような扱いを受ければ、普通の感覚をお持ちの方なら、御自分からお役目を辞退されると思いますけどねぇ。」
そのセリフが終わると同時に、音を立てて乱暴に扉が閉まった。
ネイチェルは溜息をつきたくなったが、それを呑み込んで踵を返した。
だが、喉の奥に感じた違和感は、いつものように容易く消えることはなかった。
アンドリューに、何を報告すればよいのか。その疑問で脳裏を一杯にして、ネイチェルは帰路についた。