第123話:月満ちて -その5-
レオンからイサベル王女の事を聞いたアンドリューは、驚きの色を隠せなかった。
いくら輸血の相手がリディだと知らないとはいえ、王族が自らの血を提供するなど、まずありえない。それに、アンドリューが驚いたことはもう一つある。レオンがイサベル王女の世話役にソフィアをつけたことだ。王女の服や体に触れるのが女性の方がよいのはわかるし、採血の手伝いをしていた女性を王女に付けたのは自然の流れだ。だが、いくら非常事態とはいえ、ジェードに敵対心を抱いている女に、未来のジェード王妃の世話をさせるなど、レオンらしからぬ行動だった。
レオンはソフィアが敵だという事を忘れているのではないか?それとも、アンドリュー以上に理性を失っているということなのか。
だが、レオン自身が何の疑問も抱いていない以上、アンドリューも当然のように受け流した。
「レオン、日が昇る前に、エストレイの滞在するホテルへ行ってくれ。あと3日間だけジェードに留まるよう伝えてほしい。」
「3日間?」
「詳細は、後で正式な書状をよこすからと言っておけばいい。」
「3日で、いいのか?」
「本当は1週間欲しいが、ヴェルデで不穏な動きをされる隙をつくりたくない。どちらにせよ、今もホテル内外近衛兵が固めているとは思うが、『大事な要人の警護』と称して更に人を増やせ。それからアンテケルエラとプラテアードの国境、アドルフォ城周囲の兵士の数も、今の3倍にするよう命じておけ。プラテアードへもその旨、電報を。」
言葉の最後の方は、もはやアンドリューの背中しか見えなかった。
白衣をまとっているせいか、いつも以上に、それは冷たく見えた。
血液の提供のために集まったすべての人間—―― イサベル王女以外 ――― が病院を後にしたのは、東の空の色が変わり始めた頃だった。そして、同じ頃にジロルドが一人、手術室から出てきた。
他の医師達が、高齢のジロルドに、休憩を兼ねて状況を報告に行くよう促したらしい。
ジロルドはネイチェルに支えられながら長椅子に腰かけると、アンドリューへ言葉少なに報告をした。手術そのものは終え、今は縫合中と言う。
アンドリューは、軽く顎を引いて尋ねた。
「命の危機は脱した、と考えていいか。」
「ひとまず、いいじゃろう。多量の出血が最も心配されたが、ありがたいことに長時間断続的に提供してもろうた。それに流石ジェードの医療技術はプラテアードとは比較にならん。院長先生らをよこしてもらって感謝ですじゃ。わしには見たこともない聞いたこともない方法もあったし、フィゲラスも知識はあるがやったことがない技術を目の当たりにして、息を呑んどった。」
「それは、ネイチェルの進言のおかげだ。それと、伯爵が彼らをヴェルデ市内に留めて置いてくれたことにつきる。」
ジロルドは、少し和らいだアンドリューの表情を見て、他にも報告すべきことはあったが、この場で言うことは控えた。
再び手術室へ戻る間際、ジロルドから「簡単で栄養価の高い軽食」を所望され、アンドリューの側近達はすぐに動き出した。病院に厨房はあるが、食材が何もない上、調理する気力は誰にもなかったため、王宮の厨房で大量に作られていたサンドウィッチやマフィン、キッシュや焼き菓子、ミルクと果物を3人の男たちが6つの籠に詰め、その脇で愛想のいいジャックが「陛下含め徹夜で会議をしていてね。まだ続きそうなんだ。もらってくよ。」と適当な言い訳をして取り繕った。その間にハロルド伯爵とアランは、病院の厨房で沸かした湯で紅茶を淹れ、食卓を整えると、手術室にいる医師達を一人ずつ食堂へ呼んで休ませた。
彼らは目の前に座るアンドリューに、言葉少なに現状を伝えながら、甘いシロップをたっぷり吸ったブリオッシュを好んで食べ、5分も経たないうちに手術室へ戻っていった。
つまり、まだ治療は終わらないということなのだ。
最後にフィゲラスが一人で現れ、アンドリューはテーブルの真向かいに座って険しい表情で尋ねた。
「包み隠さず、現状をすべて話してくれ。」
フィゲラスは、緑の瞳でアンドリューを凝視し、眉を吊り上げた。
「それはこちらのセリフですよ、陛下。リディ様と別れて2か月強。ジャックさんが教えてくれていた『事実』は本当に極一部だったと思い知らされました。リディ様との再開が、まさかの手術室だったのですからね。」
フィゲラスは拳で机を叩いて、怒りを表現した。
「自ら堕胎するなんて、しかもこんな危険な方法でなんて、尋常じゃないですよ!一応確認させていただきますが、陛下の子ではない、わけですよね?」
「・・・フィゲラス、すべての経緯は後で話す。だから今は、リディの状況を教えてくれ。治療は後どれぐらいかかる?ジロルドは命の危険はないと言っていたが、それは本当なのだろうな?」
フィゲラスは、冷たいミルクを注いで飲み頃になった紅茶を一気に飲み干した。
「十分な血液に、優秀すぎる医師達、最新の設備。最高の条件ですからね。ただ、子宮だけでなく、他の臓器の損傷もあって・・・なかなか出血が止まらなかった。でも、何とか目途がたちました。だから私が出てきたのです。間もなく、リディ様を病室へ移します。」
「そう・・か。」
安堵の息を深く吐くアンドリューを目にして、フィゲラスも溜息をついた。
「まったく・・・!血だらけのリディ様を見たときは、心臓が止まるかと思いましたよ。」
「このタイミングでフィゲラスを呼んでおいた自分に、褒美をやりたい程だ。本当に助かった。」
「私には一生、リディ様をお助けする運命が与えられているのだと思います。」
「俺もそう思う。・・・フィゲラス、あの医師達に知り合いはいなかったか?」
「私がジェードで『死人』扱いになっているからですか?ジェードという大国の医療の、いわば最高位に就いている方々ですよ?私がジェードで医師として働いていた頃になど、一緒に手術室に入るどころか顔を合わせる事すら叶わない立場の方達です。互いにマスクをしていて人相はよくわかっていませんが、万一いたとしても、事情があることを察して何も聞かないし、決して他言はしませんよ。」
フィゲラスは、軽く唇を引き締め、抑えた声で言った。
「今回の事も、国王自ら、王妃でもない女性のために動いているわけですから、公にできない事情があることぐらい百も承知です。でもそれを、絶対口にしない。一流の立派な方々ですよ。」
フィゲラスは一口サイズに切り分けられたフルーツケーキを2、3、口の中に放り込むと、立ち上がった。
「病室へ移動した後も色々な処置がありますし、当分は医師が一人ずつ交代で見守ります。麻酔が切れた後に、激しい痛みに襲われると思います。ただ、痛みをおさえる薬も限界量を超えているので、一定時間を置かないと薬を打てません。・・・リディ様にはお辛い時間が続きます。落ち着いたら、陛下をお呼びしますから、それまでは病室には入らないでください。医師と看護師以外は面会謝絶でお願いします。」
「それは、目安としてどれぐらいか?・・・三日後には、リディは立って歩けるか?」
フィゲラスは憤慨した。
「立って歩く?三日後に?陛下はリディ様を何だと思っているのです?三日後なんて、まだベッドから出ることもできませんよ!」
何を馬鹿な事を言っているんだ、とばかりに文句を言いながら、フィゲラスは食堂から立ち去った。
アンドリューが食堂を見渡すと、シンシアが疲れ切った様子で隅に座っていた。素人のシンシアは、手術室から解放されたらしい。その近くで、ハロルドが銀のワゴンにティーセットを準備している。
「それは?」
アンドリューが尋ねると、ハロルドは頭を下げた。
「イサベル王女様とソフィア殿へ朝食をお届けしようと思いまして。シンシアが、持って参ります。」
それを聞いたアンドリューは、首を振った。
「いや、シンシアは相当疲れているだろう。俺が行く。」
「陛下が・・?ああ、それではワゴンは私がお運びします。」
「一人で大丈夫だ。ハロルドも休んでくれ。」
時間は、午前7時を過ぎたところ。
まだイサベルは眠っているかもしれないが、徹夜のソフィアにも食事をとらせたい。
特別室の扉を静かにノックすると、すぐにソフィアが扉を僅かにあけ、訪問者を確認した。
「アンドリュー・・・陛下。」
「イサベル王女は?」
ソフィアは身体を半分外へ出し、囁き声で言った。
「先ほど、お目覚めに。少し頭が重い様ですが、献血後の一時的な症状かと。」
「丁度よかった。朝食を運んできた。・・・少し、王女と二人だけで話がしたい。すぐに終わるから廊下で待っていてもらえるか?」
するとソフィアは、更に声を抑えて言った。
「・・・婚約者なのですから、お二人で食事をされたいのではありませんか?私はリディ様の事が気になりますし・・。」
「リディなら手術が終わって、間もなく病室へ運ばれるところだ。王女との話はほんの2、3分で終わる。待っていてくれ。」
ソフィアと入れ替わるようにアンドリューが中へ入り、扉が閉まった。
ソフィアにとっては、二人が何を話すのか気にならないわけはない。もちろん今でもリディとアンドリューの仲を許してはいないし、今回の事については「どう責任をとるつもりか?」と詰め寄りたいと思っている。なのに、ここでアンドリューがイサベル王女と仲良くしようものなら腹立たしくて、アンドリューの銀の髪を掴んで顔中ひっかいてやりたい衝動にかられてしまう。どういう意図であれ自ら堕胎したリディを差し置いて女といちゃつくなんて、絶対許さない。閉じられた扉を、思わず息を凝らしして睨んでしまう。
イサベル王女は、大きな枕に上半身をもたれかけさせていた。
「このような格好で・・・御無礼をお許しください。」
「気にすることはない。そのままで。」
イサベル王女は青い瞳で、ベッドの傍らに立つアンドリューを見上げた。
「怪我をされた方は・・・、助かりましたの?」
血が必要な理由は誰も話せないため、通常であれば、怪我で大量出血したと思って当然だ。
「危機は脱しましたから、御安心ください。それより、今回のあなたの行動には本当に驚かされました。一国の王女が、血を提供してくださるなんて・・。国の御両親が聞いたら、さぞお怒りになるのではありませんか?」
イサベルは、ゆっくり首を振った。
「もはやカタラネスの父も母も、関係はありません。私はジェードの王妃になるのですから、夫のために働くのは当然のことです。」
アンドリューは、床に膝をついて、イサベル王女の手の甲に額を寄せた。
「心から感謝申し上げる。どう言葉にしてよいかわからないほどです。」
「そんな・・・。少しでもお役にたてたのなら、嬉しいことです。」
イサベルはそう言って、「男が見惚れるため」に作ってきた微笑みを見せた。
「私はあなたの妻になるのですから、当然のことをしたまでです。」
「・・・王女、」
「私はあなたの妻として・・・王妃として―――」
そう話すイサベルの瞳から、突然、ほろりと涙が零れた。
(え・・?)
驚いたのは、イサベルである。
なぜ涙が出るのだろう?
しかも、その涙がとまらない。
戸惑うイサベルに、アンドリューは自分のハンカチを差し出した。
アンドリューは、イサベルが、献血などというこれまで縁のなかった行動に気持ちが高ぶっているか、それが終わって安堵したための涙だと解釈した。
「朝食を持ってきましたから、ゆっくり召し上がってください。終わったら、館までネイチェルに送らせましょう。」
「え・・・。」
思わず出た声に、イサベルはごまかすように言った。
「あの、私の家臣もここへ来ていたと思うのですが・・・。」
「そうでしたね。彼らはとうに館に戻っています。後で直接お礼を言いに伺います。」
そうでは、ない。
イサベルにとって大事なのは、そんなことではないのだ。
イサベルの胸中など予想だにできないアンドリューは、去り際に言った。
「今回の経緯は、すべてお話ししなければならないと思っています。事が落ち着いたら、お話しします。あなたには・・・色々、きちんとお話ししなければなりません。」