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第122話:月満ちて -その4-

 皮膚にはりついた血を浴室で手早く洗い流しながら、アンドリューは過去のことを思い出していた。

 それは、プラテアードのアドルフォ城でフィゲラスがソフィアに刺され、大量に出血した時のこと。

 輸血が必要だと叫ぶ医師ジロルドに対し、アンドリューは自らの血を提供した。そしてフィゲラスへの献血を拒否したソフィアは、こう言った。

――― プラテアードの血を、ジェードになんてやれません。―――

――― この城に、ジェードのために血を分け与える人間などいません。プラテアードの血は、ジェードと混ざり合ってはならない。―――

 今やっていることは、まさにジェードの血をプラテアードに注ぐことだ。残念ながら、ソフィアもジロルドもミヒャエル卿も、皆リディと血液型が合わなかった。

 ソフィアは今、あの時の自分のセリフをどう思っているのか。

 あれはまさしく、プラテアードの多くの民の意見だ。

 そしてそれは、ジェードにとっても同じこと。

 思い余って国王の命令など出してしまったが、それは果たして正しかったのだろうか。

 命令ではなく「協力」にすべきだったか。

 誰のために血を提供させるのか公表できない者のために命令を出すなど、権力の私物化に他ならない。

 そういうことを、何より嫌って生きてきたというのに。

 だが、どうしようもなかった。

 これでリディが死んでしまったら、アンドリューもプラテアードも、全力でアンテケルエラへ攻め入るだろう。それは、何としても戦争を回避したいというリディの意思に反する。

 だから、どんな手段を使っても救わねばならないのだと。

 結局は、国民のための命令なのだ、と。

 今はそう自分に言い聞かせて、考えるのをやめた。

 後悔するのも反省するのも、すべてはリディが助かってからでいい。

 そう。

 何もかもすべて、その後でいい。


 白い海島綿のシャツに着替えたアンドリューが部屋を出ると、そこには思いがけずネイチェルが待機していた。

 ネイチェルは深く頭を下げ、言った。

「申し訳ございません、貴族の協力者の追加が叶いませんでした。」

「・・・血液の型がわからぬ使用人達が病院へ向かっているはずだ。他の者も再度動いているし、俺もこれから手伝いに入る。ネイチェルも―――」

「恐れながら、陛下。」

 ネイチェルは、アンドリューの足元に跪いた。

「医療に携わることができる人の手が足らぬ事は明白です。せめて、病院の院長ら幹部数名だけでも呼び戻してはいかがでしょうか。」

「・・・何?」

「ハロルド伯爵は王宮内の緊急事態に備え、幹部をヴェルデ市内のホテルに待機させております。馬車を走らせれば小一時間程で戻ることができます。」

 ネイチェルがアンドリューに意見をした事などあっただろうか?スパイに相応しい寡黙さと表情の無さ。黙って主人に従う従順さ。すべてを体現したような男だったが・・・。

「アンドリュー様がどれ程慎重に今回の事をすすめられたか重々承知しております。ですが、手術室で治療にあたっている二人の体力にも限界があります。助手を務めざるを得ない伯爵夫人に至っては素人です。手術が終わった後も予断は許さないでしょう。治療も看病も続くのです。」

 ここまで国家間交渉やリディの事が外部へ漏れないために細心の注意を払ってきたことを覆すことは、容易く「是」とはいいがたい。また、フィゲラスの知り合いが幹部内にいないかも気になる。今日このタイミングで、人払いをした病院でなら安全だと思い呼び寄せていたのに――。

 アンドリューはきつく眉根を寄せて瞼を閉じた。

 ネイチェルの進言は最もだ。

 ここで躊躇したことでリディが死んだら、後悔してもしきれないだろう。

「・・・わかった。すぐに行ってくれるか?」

「はっ!」

 風のように走り去るネイチェルの後を追うように、アンドリューもエントランスへ向かって走った。

 

 一時間後。

 病院の前に、狂ったように鞭を打たれて走り続けた馬車が停まった。

 ネイチェルが扉を開けると、年配の男性3名と女性1名が降り立った。

 この4人は、病院の院長と副院長、主席医師、看護師長である。

 院長らはネイチェルへ「患者の様子を見て、役割分担をします。」と言って手術室の中に入った。彼らには患者を救う事以外、眼中にないのかもしれない。

 その頃、アンドリューは、側近達が手分けして連れてきた「血液の型はわからないが、合えば採血可能な者」で溢れる部屋でマチオの手伝いをしていた。

 マスクに白衣、かつらで変装したアンドリューを、国王だと気付く者はいない。

 見渡せば、順番を待つ間に壁にもたれてうたた寝している者も少なくない。国王の命令とはいえ、献血をしても彼らには特典も褒美も無い。彼らの好意を無駄にしない方法は、リディを助けることだけだ。

 リディの事は心配だが、身体が震える様な恐怖が湧いてこないのは、必ず助かると本能が知っているから。何の根拠もないが、これまで何度となく危険に晒されているアンドリューには、ある種の勘が働くのかもしれない。

 ――― 後悔するのも反省するのも、すべてはリディが助かった後でいい ―――

 呪文のように繰り返しながら窓から見た蒼空には、銀の満月。雲一つない。

 こんな夜に、これ以上悪いことなど起こりようがない。

 ジェードもプラテアードも関係なく協力している稀有な時に、神が味方しないはずはない。


 一方、レオンは、病院から最も遠い場所で馬を降りた。

 日付は、間もなく変わろうとしている。

 だが、使用人の一人ぐらいは起きているだろう。

 そこは、カタラネス王国の一行が滞在している離れの館だった。

 幾つかの窓から、カーテン越しにオレンジ色の灯りが見える。

 迷っている時間はない。

 レオンはゆっくりと二度、呼び鈴を鳴らした。

 30秒程待つと、扉が開いた。

 侍従は、レオンの姿を見るなり訝し気に首を傾げた。

 「これは、侯爵・・。ご無沙汰だったあなたが、こんな夜中に何用ですか?」

 「夜分に申し訳ありません。今、陛下の御命令で、国の要人を救うため血液の提供者を集めております。しかし、まだ必要量に及ばず、協力のお願いに参りました。勿論、我が国の事で、カタラネスの方々にお願いをすることが良いとは思っておりません。しかし、」

「愚問ですな、侯爵」

 低く頭を下げた上から、厳しい声が飛んだ。

「我が国のことを何とお心得か?しかも血を提供などと・・・!愚弄するにも程がありますぞ!」

「それは、重々承知の上です。ですが―――」

 誰の命がかかっているのか、口が裂けても言えない。いや、言ったらお終いだ。詳細を語れない以上、説得の仕様もないだろう。

 レオンは、やはり諦めるしかないと思った。髪の毛一本程の可能性を期待したのが間違いだった。

「・・・わかりました。夜分に、大変失礼いたしました。」

 そう言って踵を返そうとした、その時だった。


「お待ちになって!」


 侍従の後ろに現れたのは、イサベル王女だった。

 王女は、女官長が止める手を振り払って、水色のナイトガウンを羽織った姿でレオンの前に立った。

「陛下の御命令とあらば、余程の事ですわね?」

「はい。多量の出血で、命の危機に瀕しています。」

「必要な血液の型は?」

 レオンが型を説明すると、イサベルは頷いた。

「ここには私を含めて3人おりますわ。そうですわね?」

 後ろに控えていた侍従は困り顔で返事が出来ないでいる。

「私はこの国の王妃になるのですよ?もはやカタラネスの王女ではないのです。夫の命令です、王妃となる私が力にならないなどありえないでしょう!?」

 侍従が慌てて

「まさか、王女様も血を提供なさるなどとおっしゃいますまいな?」

「私が行かないで、お前たちにも行けなどと言えないでしょう?」

 それにはレオンの方が、流石に首を振った。

「お待ちください!いくら何でも王女様にお願いはできません!陛下も、そこまではお望みにならないでしょう。」

 すると、イサベルはレオンを睨み上げた。

「侯爵は、ここへ何をしにいらしたのです!?人の命がかかっているとおっしゃったのは嘘ですか?さあ、私を早く採血の場所へお連れなさい!」

「いえ、しかし・・・」

「何を躊躇っているのです!?私が王族だから駄目だというのですか?私は私の血を受ける者が大臣だろうと召使だろうと構いませんわよ!?」

 青い海色の瞳が、太陽の光を帯びたように輝いて見える。

 レオンはイサベルの強い意志に圧倒されながらも、心を打たれた。

「わかりました。場所は王宮の敷地内の病院です。」

「他の2人は馬車で向かわせます。先に私を連れて行ってください。」

 レオンはイサベルの手を取ると、外へ出た。

 満月はまだ、煌々と銀の光で夜空を照らしている。

 レオンは繋いでおいた馬に跨ると、イサベルに向かって両腕を差し出した。

「お掴まりください。」

 イサベルはすぐに白い腕を伸ばしてレオンの両腕を掴んだ。と同時に軽々と引き上げられ、自分の身体がまるで宙に浮いたかと思うや否や、レオンの胸元に抱き寄せられるように鞍の上へ乗せられた。

 レオンは右手で手綱を掴み、左手でイサベルの肩をしっかりと抱いた。

「私のコートの襟をしっかり握っていてください。」

「・・・はい。」

 レオンは間髪入れずに、力いっぱい鐙を蹴った。

 鋭い嘶きと共に、猛スピードで馬が駆け出す。

 いつものんびり歩いていた果樹園も、庭園も、そして噴水も、目の前に表れてはあっという間に後ろへ流れていく。

 イサベルは、頬に、肩に、レオンの体温を感じながら、唇をかみしめた。

 自分を抱えるこの腕も、手も、何と力強いのだろう。

 もし自分が落馬するような事態になったとしても、レオンは絶対に身を挺して守ってくれるだろう。

 そっと見上げると、すぐ近くにレオンの鋭い顎があり、高い鼻梁があった。

 引き結ばれた唇が、余りに真剣で、切ない。


 駄目だ。


 胸が締め付けられそうに、苦しい。

 イサベルにとってレオンは、ジェードでの一番の拠り所だった。国王の側近で自分の世話係だったのだから、当然のことと言える。

 ところが、レオンは突然、世話役を降りてしまった。

 それを聞かされた時の衝撃は、今でもはっきり覚えている。

 目の前が、見るものすべてが、色を失くしてモノクロームになった。

 明日もあって当たり前の者を奪われる事の虚無感に苛まれ、思考が止まった。

 皇太后とのことも「負けたくない」などと偉そうに言っていたのに、急に気力がなくなって、どうでもよくなってしまった。

 あれ程自分を突き動かしていたエネルギーがどこから湧いてきていたのか、嫌でも思い知らされた。

 そしてそれは、許されないということも。

 しかし、湧き出した感情は、理性で抑え込める域をとうに超えていた。

 館の外で馬車の車輪の音が聞こえる度、馬の蹄の音が聞こえる度、今度こそレオンが来てくれたのではないかと、期待して窓の外を覗くようになった。そしてその度に落胆して、何も手につかず、頬杖をついて過ごした。

 結婚相手はアンドリューなのだから、アンドリューの事を考えなければと思った。ところが、アンドリューとの思い出らしい思い出もなく、顔を思い出そうにも髪の毛の色の印象だけが強くて、それ以外がぼんやりとしか脳裏に残っていないことに呆然とした。それと裏腹に、レオンのことばかり思い出してしまう。

 自分で言葉にしたとおり、レオンが親身に対応してくれたのは自分が未来の王妃だからに過ぎない。それに甘えすぎたのが悪かったのだろうか。

 自由奔放に振る舞いすぎて、とうとう愛想をつかされたのか。

 それとも、単にアンドリューが多忙だからレオンを呼び戻したに過ぎないのか。

 レオンといた時間を思い返しては、あの時ああすべきだったとか、こうすべきだったとか、そんな後悔ばかりしてしまう。

 そんなことばかり考えて、長い一日が終わっていく。

 そんなことばかり考えるたびに、自然と涙が頬を伝った。

 そんなイサベルが今宵窓の外を見て、ひたすら待ち続けていたレオンの姿を目にして、身体が独りでに動いていたのも無理はない。

 抑えていた気持ちが、走り出してしまった。

 いけないことだとわかっていたのに。

 許されないことだとわかっているのに。

 人の気持ちは、こうも止められないものなのか。

 軽やかな蹄の音を聞きながら、イサベルは今、この瞬間を永遠に留めておきたいと切に願った。

 レオンの早い鼓動が、掴んだ胸元から伝わってくる。

 逞しい首筋から、レオンの汗の臭いが微かに鼻をかすめた。

 全身が甘く痺れて、蕩けてしまいそうだ。

 もう、どうしていいかわからない。

 人の命がかかっているというこの状況下で、何と不謹慎なことだろう。

 それ以前に、婚約者のいる身分で何と許されない思いを抱いてしまったのだろう。

 でも。

 もう、どうすればいいかわからない。


 病院に到着すると、レオンはイサベル王女を誰もいない特別室に案内し、自分は採血の部屋へ向かった。そして、部屋の中にいるソフィアに事情を話し、特別室へ連れてきた。王女の世話をするには同性がよいと判断したからだ。

 レオンはイサベルをソフィアに託すと、「陛下へ知らせてきます。」と言った。だが、それをイサベルが呼び止めた。

「それは私が採血を終えてからにしてください。もし反対されたら、困ります。」

「アンドリュー様のお許し無くして、王女様の腕を傷つけることなどできません。」

「でも、時間がないのですから。」

 レオンは、焦るイサベルに優しく言った。

「イサベル様のお気持ちを尊重するよう、陛下に説明します。それを知れば、陛下は止めないと思いますよ。」

 レオンが出ていくと、ソフィアはイサベルの足元に跪いた。レオンからは「アンドリュー様の婚約者の王女様。今回の経緯はまったく知らない。」と言われただけだったが、ソフィアはその十数文字だけで色んなことを読み取らねばならなかった。確かな事は、とにかく、余計な事は喋るなということだ。

「ソフィアと申します。採血の手伝いをしております。」

 イサベルは、軽く頷き

「どうぞ急いでください。採れるだけ採っていただいて構いません。」

 ソフィアは驚いて思わず耳を疑った。

 一体、どこの国のお姫様が、どういう育ちをすればこんなセリフを言えるようになるのだろう?

 アンドリューの婚約者は、見目麗しいだけではなく、どれだけ素晴らしい王女様なのか。だが、それは輸血の相手がリディと知らないから言えるに過ぎないのかもしれない。

 そんなことを思いながらも、ソフィアは特別室に置かれた休憩用のベッドにイサベルを寝かせた。王女様を、他の採血者と同じ部屋に横たえることなどできない。失礼のないように丁重に扱わねばならないと、自然に頭が下がる。採血の道具を一式運び込んで、準備をした。

 イサベルの細くて真珠の様な白い腕をとると、ソフィアは今一度確認した。

「本当に、よろしゅうございますか?」

 すると、イサベルはきっぱりと言った。

「なぜ躊躇うのです?余計な気遣いは無用です。早くなさい。」

「・・畏まりました。先に準備をさせていただき、終わりましたらハロルド伯爵を呼んで参ります。」

「終わるまで、どれぐらい時間がかかりますか?」

「量にも寄りますが、採血の後、しばらくお休みいただく必要もあります。明日の朝までは、こちらでお過ごしください。」

「わかりました。そのこと、後から来る私の家臣と、バーンハウスト侯爵にも伝えてくださいます?」

「侯爵・・・?ああ、レオンのことですね。」

 イサベルは、ソフィアがレオンのことを名前で呼び捨てにしたことに、ドキリとした。

 何も気に留めず作業を続けるソフィアを、イサベルは思わず凝視した。

 年齢は、レオンより少し若いだろうか。

 マスクをしているが、長い睫毛に彫りの深い目、整い過ぎる横顔のライン、とても美しい女性に見える。どういう関係なのかと思わず尋ねたくなったが、それは、まずい。だが、不安で暗たんたる気持ちになる。

(駄目だわ。私は、なんと不謹慎で不道徳で不貞を働いているのかしら。)

 涙が零れそうになって、慌てて横を向いた。

 白い絹のシーツが、眩しくて目に染みる。

 長い夜は、まだ暫く明けそうになかった。


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