第121話:月満ちて -その3-
リディは、鉄の棒を用いて自ら堕胎した。
当然素人であるから、加減もわからず不適切極まりない無謀な方法のせいで、大量の出血が命を脅かしている。
リディの事は何もかもがトップシークレットだったため、この病院に元々務めていた医師も看護師も検査技師も、全員休暇をとらされ郊外に散っていた。
だが、幸いここには3人の優秀な医師がいる。フィゲラスをこのタイミングで呼び寄せておいたことも、奇跡としかいいようがない。しかも設備は国内屈指。これで助けられなければ、どこでも救うことはできないだろう。
ジロルドとフィゲラスと共にソフィアも駆けつけ、そしてお茶の準備をして戻ってきたシンシアも血相を変えて治療の手伝いに加わった。
リディは手術室に運ばれ、中はまさに戦場と化した。
心配して様子を窺おうとするアンドリューを、白衣をまとったフィゲラスが厳しく締め出した。
「陛下がお入りになることはできません。」
「何か、俺にできることはないか?」
「勿論ございます。」
「何だ?」
「大至急、輸血のための血液が大量に必要です。院内にストックはありません。陛下の御力で、血を提供してくださる方を集めてください。できればこの王宮敷地内全員に声をかけていただきたい。」
「何人いればよいのだ?俺の―――、まずは俺の血が使えないか?」
「陛下とは型が違います。しかもリディ様の型は発現率が低い。それに、軍人はともかく、貴族の方々は陛下の御命令でも血を抜かれるなど了承しないと・・思いますから、とにかく集められるだけ集めてください。リディ様の事が表沙汰にならないよう配慮が必要ですから、難しい面もあると思いますが。」
「それは、善処する。」
アンドリューの隠しきれない不安気な表情を見たフィゲラスは、分不相応とは思ったが、アンドリューの手を、自分の両手で覆うように力強く握りしめた。
「私は、必ずリディ様をお助けします。今までのように、必ず。」
アンドリューはそれに応えるよう、深く、頷いた。
すぐに病院内の院長室を拝借し、国王名で書類を認めると、王宮の至る所へふれまわるよう側近達へ命じた。
思いつく限りの命令を一通り下すと、部屋の中にはアンドリュー一人が残った。
エストレイ達アンテケルエラの要人達は、既にヴェルデ市内屈指の高級ホテルへと発った後だった。それは、この上なく都合がよかった。エストレイにこのことを告げる必要はあるが、それは今ではない。
今は、リディを救うことだけに集中したい。
―― これで、第三の事象です・・・!だから、覚書は白紙に――
アンドリューは、両手で額を覆った。
覚書には、懐妊が認められなかった場合と、懐妊が認められた場合の戦争解禁時刻と共に、これらの確認が不可能となった場合は、覚書の一切を白紙に戻すと書かれていた。
今宵、リディの懐妊は確認された。次の確認は出産後だったが、それが不可能となったわけだ。
リディが何を考え、何の覚悟を決めていたのか、全く気付いていなかった。
アンドリューの中で「白紙」となる事象とは、三人のうち誰かが死ぬか、別の国が干渉してきた時だと思っていた。そしてそれらは、限りなくゼロに近い事だと過信していた。
一言相談してくれたら、などと思うのは勝手な言い分だ。リディは自分のせいで戦争になるということに責任を感じ、阻止したいと願っていたことを知っていたのだから。
アンドリューは、逸る心を押さえつけるように、深く深く息を吸った。
じたばたしても始まらない。落ち着いて、できることが最大限実現されるように努めるしかない。
リディは、こんなことで死んだりしない。
計算していたはずだ。
バスルームなら、跡形もなく血をきれいに流して清掃できること。
病院なら、すぐに治療できること。
自分が死んでしまったら、ジェードがアンテケルエラを攻めるのを止められなくなること。
エストレイがジェードにいる間に堕胎してしまえば、無駄な時間を置かずに覚書が白紙になったという確認をさせ、署名させられるということ。
リディはちゃんと計算して動いたのだから、そのとおりに叶えなければ。
手術室の裏手に、採血のための部屋が設けられた。室内にハロルド伯爵とソフィアが待機し、廊下ではアランが訪れた提供者を整列させ、問診票の記入を求める。
近衛兵達の動きは、早かった。命令系統が徹底されているため、夜間にも関わらず、非番の者も含め提供者はすぐに集まった。だが、軍人以外の姿は一向に見当たらない。
アンドリューのところへ報告に来た側近の一人は、首を大きく振った。
「私は使用人達のところへ行きましたが、駄目でした。彼らはそもそも自分の血液の型など知らないのです。」
続いて入ってきた側近も苦い顔だった。
「貴族達も駄目です。深夜ですから、まず応答して下さらない。陛下の御命令ですから、当然高貴な方への輸血だと何度も説明申し上げましたが、申し出てくださる方が一人もいないのです。どなたも血液の型があわないとおっしゃいます。そう言われれば、それ以上どうすることもできません。」
アンドリューは苛立ちを露わにして机を叩いた。
「それで諦めて戻ってきたのか?もう一度すべての部屋を回れ!応答しないなら応答するまで扉を叩くけばいいだろう!?」
報告に来た側近達は頭を下げ、すぐに部屋を出て行った。
フィゲラスが懸念していた以上に酷い現実だった。
側近達の責任ではないとわかっていながら、思わず語気を強めてしまった自分に嫌悪を感じる。
アンドリューは、採血の部屋へ向かった。廊下に並んでいるすべての軍人が、弾かれたように次々と深く頭を垂れる。
消毒薬の臭いの立ち込める室内は衝立で複数に仕切られ、間に置かれたベッドに提供者達が横になっていた。
アンドリューは作業中のハロルド伯爵を見つけ、一区切りついた隙に隅へ呼んだ。
「どうだ?血は足りそうか?」
すると、ハロルドは厳しい顔つきで言った。
「アンドリュー様。血液は、あるだけすべて使えるわけではないのです。それに持病のある者やアルコールが残っている者などは採血さえお断りしています。とても足りていると申し上げられる状態ではありません。」
「使用人達は自分の血液の型を知らないと言っている。遠回りだが、協力者の型を調べて、合えば採血という方法はとれないか?」
「私とソフィア殿に、とてもその余力はございません!王宮内で、他に声をかけていない方はいらっしゃらないのですか?こんなに沢山の人がいて、なぜこれだけなのです!?」
常に冷静なハロルドとは思えない、憤りの声だった。
だが、今一番歯痒い思いをしているのはアンドリューだということを思い出し、ハロルドは苦し気に頭を下げた。
「申し訳・・ございません。」
「いいや。人手のことだが、マチオを呼ぼうと思う。薬剤師だが、色々経験してきている。採血もできるかもしれない。」
「ああ・・・、それは助かります。」
「それから、俺も手伝う。」
ハロルドは驚いて首を振った。
「とんでもない・・!私が余力がないなどと軽率な事を申し上げたからですね。どうぞ戯言とお捨て置きください。」
「いや。初めからそのつもりだった。俺は軍の衛生班にいたから、一通りの手伝いはできる。」
「陛下自らそのようなことをされては、患者が一体誰なのか、いらぬ噂が立ちます。」
「白衣を着て、マスクをする。鬘もかぶる。」
「お気持ちはお察ししますが、・・・陛下はどうぞ、リディ様のお傍に。」
アンドリューは苦笑した。
「俺は入室禁止だそうだ。リディの意識はないし、直接できることなど今は何もない。だから、せめて外でできることに携わりたい。とても・・・じっとなどしていられない。」
ハロルドは、アンドリューの気持ちを受け止め、深く頷いた。
「向かい奥の部屋なら、大勢一度に入ります。血液の型を調べるための準備を整えましょう。そこでマチオ殿と一緒に。」
「わかった。」
その時のアンドリューは、正装を血塗れにしたままだった。以前、アランを助けるために毒矢を受けたリディを介抱した時のことを思い出す。あの時だって、相当危険な状況だった。それをフィゲラスが救ってくれた。今回だって、大丈夫だ。
アンドリューが廊下に出ると、レオンが待っていた。レオンは、大臣や神使といった特に位の高い貴族達の間を渡り歩いていた。しかし、リディと同じ型だと名乗り出てくれたのは、たった二人だったという。
アンドリューは、奥歯を噛みしめ、言った。
「もう一度頼みに回ってくれ。寝ていても構わない、国王の命令なんだ、無理矢理でも起こせばいい。それから他に声をかけていないところが無いか、もう一度確認を。俺はマチオを連れてくる。」
「マチオは、ヴェルデマール王子の世話で手一杯だ。」
「ここへ連れてくるから、乳児室にジャックを待機させておけ。とにかく一人でも多く提供者を集めてくれ。頼む。」
レオンは、アランが廊下で軍人に問診票を書かせ、チェックをしては「こちらへどうぞ」とか「夜中にお呼び立てしたのに、申し訳ございません。」と頭を下げては断っている様子を目にした。兵士は5、60人以上集まったはずだ。それでも駄目なのか。
固く閉ざされた手術室。
中の様子がわからない分、不安だけが煽られる。
実は、側近達で手分けした中に二か所だけ入れていなかった場所がある。それは、レオンが避けるべきだと判断した場所だ。一つは、皇太后アルティスのところ。皇太后に献血の依頼などできるはずがない。側近達に声をかければ、すぐに皇太后の耳に入って要らぬ詮索をされる虞がある。
そしてもう一か所はーーー
アンドリューの苦悩の表情が、レオンの脳裏に突き刺さる。
背に腹は代えられないか。
レオンは、表に繋いでおいた馬に乗り、手綱を強く引いて走り出した。
マチオがヴェルデマールの世話を初めて2か月。
乳母なる存在がいないため、何から何まで一人で世話をしていた。銃に撃たれ負傷した足も完治に近く、ヴェルデマールを抱いて部屋の中を歩いたり、バルコニーから中庭に出て散歩したりすることがリハビリになっている。
しかし、朝から夜中まで一緒で、他に頼れる者もいないため、強い忍耐力を持つマチオも流石に心が折れそうになっていた。
ヴェルデマールはあまり夜泣きしない方ではあるが、常に気にしているため、慢性的な寝不足になっている。
アンドリューがマチオの下を訪ねると、丁度ヴェルデマールにミルクを与えているところだった。
マチオは、アンドリューの血塗れの正装を見て、アンドリューが怪我をしたのではと焦って部屋の中へ入れた。
アンドリューは手短に事の経緯を話し、すぐに病院へ一緒に行ってほしいと頼んだ。
マチオはリディの容態に顔を青くしながらも、すぐにヴェルデマールに必要な物を籐篭に詰め込んだ。
「私は先に病院へ向かいますから、アンドリュー様はお部屋に戻ってお着換えと、湯浴みもされた方がよろしいかと。血の臭いも、そのお姿も、誰にとっても心臓に悪い。」
「少しの時間も惜しいのだ。」
「衛生面のことも考えれば、必要とおわかりでしょう?それにリディ様が目を覚ました時、そのお姿でお迎えなさる気か?」
「・・・そうだな。」
アンドリューは自室に戻ると、なぜか、ここに戻るのがものすごく久しぶりのように思えた。
夕方まで居た場所なのに、まるで遠い昔のことのようだ。
正装の上着もシャツも脱ぎ、ふと指を見ると婚約指輪が目に入った。ラリマーの水色が、くすんで見える。手が血塗れなのだから、指輪も汚れてしまったのだろう。
婚約指輪を他の女の血で汚すなど、あってはならないことだ。
だが、それに罪悪感の無い自分には、もう、この指輪をはめる資格はないだろう。
アンドリューは指輪を抜き取ると、白い布に包んで引き出しの奥深くへと仕舞った。