第120話:月満ちて -その2-
アンドリューは一人、病院内の国王専用の部屋で待機していた。
自分では意識していないが、落ち着かないらしく、とても座ってなどいられない。
カーテンの隙間から夜空を見れば、銀の輪を帯びた満月が、白い雲の狭間に見え隠れする。
結果がどちらであろうと、準備は万端だ。
どこからでも、何でもかかってくればいい。
だが。
それと、リディの心の在り様は別物だ。
どうすればいいのか、どうすべきなのか、わからない。リディに直接聞きければいいが、話題を出すことさえ憚られる。
診察の様子を複数の男の目にさらすことだって、できることなら避けさせたかった。だが、こういう儀式的な習わしは王家では昔からよくあることだと、ハロルドに諭された。
王族は、時に、人間の尊厳より王家の務めを優先しなければならないのか。
ある意味、ずっと王家から離れて生きてこられたアンドリューには縁のない考えだ。しかし、国王となり、リディも王女という身分から逃れられない今、その運命が骨身に染みる。
午後9時をつげる大聖堂の鐘の音と同時に、部屋の扉がノックされた。
「・・・!」
三人の診察が終わったことを、レオンが知らせに来たのだ。
病院の中にも、礼拝堂がある。大聖堂とは比較にならない規模ではあるが、ステンドグラスのついた高い天井、金箔で覆われた祭壇、月の光をとりいれる天窓を備えた小部屋も備えられている。
細長い部屋の両脇の壁に備え付けられた金の燭台には無数の灯が揺らめき、厳粛な雰囲気を演出していた。
祭壇の真正面の長椅子に、ハロルド伯爵とジェードの第一神使が控えている。
左側にエストレイらアンテケルエラの要人、右側にソフィアらプラテアードの要人が待機していた。
そこへアンドリューとレオンが入室し、祭壇に最も近い特別席に座ると、ジェードの第二神使が、儀式の開始を宣言した。
礼拝堂の左に設けられた扉から、シンシアに連れられ、リディが現れた。
リディは、この「見世物」のような状況にも屈辱を禁じえない。だが、数段の階段を上がり、祭壇の中央に一人立つと、顎をグッとあげ、しっかりと前を見据えた。
宙を睨みつけるように目を見開けば、己の立場が身を引き締める。
第二神使が徐に金の箱を手に持つと、三国の第一神使が立ち上がり、第二神使を背後から取り囲んだ。
第二神使は箱の中から取り出した封書を銀のレターオープナーで破り、中の紙を取り出す。折り畳まれた紙を開き、内容を確認すると、紙の上下を持って高く掲げて見せた。
「ジェード王国、医師、ルーネス・ディスタンシア・ディア・ハロルド伯爵の診断は、懐妊!」
リディは、最も近くにいるアンドリューの顔を、怖くて見ることができない。
ただ奥歯を噛みしめ、瞬きを忘れたかのように瞼に力を込める。
レオンは、隣に座るアンドリューの横顔をそっと盗み見た。その落ち着き払った様子は、尋常ではない。不眠不休で準備を万端にし、何がどうなろうとリディとプラテアードを守る用意をしていた。その自信が、額に滲み出ている。
そして。
「アンテケルエラ王国、医師、ジェイミー・コン・ショティス子爵の診断は―――、懐妊!」
決定だ。
多数決なのだから、これで、決まりだ。
エストレイは嬉しさを堪えきれない笑みを浮かべた。
リディは胸一杯に深く空気を吸い込むと、何の感情も見せないように努めた。どんな感情を見せようと、エストレイを喜ばせるだけだからだ。
最後に、プラテアードの封が開かれる。
「プラテアード国、医師、ジロルド・ファン・アルヘンティーナ氏の診断は―――、懐妊!」
リディは、その結果を噛みしめるように瞼を閉じた。
自分の体のことだ。リディ自身が、一番よくわかっている。それを、三人の医師が確かめただけのことだ。
「それでは、隣へお願いいたします。」
懐妊していなければ、その場で署名することになっていたが、懐妊していた場合は王位継承者が誕生したことになるため、神使による様々な儀式を伴うという。
王家の血を継ぐ者と神使のみが、月の光が降り注ぐ特別な小部屋へ向かった。
リディはミヒャエル卿に手をとられ、最後に部屋に入る。
扉の閉まる音を確認すると、エストレイ、アンドリュー、そしてリディは、額を飾っていたティアラを外した。
白、緋、藍、三色の裏紋章が、一斉に月光に反射して輝く。
それは、この世の神秘としかいいようのない美しさだった。
エストレイは、ここぞとばかりにリディの額を食い入るように見つめた。
リディは、エストレイの姿の一部でさえ視界に入れないよう、視線を伏せがちにしたまま、定位置に着いた。
三国の神使が部屋の中央にある特別な祭壇を囲むように立ち、その脇に、王子と国王と王女が跪き、両手を胸の前で合わせる。
神使達が声をそろえて経典を唱え始めた。
その時間が、いったいどれぐらいだったのか。
長いのか、短いのか。
早く終わってほしいのか、終わらないでほしいのか。
今のリディに祈りの気持ちは無い。ただ、この時間が過ぎるのを待つだけ。
やがて神使達の声がやみ、署名の段階へと進んだ。
リディがゆっくり目を開けると、中央の祭壇に歩み寄るアンドリューの姿を捉えた。
国王であることを意味する緋色のマントが、ゆったりと翻る。
アンドリューは用意された金のペンを手に取ると、卓上に置かれた紙に素早くペンを走らせた。
(・・・!)
それは、一瞬の事だった。
アンドリューがペンを置いたときに、指元で何かが光った―――ような気がする。
リディの心臓が、敏感に反応してドクンと音をたてた。
アンドリューはすぐに手を降ろしてしまったため、後姿を目で追ってもそれ以上は確認できなかった。
次がエストレイの番で、リディは慌てて下を向いた。
目に入る物がすべて黒く見える。
こういう時の女の勘は、鋭すぎて厄介だ。
指で光る物・・・
装飾品・・・
指輪。
アンドリューが装飾品を身に付ける趣味があったとは思えない。
国王の証の指輪があるとは聞いている。それならいいが、あれは―――違うと思う。
そうだ。
常に、最悪の事態を想像しておかねば。
最悪の事態に耐えられるよう、心の準備をしておかねば。
自分に都合のよい想像で安堵してはならない。
「リディ様」
ミヒャエル卿に小さく呼ばれ、リディは静かに祭壇へ向かった。
見上げた天窓の遥か彼方に、銀の月が見える。
額がほんのりと藍色に光っているのを感じながら、リディは三段目に署名した。
書いてある文面は、これまで何度も確認してきた内容と変わらない。
リディは文字を追っているふりをして、1段目のアンドリューの名前をそっと左指でなぞった。そんな他愛ない事でも、リディの指は甘く痺れる。
リディが重量感のあるペンを置くと、すぐに神使達が続いて署名した。
その書面は金の箱に仕舞われ、儀式は終わった。
小部屋から出て、アンドリュー達ジェードの要人が真っ先に礼拝堂を出ていく。
次にアンテケルエラの要人達が出ていくのだが、その間際、エストレイがリディの方を見た。
「リディ。」
反応したのはソフィアである。すぐにリディの身体を隠すように前に立った。
それを見たエストレイは、低い声で笑った。
「心配せずとも、今は、近づくようなことはしない。」
リディは、ここでエストレイを睨み返して抗議の意思を表さねばと思った。だが、ソフィアがリディの視線を完全に遮った。
エストレイは、少し声を張り上げた。
「リディ。そなたの身体にはアンテケルエラの高貴なる血が宿ったのだ。それをしかと自覚し、存分に自愛せよ。」
ソフィアの腕が僅かに動いたところを、リディの手が強く押さえつけた。こんなところで騒ぎを起こしてはならない。アンドリュー達が去った後を見計らって、好き勝手な発言をしているのだ。エストレイの独り言として、放っておかねばならない。
ソフィアの攻撃的な目を見たエストレイは、更に続けた。
「プラテアードは、近い将来アンテケルエラのものとなることを、家臣共々理解していないとみえる。」
自分以外への蔑みなら、リディが表に出て反論すると踏んだのだろうが、その魂胆には乗らない。ソフィアが落ち着いて顎をひくと、エストレイはやや不機嫌になった。そして。
「早々に覚悟をかためよ、リディ。アンドリューもカタラネスの姫と婚約したのだ、もはや未練もなかろう?」
「・・・!」
リディの呼吸が止まったのを、ソフィアは背中で敏感に感じ取った。
エストレイ達が出ていくと、ソフィアは恐る恐る振り返った。
アンドリューが婚約したなどと、聞いていない。いや、そんなことをアンドリューがソフィア達に言う筋合いはないが、リディに告げるとも思わない。エストレイの苦し紛れの嘘なのか?そこまで間抜けな王子だとは思わないが・・・。
礼拝堂を出たところに、シンシアとアランが待機していた。ここで、リディとソフィア達は別れることになる。
ソフィアは、どうしてもリディの表情を確認しておきたかったが、敢えてそれを避ける様にリディは身を捩り、去り際の言葉さえ、ほぼ背中越しだった。
「ソフィア、ジロルド先生、ミヒャエル卿・・・。遠いところ、本当に御苦労だった。だが、これからも更に苦労をかけてしまう。キールにも、本当にすまないと伝えてくれ。」
ソフィアは、首を振った。
「いいえ・・・!いいえ、リディ様。それよりも、私は・・・!」
アンドリューの婚約というのが本当で、それをリディが今初めて知ってしまったのだとしたら、どれ程の衝撃を受けているだろう?国の事は、自分達で守る覚悟も準備もできている。だが、リディの事は、心配しかできない。
ソフィアの言葉など耳に入っていないかのように、リディは前へ進んだ。アランが小さく「ソフィア殿が、お話ししたいことがある様ですよ。少しなら、僕は目を瞑ります。」と囁いた。
「・・・ありがとう、アラン。でも大丈夫。ソフィアが何を聞きたいか、大体わかるから。」
リディはそのままゆっくりと歩みを進め、元いた控室に戻った。
シンシアはリディの着替えを手伝おうとドレッサーの前に立ったが、リディは疲れきった様子で長椅子に腰かけた。
「伯爵夫人。着替えの前に、お茶をいただきたいのですが・・。」
「では、ハーブティーをお淹れしましょう。お湯をいただいてきますので、少しお時間かかりますがよろしゅうございますか?」
「ええ。お願いします。」
「部屋の外には夫とバーンハウスト侯爵とネイチェルさんがいますから。何かあれば、お声をかけてください。」
「三人も待機しているのですか?」
「当然でございますよ。あんな獣がいるのですから、・・・。」
そう言いかけて、シンシアは口を噤んだ。エストレイを思い出させるような事は口にしないと決めていたのに。
「ありがとう、伯爵夫人。・・・私は、大丈夫ですから。」
リディが、とても綺麗に微笑んだのを見て、シンシアはなぜか切なくなった。
「すぐ、戻ります。」
扉の閉まる音を聞き届けると、リディはゆっくり立ち上がり、火の入っていない暖炉の前に立った。
煉瓦の壁に立てかけられた鉄製の火掻き棒を、躊躇なく手に取る。
鋭く尖る棒の先端を目の前に翳し、ゆっくりと呼吸を整えた。
この二か月、リディは散々考えに考え、結局、これしか思い浮かばなかった。
一度読んだだけで頭に叩き込まれた「覚書」。
懐妊しようとしまいと、待っているのは戦争。いかに一国の跡継ぎの問題とはいえ、大勢の命が失われる事はあってはならない。だから、その中の一文に注目し、何ができるか考えてきた。
(情けないが、私にはこれしか思いつかなかった。それに、私ができることはこれが精一杯・・。)
控室には、洗面所とバスルームも備えられている。
リディは火掻き棒を持ったまま、バスルームに入った。
恐怖は、ある。
しかし、時間をかけて覚悟してきたことだ。
そして、幸いなことに自らを傷つけたくなる決定打を得ることができた。
アンドリューの婚約。
カタラネスの姫とは、舞踏会でアンドリューと踊っていたあの若く美しい王女のことだろう。
いつかは来る日だと思っていた。アンドリューの視線がどんなに優しくても、二人の間を流れる空気に甘さを感じたとしても、来るべきものは来ると、いつも、どんな時でも心の片隅に置いて覚悟していたではないか。
心臓をナイフで切り取られたかのような痛み。こういう時、心の痛みに負けない程強く、自分の身体を滅茶苦茶にしたくなる。今、得ることができた最大の「痛み」が、これから己に痛みを与えることを力強く後押ししてくれるだろう。アンドリューとの優しい時間の思い出は、痛みを耐えるには弱すぎる。
下唇を噛みしめると、歯が震えていた。
(私は国家の首長らしいことを何もできず、災いばかりもたらしてきた。そんな私はいかなる痛みも受け止めるのが当然だと思っていたが・・・、その痛みを上回る心の痛みを与えられた。私は幸運だ。)
様々な思いを噛みしめ、リディはドレスの裾を掴んだ。
シンシアが戻る前に、やり遂げなければ。
中途半端で終わってはならない。
だからもう、躊躇する時間は無い。
リディは固唾を呑むと、火掻き棒の先端を自分の足の付け根に突き刺した―――
ソフィア達が部屋に戻ると、そこには思いがけず先客がいた。
「フィゲラス・・・!?」
そこには、アンドリューの側近のジャックが連れてきた医師フィゲラスが待っていた。
医師ジロルドは大層喜び、駆け寄って両手を握った。
「どうしておったんじゃ?リディ様とは一緒ではなかったのか?」
フィゲラスは長い間、ヴェルデ市内の薬局でひっそりと生活し、時折訪れるジャックから粗方の事だけは聞いていた。だが、一体いつになれば出られるのか、リディに会えるのか、全くの未定だった。それが今日、突然ジャックが来て「行きますよ。」と言われ、何が何だかわからないまま黒い布で覆われてここに連れてこられたのである。
そこへ、アランが入ってきた。
「アンドリュー様からの伝言です。フィゲラス先生は、このままソフィア殿達と共にプラテアードへ戻るように、と。」
「・・え・・?」
フィゲラスは驚いた。
「リディ様は、どうなるのです?」
「リディのことは、戦争が終わるまでジェードでお守りします。」
「しかし、私は・・!」
「これ以上、物音も立てられないような生活を先生に強いることはできません。かといって、先生を王宮に招くことができないのは、先生ご自身よくおわかりのはず。リディをプラテアードに戻す算段がつかない以上、先生をジェードに留め置いてその能力を眠らせておくのは勿体ないと。プラテアードに戻り、医師として御活躍されることが最良だという結論になったのです。リディも、同意したことです。」
そう言われれば、反論できない。
フィゲラスが頷くと、ソフィアはアランの肩を支えて、小声で言った。
「アンドリュー陛下にお伝えしたいことがあるの。伝言を頼まれてくれます?」
「ええ。僕の歩く速度で伝えるのでも構わなければ。」
「いいわ。あのね―――、」
ソフィアの言伝をアランが伝えると、アンドリューはすぐさま立ち上がった。
「エストレイが、そんなことを?」
「はい。アンドリュー様達が礼拝堂を出た後に、リディへ・・・アンドリュー様が婚約したことを伝えたそうです。ソフィア殿は、リディが予め知っていたならいいが、知らなかったのなら、アンドリュー様の耳に入れておいた方がよいだろうとおっしゃって。」
アンドリューは、固く瞼を閉じた。
知ってしまったことは、取り消せない。嘘をついても仕方のないことだ。ましてや弁解などあり得ない。
「リディは、まだ控室か?」
「はい。レオン達が部屋の外で見張っています。」
アンドリューは、リディのいる部屋へ向かって歩き出した。
元々、伝えるなら自分の口で伝えようと思っていたことだ。
ラリマーの国の王女と婚約したのだと。
だが、それをリディに伝えてどうする?どんな言葉を尽くしても、傷つけるだけだというのに。
抗い難い真実を告げて、何をフォローできるというのか?
これが国王の任務だから仕方がないとでもいうのか。
そんなこと、言う意味もない戯言だ。
ではなぜ、自分の口で、真実を告げなければならないのか。
アンドリューの告白を、リディが静かに受け止めるとわかっているというのに。
自問自答しても答えが見つからないまま、控室に着いた。
廊下で待機していたハロルド伯爵が、深くお辞儀をする。
「リディは、まだ中か?シンシアも一緒か?」
「シンシアはお茶の準備で少々前に出ていきました、中はリディ様お一人です。」
「・・・少しだけ二人で話がしたい。待機していてくれ。」
「かしこまりました。」
軽くノックし、静かに扉を開けて、中に入る。
殺風景な部屋の中には、誰もいない。
洗面所だろうか?
アンドリューは、洗面所に繋がる扉に近づいたが、物音一つしない。
「リディ?」
外にでていないのだから、この中にいるのは間違いない。
しかし、扉の隙間から洗面所の明かりが漏れていないのはどういうことだろう?
「リディ、俺だ。・・・話がある。ここで待たせてもらうぞ。」
返事はない。
もしかして、バスルームにいるから声が聞こえないのか。
アンドリューは、扉を大きくノックした。
何の反応もない。
本来ならシンシアを待って確認させるところだが、なぜか、嫌な予感がした。
「入るぞ。」
思い切って扉を開け、洗面所に入った。
電気をつけたが、誰もいない。
残るはバスルームだけだが、ここも明かりがついていない。
窓が無い空間なのだから、真っ暗な中、人がいるとも思えない。
どういうことだ?
厳重な見張りがいるのに、さらわれたとでもいうのか?
アンドリューは慌てた。
もはや、使用中でも構わない。
バスルームの明かりをつけ、中へ飛び込んだ。
「・・・!!」
目を見開いた。
声など出ない。
アンドリューが目にしたのは、大理石の床に横たわる白いドレスのリディ。
そのドレスの下半身が、真っ赤に染まっている。
辺り一面、血溜りができている。
リディの手は、先端が赤く汚れた火掻き棒を握っていた。
全身の血の気がひいていく。
だが、アンドリューは弾かれたようにリディの傍らに跪き、その上半身を胸元に抱き寄せた。
何という青い顔。唇の色もない。
頬を軽く叩いて、意識の有無を確認する。
「リディ、・・・リディ!!」
アンドリューの叫び声は、控室の外にも届いた。
「アンドリュー様、どうかなさいましたか!?」
ハロルド伯爵はバスルームにかけつけるなり、言葉を失った。
アンドリューは大声で叫んだ。
「すぐに治療の準備を!レオンにはジロルド先生とフィゲラスを呼びに行かせろ!早く!!」
その声に反応したのか、リディの瞼が僅かに震えた。
アンドリューはリディの血塗れの手を取って握りしめた。
「聞こえるか、リディ?俺のことがわかるか!?」
するとリディは、目を開けることはできないが、アンドリューの手を力一杯握り返して唇を開いた。
「これ・・で・・・。」
「え?」
「これで・・・、回避・・・」
何を言いたいのか、アンドリューにはわからない。だが、これ以上言葉を発するのは命取りになるのではないか。
「後で聞く。後で聞くから、今は喋らない方がいい。」
だが、リディは首を振り、振り絞る様に言い放った。
「これで、第三の事象です・・・!だから、覚書は白紙に・・・!」
アンドリューは、ハッと息を呑んだ。
覚書の最後の一文。
―――上記の事象の確認が不可能となった場合には、本覚書の一切を白紙に戻す―――
アンドリューは、何度も頷いた。
「わかった。・・・わかったから、もう何も言うな。」
リディは、少し安心したように息を吐いて、首を落とした。
アンドリューの腕の中で、フッと重みが増した気がした。
このまま終わってしまうのか。
そんなことは、許さない。だが、その可能性を決して否定できない状況にある。
リディは、目を開けてアンドリューの姿を見たいと思った。
だが、瞼が重くて何も見えない。
身体の感覚が徐々になくなり、意識が遠のいていくのがわかる。
そんな中で、リディは確かにアンドリューの声を聴いた。
「愛している・・!だから、死なないでくれ・・。」